『遺伝・環境』について
すでに、他のテーマでも何度となく書いていますが、一つのテーマとして一応触れて置こうと思います。まず、始めに言っておきますが扱うテーマがテーマ上、優生思想、差別のように聞こえてしまう可能性がありますが、私はそのようなことを説いているのではないことをご理解ください。
差別や優性思想は断固反対です。差別などを無くすにはまず知ることから始めなければなりません。“遺伝か環境か”“先天的か後天的”かという問題は昔から繰り返されてきました。
ある者は才能や能力、知力やパーソナリティは遺伝で決まるといい、ある者は環境で能力や知力、パーソナリティは決まると言います。果たして、どちらなのでしょうか? その争いには、すでに終止符がすでに打たれているらしいです。
遺伝学、行動遺伝学の学問では、個人差はあるものの遺伝の影響を少なからず30~60%受けているとされています。つまり、間を取って50%は遺伝の影響を受け、残りの50%は環境の影響を受けるとされていることになります。
その遺伝50%、環境50%が高いと見るか低いと見るかは人それぞれです。というわけで、周知のことと思いますが、才能というものは確かに存在して、できる人はできる、できない人はできないという残酷な真実を叩きつけられることになります。
メンデルは遺伝の法則で『優性の法則』『分離の法則』を突き止めました。エンドウ豆を使った実験は有名ですよね。綺麗な丸のエンドウ豆と、しわのあるエンドウ豆を掛け合わせると、決まって優性な丸のエンドウ豆になるというのが『優性の法則』です。
そして分離の法則とは、同じ丸同士のエンドウ豆を掛け合わせても、しわのあるエンドウ豆が系譜に含まれていれば、4分の1くらいの確率でしわのエンドウ豆が現れる、というもの。
これを人間に置き換えると、親の運動能力が高ければ、子供の運動能力が高くなる傾向があるし、親の知能が高ければ、子供の知能が高くなる傾向があります。
能力以外にも、病気やパーソナリティ、親の身長、体型なども子供に引き継がれ、親が高身長なら子供も高身長になりやすく、親が肥満型なら子供も肥満になりやすいのです。
悲しいことに反社会的な行いをした人の遺伝子を継ぐ子供も、そうでない子供より反社会的な行動を起こす確率が何倍も高くなるらしいです。近年急激に名前の知られるようになったサイコパスという人たちも、遺伝による要因が大きいらしいことが研究によってわかっています。
優生学的なことを言っている訳ではないことを理解して欲しいですが、能力的な要素以外にも、親や近しい血縁関係者に精神的な疾患、または障がいを持っていれば、子供にも『分離の法則』的に、その障がいが遺伝してしまう確率も高くなります。
あの文豪として知られる芥川龍之介の母親は精神的疾患を患っていて、芥川も幼少のころからずっと、いつか自分も母のようになるのではないかと悩んでいたことが自殺の一因になったらしいという話は有名です。
芥川龍之介がそのように考え過ぎる性格になった一因には、環境もあるでしょうけれど、母親の精神的な遺伝が影響しているのは間違いないでしょう。
しかも遺伝の影響は歳をとるごとに強くなるという研究結果が出ているらしいです。歳をとると親、あるいは祖父母に似てきたな、という話をよく聞きますが、それは歳をとるごとに性格や外見なども似る傾向が高くなるからなのです。
そのような事情から、ナチスなどが優性思想を推し進め、障がいのある方たちを虐殺した悲しい歴史があります。ナチスだけでなく、日本でも“旧優生保護法”のもと、許可なく避妊手術をされた方々が多く存在しますね。
例え、障がいを持っていて、その障がいが生まれて来る子供に遺伝する確率が高くても、子供を生んではならないということではありません。
ちゃんとよく、子供のこと家族のことを考えて納得して、子供ファーストで子供を愛してあげられるなら肯定されます。子供を生む自由は誰にでもあるのですから、旧優生保護法という名において、例え国であっても利己的なエゴの押し付けは許されません。
ちょっと話がそれましたが、そこで環境支持派が反論する文句が、親の運動能力が低くても、運動能力が高い子が産まれる場合だってあるし、親の能力が低くても、能力の高い子供もいるじゃないか、ですね。
確かに、鳶が鷹を生むというのは、ちゃんと遺伝学で証明がされているらしいです。メンデルの分離の法則で言われている通り、遺伝子は何世代も遡って遺伝します。
そして、遺伝は親の性質の足し算で追加されるのではなく、組み合わせによって化学反応のように異なる効果を生むとされます。よく勘違いされがちですが、優秀な遺伝子ばかりを残しても、生まれてくる子供が優秀な遺伝子の足し算でさらに優秀になるわけではありません。
優秀な両親を持っても、遺伝の組み合わせによっては子供も優秀になるとは限らないし、余り優秀ではない両親から生まれた子供が、遺伝の組み合わせによって優秀になることも当然あります。
鳶が鷹を生むとはつまり、その遺伝子の化学反応“遺伝子の突然変異”のことを言っています。この“遺伝子の突然変異”があったから、人類は絶滅することなく、認知革命や、農業革命、工業革命、科学革命などを起こすことができ、これほどまでに発展できたのですよ(詳しくは『サピエンス全史』などをご自身で読んでください)。
だから優生思想などで説かれるように、優秀な遺伝子だけを残したとしても、生まれてくる子供が必ず優秀になるとは限らないのです。どうして生物が交配によってしか、子孫を残せないように進化したのかを考えればわかりますが、多様性があった方が種の存続に有利だったからです。
もし、優生思想のように優秀な遺伝子だけを残しても、遺伝の組み合わせによる化学反応で、産まれて来る子供が必ず優秀な能力を受け継ぐとは限らないし、優生思想主義者が思っているように、遺伝子の選別を続けていけば、超人を生み出せるわけでもないのです。
百歩譲って、確かに優秀な遺伝子同士ならメンデルの“優性の法則”で語られるように、優秀な子供が産まれやすくなったとしても、そのようなことをしてしまえば、多様性がなくなり人類はいつか滅んでしまうかもしれない。
ダーウィンは『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一、生き残るのは変化できる者である』と言っているように、多様性がなくなれば変化できなくなり、いつかは滅びることになるのです。
結局、優生思想は破滅するのが目に見えているのです。だから、優秀や優秀でないというのは、多様性を否定していることに等しいです。
すべてのパーソナリティ、人種は種が存続するために必要な多様性を生み出す個性だということを、よ~く理解しましょう。優秀な遺伝子を受け継がなくても、環境が良ければ自己の能力を鍛えることもできるのですから。
環境は50%と言われるように、能力に大きな影響を及ぼすのです。例えば、ゲームのキャラクターなどで例えるとわかりやすいと思います。ゲームのキャラには、視覚化されたステータスというものがありますよね。
そのステータスによって強いキャラ、弱いキャラがわけられています。やっぱりゲームなどをしていてもわかる通り、強キャラを使いたいですよね。
だけど、レベル10の強キャラと、レベル50の弱キャラなら、どちらが強いと思いますか? そうです、レベル10の強キャラと、レベル50の弱キャラなら、レベル50のキャラの方が絶対に強いはずです。
キャラクターのレベルを上げるには経験値が必要です。その経験値とは努力ですよね。努力しなかった、強キャラと努力した弱キャラなら、断然、努力した弱キャラの方が強いはずです。
つまり、努力で才能ある人を負かすことだってできる。けれど、強キャラと弱キャラのレベルが同じになれば、当然、強キャラの方が強くなります
つまり、その同じレベルでのステータスの開きが才能ということです。なんか、分かりずらくなってしまった感がありますが、努力は無駄にはならないということが言いたかったのですよ。
だけど、周りの環境に恵まれていなければ、努力もできない=経験値も上げられない=能力を出しきれないことになります。周りの大人たちが「こいつはできない」「何をやらしてもだめ」と思っていれば子供はその時点で伸びることはないです。
つまり、そこが環境の問題で、環境によってステータスを伸ばすことができるということです。周りの大人のその思いや、言葉が「自分はできないのだ、何をしてもだめなのだ」と子供を洗脳し、バイアスをかけて、子供の未来を奪うことにもなります。
否定は絶対にダメです。あの大ヒットし映画にもなった有名な『ビリギャル』でも、勉強できる環境と周りのサポートさへ整い、本人がやる気を出せば慶応大学に合格しました。
何とも希望の持てる話です。その他にも、周りの応援や環境が整ったことで、成功する物語は沢山あります。そのような物語を見るたびに、周りの環境がどれだけ個人に影響を及ぼすかがうかがえます。
親自身が自分が優秀ではないから、子供も優秀でないと勝手に決めつけ、始めから諦めているというケースもありますが、そういう親に言いたいのは子供のことをすべて知っているつもりになって、勝手に能力を決めつけてはいけない、ということです。
いくら親でも脳が繋がっている訳ではない以上、子供の能力のすべてを計り知ることなどできるはずがないのだから。周りにいる大人たちが「この子は何をさせても駄目だ。伸びない」と思ってしまえば、その時点でその子は本当に伸びなくなってしまう。
言葉には呪力のような力があって、何をやっても否定され続ければ「自分は何をやっても駄目なのだ」と本気で思い込むようになってしまうのです。極端な例ですが、フランツ・カフカは父親の教育の影響で、強い劣等感を植え付けられてしまいました。
カフカの父親はカフカに「おまえは何をやらせても駄目だ」というようなことを幼い頃からカフカに言い続けていたらしいです。そのような言葉が、カフカに劣等感を植え付け、人格形成に大きな歪みを生じさせてしまったのでしょう。
カフカの父親に限らず、そのように勝手に子供の可能性を決めつける親は多いです。つまり民主主義思想に大切な、個人を尊重する精神を否定し、子供は所有物と思っている封建的、権威主義の親、または身内が意外に多いと思います。
子供にとって親、身内は世界のすべてで環境なのです。そんな環境悪いと、子供は伸びなくなってしまう。言ってしまえばこれもすべて教育格差につながることで、教育にお金をかけられる家庭なら、家庭の環境が悪くても、外部で子供の可能性を伸ばせる確率も上がるという問題になります。
この格差だけはどうしようもないですが……。いくら親が優秀でも、まともな教育を与えられる経済力がなければ子供を伸ばし切れないし、いくら経済力に恵まれていても環境が悪ければなら子供を伸ばしきることはできない。
オリンピックでメダルを取るような選手や芸術家などは比較的早い幼少のころから、スポーツに触れさせてもらったり、芸術作品に触れているように、幼少の比較的早い内から、どれだけ子供に知的刺激を与えられるかに、子供の能力はかなりの影響を与えるという研究結果もあります。
生まれた環境が悪かった、親が悪かった、と上手くいかなった人が言い訳に使う常套句ですが、そのように自分の自尊心を擁護する心理を心理学用語で『セルフハンディキャッピング』というそうです。
実際に環境や遺伝はかなりの要因を占めているのは否定できないので、そう言い訳をするなと強くは言い切れませんが、だからといって、すべての責任転換をしていいことにはならないのです。もし環境が悪くても、それも運命だったというだけの話です。
極端な話になると、人間の地頭は五歳くらいの教育ですでに決まってしまい、後はどれだけ教育を施しても地頭は伸びないなどという話を聞いたことがありますけど、真相はどうなのでしょうか?
まあ、そのようなことはないと信じたいから、だから環境と遺伝どちらが大切かという問いに、当たり前ですが、両方良いに越したことはないという答えになりますが、強いていうなら環境が良い方が私は望ましいと思いますね。
環境さへ良ければ、どんな子供でも伸びる。反論したいことがあるのはやまやまだろうと思いますが、そう信じ込むことが大切なのです。努力すれば、努力しなかった強キャラを超えられます! 努力は無駄にはなりません。
否定してしまえば、そこで試合終了なのですよ。子供が失敗しても叱ることなく、「始めから成功する人はいない。失敗から学べることもある」という寛大な心で色々なことにチャレンジさせれば、必ず子供は伸びます!
「やればできる!」そう信じることが大切なのです。あきらめたら、そこで試合終了なのですから――。




