『運命論(宿命論)・バタフライ効果』について
書いたはいいものの少しおいてから、改めて読み返してみると「滅茶苦茶だな……」という内容になっていますが、六千文字も書いて消去するのも気が引けてしまうので投稿することに決めました。何度も言いますが、独断と偏見で書いているの真に受けないでください。
皆さんも一度は考えたことがないでしょうか。運命ってあるのか問題を……。こんな問題答えはないと思いますが、この世界はかなり運命に支配されているのではないだろうかってたまに思うのです。
あまりに非科学的過ぎますが運命と言わず、それなりにこの世界の森羅万象には大なり小なり定められた俗に運命と呼ばれるものがあるような気がします。
こんな話をすると運命論(世界のすべての事柄は運命によってあらかじめ定められており、人間の意志や努力では全く変更できないとする人生観。ギリシア悲劇、中国の天命説、仏教の因果応報思想、イスラム教やキリスト教の予定説などに見られる。宿命論。 運命観。(コトバンク 引用))指示者のようになってしまいますね……。
今回語りたいのは、この全知全能の神が定めたみたいな運命論のように絶対に変更できないという運命の話ではないのです。もっと科学的に言うとしたら、バタフライ効果((バタフライこうか、英: butterfly effect)は、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。カオス理論で扱うカオス運動の予測困難性、初期値鋭敏性を意味する標語的、寓意的な表現である(ウィキペディア 引用))でしょうか……。
バタフライ効果とは、気象学者のエドワード・ローレンツが提唱したカオス理論を語源として「蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を引き起こすか?」という比喩的例え話に端を発します。
本来は気象予報の予測困難性を比喩した学説ですが、これは運命論と結び付けられると私は考えます。つまり私が今回語ろうとしているのは、全知全能的な神によって定められたという運命論ではなく、バタフライ効果的運命論とでもいう感じの話です。
このバタフライ効果的運命論は強力な力を持って、森羅万象を支配していると思います。運命を変えるには、運命を覆すほどの力を必要とします(なんか、怪し気なスピリチュアル本に書かれていそうなこと説いてますね……。これを書いているときの私の精神状態が正常ではないのかもしれません……)。
この場合、運命という必ず確定された未来が存在するのか、それとも未来は未確定なのか。もし、よくSFのタイムトラベル系の物語であるように、時間は因果律によって支配されていて、どれだけ頑張って因果を変えようとしても、超自然的な因果の法則によって正常に戻されるのか?
まあ、どれだけ科学技術が進もうと、タイムトラベルなんて絶対に実現できないと考えているので因果の法則が存在するのかの確認しようがないのですが、確定された現在という時間は、バタフライ効果のように予測不能でも色々な要因が積み重なって確定されたわけです(どうしてタイムトラベルが絶対に不可能だと言い切れるのかを説明すると長くなるので省きます)。
だから、積み重なった色々な要因は運命論的にそうなると決まっていたとも考えられる気がしたのです(自分で書いていても意味がわかりませんね……)。
とまあ唐突過ぎて、どういうことかわからないと思うので順を追って語ります。私たちに今があるのは元始に遡り宇宙が誕生したからで、宇宙が誕生することになったのも、天文学的、バタフライ効果のように予測不能性の運命が重なったからです。
普通に考えれば、そんな運命重なるはずがないと思えますが、宇宙誕生を無限にチャレンジできるガチャに例えて、宇宙規模の時間で考えると、確率の問題で今現在宇宙誕生という確定された結果が証拠として存在している以上、いつかは宇宙が誕生することになると思います。
宇宙が誕生したのは奇跡のようなことだけど、運命論で言うように必然的な奇跡だったのです。だって無限に挑戦できれば、いつかは必然的な奇跡が起こるでしょ(何度も言いますが意味わからなかったらごめんなさい……)。そして、宇宙誕生が138億年前だと言われており、およそ50億に地球が生まれたと言われています。
広大な宇宙で、地球のような惑星が生まれる可能性だって、無限とも思われる数の星が生まれていることを考えると、確率の問題なのだから、いつかは地球みたいな惑星が生まれる可能性もゼロではなかったわけです。
そして天文学的な必然の奇跡が重なり地球に生物が誕生し、天文学的な確率で人間が誕生すると。生命誕生を確率で例えていいものではないと思いますが、今回のテーマを書く上でそのことを書かずにはいられないので、ご了承ください。
ネットでちょっと調べて拾って来た情報ですが、人間が誕生する確率は太平洋の海底から、決められた一粒の砂を見つけるくらいの確率だそうです(どのように割り出したのかは知りませんが……)。
普通に考えて奇跡ですが、宇宙規模で無限にチャレンジできるガチャ的に考えると必然的な奇跡。つまり予測不能性はあるにせよ、いつかはこの地球のような生物が住める惑星が誕生するという結果が決まった奇跡だと言えると思うのです。
人間原理説などがありますが、宇宙は人間の都合のいいように作られたのではなく、宇宙の都合の良いように森羅万象は誕生して、生物は進化したのです。
誕生した人間は系譜を継ぎながら現代に至り、とんでもない確率で私たちが生まれてきていますが、私たちの誕生とは必然的な奇跡だとも言えないでしょう。
そこまで飛び飛びに語ってきましたが、私たちがこの世界に今生きているのは、バタフライ効果的運命のように考えられたのですね。そう思うと形容しようのない、ちっぽけなことなんてどうでもいいような不思議な気持ちになりませんか?
森博嗣という理系推理作家さんの『すべてはFになる』という小説の中で、真賀田四季という天才キャラが登場するのですが、彼女の言葉に「死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ。苦しまないで死ねるなら、誰も死を恐れないでしょう? そもそも、生きていることの方が異常なのよ」や「死んでいることが本来である。生きているというのは、そうですね……機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね」という台詞があります。
この台詞を読んで生の真理を突いているな~と思いました。これだけ聞いてもわけがわからないと思いますが、つまり、天文学的必然の奇跡の中、今こうやって私たちが生きているのは異常な状態、生命とはバグだともいえるのです。
本来生れていなければ、このような世界があるなど知ること認識、観測することもできなかったのです。この心理状態を説明するのがこれまた難しいですが……、この世界があるということを認識すらできなかった状態があったことを考えると本当に不思議な気分になります。
めちゃくちゃ語弊を招く言葉ですね……。ようは、生まれて来れたことはバタフライ効果のように多くの因果的要因が絡んだ運命だと言えるのです。
まあ、そう思っても人間の心は諸行無常ですから、考えなんてこれから先何度も変わるのは絶対ですので、このエッセイで書ている説をこれから先も受け入れられるかはわかりませんが、今はそのように思うのです。
だから無常する前にこうやってエッセイで今現在の考えを遺してわけです。話がそれてしまいました。運命でしたね。
『自由』について、でも触れましたが、もし運命論が否定できないとしたら、自由意思というものは存在しないという話にも繋がります。科学の世界では自由意思はないという説の方が優位らしいですし、生物は例外なく、与えられた選択肢の中から、ドーパミンやセロトニンが分泌される気持ちの良い方を選んでいるだけです。
では、そうなるとその与えられた選択肢も能動的に自ら選んだものではなく、バタフライ効果でいうところの予測不能性はあるにせよ、色々な因果的要因が積み重なって受動的に与えら、動かされたものであり、色々な因果的要因によって森羅万象は互いに相互しながら廻っていると言えます。
それら快楽や情動なども自由意思ではないのなら、シェイクスピアが言うように『この世は一つの舞台だ。すべての男も女も役者にすぎない。それぞれ舞台に登場しては、消えていく。人はその時々にいろいろな役を演じるのだ』と言っている通り、元始から脈々と続く因果によって運命という脚本通りに世界が廻っているように思うことがあるのですよ。
それを神の力だとかいうわけではなく、何度も言うようにバタフライ効果のように自然の摂理的などうすることもできない力のような感じです。
まあ、長々とスピリチュア的なことを書いてきましたが、運命のようなものがあるのように思う、と感じたことを書きましたが、そのようなものあるかはわかりません。
いや、あるのかわかりませんというか、そんな運命だとかいうものは人間が作り出した虚構概念であり実際にはないのでしょう。人間世界のすべては人間が作り出した虚構で、良いも悪いも人間の考え次第という方が正しいです。
ですが、人間が何かを語るには人間が作り出した虚構概念を使用するしかないので、話が支離滅裂に矛盾を帯びてしまうのですよね……。
もし、どれだけ頑張ってもどうすることもできないことがあったり、不幸なことや辛いこと不条理なことがあった場合「そのようなマインドどうなんだ?」と思われるかも知れませんが、『これも運命』と思うだけで少しだけ救われると思うのです。
そんなこというと、不条理な事件や事故、自然災害などで命を落とした人のことを例に出されて「そういう不条理も受け入れろというのか!」と言われてしまいそうですが……もし不条理な事件や事故、自然災害など備えられるだけ備えて、防ぎようのなかったことなら、人にもよりますが運命と受け入れ、その不条理すら肯定するしかないと思うのです。
そもそも不条理という概念すら人間が作り出したものですし、本来世界には不条理なことなんてなくて、単純明快なんですよね。強ければ生き、弱ければ死ぬだけです。
ただ生きて、子孫を残して、ただ死ぬだけという単純明快なことなのに、人間は小難しくへりくだって考え過ぎてしまうから色々と苦しみを感じてしまうのでしょう(そのおかげで、今の文明の幸福を享受できているので文句のつもりは微塵もありません)。
心理学用語いうところの『学習性無力感』と言われてしまえばそれまでですが、この世界にはまるでバタフライ効果的運命によって定められているかのように、色々な要因が因果のように重なって、一個人の力ではどうすることもできないことの方が多いのですから。
そのわかりやすい例を挙げるなら、家畜たちです。家畜たちは育てられて私たちに食べられるのが運命なのです。家畜の中で人間に食べられるのは嫌だと言って反旗を翻したところで、家畜たちが人間に食べられる運命を変えられるでしょうか。あえて言おう、変えようがありません、と。
家畜たちは人間に食べられる運命なのですから、利己的でも何でも、ただ家畜たちに感謝して命をいただくことを肯定します。そんな家畜たちと同じで、人間だけ特別に運命の因果から逃れることはできません。
生まれるか、生まれないかも運命です。才能を持つ、持たざるかも運命です。障がいを背負う、背負わざるかも運命です。裕福か、貧しいかも運命です。
いじめや差別も運命です。病気になるのも運命です。老いることも運命です。事故や事件に巻き込まれるのも運命です。自然災害に遭うのも運命です。虐待されて殺される子供がいたとしても運命です。
疫病や不条理な不運に見舞われることも運命です。自然破壊や環境破壊も運命です。無差別殺人事件などに巻き込まれて死ぬことがあったとしても運命でしょう。家畜が人間に食べられるのが運命なように、どれだけ不条理なことがあっても、人間も例外なくそうなる運命だったのです。
本来不条理という概念すら人間が作り出したものなので、すべて起こるがまま、それ以上でも、それ以下でもないのです。ただ起こることをありのまま眺めて受け入れる感覚、その感覚こそが仏教の開祖である釈迦が説いた悟りの境地なのでしょう。
ただありのまま不条理すら受け入れて肯定するか、もしそれが嫌ならその運命を変えるために行動を起こすかの二択でしょう。だから、運命を変えるには力がいるのです。
昔の人たちは、現代よりも不条理なことに苦しんでいたと思うので、そのような不条理を肯定するために運命論や、神を生み出したのでしょう。
運命を信じるというのは「神を信じるか?」という話と似ていると思います。どうして現代人に無神論者が増えているのか? 科学の発展による人間の理性信仰、人間に不可能はないという人間至上主義思想に移行したことも一因にはありますが、もう一つ不条理を克服できるようになったからという要因もあると私は思うのです。
昔は色々な不条理なことがあったのですよ。飢饉や疫病、自然災害、戦争、迫害、差別、意味なく殺されたり様々な不条理がありました。
けれど、人間の力でどうにかできることなどたかが知れていて、そのような辛く過酷で不条理な環境の中、人間は自分を守るために神を生み出す能力が備わっているのです。
例えば漂流・遭難系の映画などで、漂流や遭難した人たちは決まっているように物語の後半くらいから世界の残酷な美しさに神のような存在を見出すことがよくありますが、あれは過酷で不条理な状況であればあるほど人間は自分の精神を守るために神を生み出すわけですよ。
もしあなたが無神論者でも、どれだけ頑張ってもどうすることもできない過酷な状況に追い込まれたら、神はいないとわかっていても神を生み出してしまいますよ。
それと似たようなもので、神=運命だと考えるなら、一個人の力ではどうすることもできないことに直面したとき、運命という因果の法則を感じると思うのです。昔の人はそのような不条理を多く感じていたのでしょう。
同じ理屈で神や運命を信じない人が増えているのは、科学の発展という一因はあるにせよ、人間至上主義により人間の理性に不可能はないと思い込む人が増えたことに不条理な状況をほぼ克服してしまったから無神論者が増えていると言えると思うのです。
つまり、それだけ不条理なことが少なくなっているということで、それはとても良いことです。このバタフライ効果的運命論は、ギリシャ的な運命論と違って力さへあれば変えることができると考えます。
そのような運命の不条理を受け入れられないから、人間社会でだけは不条理を助け合いによって改善され、人類は繁栄できたのです。それはとても素晴らしいことだと思うのです。
ですが、不条理がかなり改善されてきているとは言っても、ニュースで見るような不条理な事件があって、それらのニュースを見て心を痛める人がいます。
そのように共感する能力は人間として大切なことですが、もし不条理なニュースに傷つき過ぎてしまう人がいるなら、「それほど傷つく必要などないのです」と言いたいのです。
あなたがその不条理に傷ついてもどうすることもできないし、あなたは始めから、その不条理な運命に関与していなかったのですから、不条理な運命を変えることはできなかった。変えられるのは、関係者だけなのですよ――。
不条理なことも運命ですと書きましたが、かなり語弊を招く書き方になってしまいましたね……。もし本当に何かの不条理で、不幸な目に遭った人がこれを読んだら、いらだちを感じられると思います……。もし不快に思われたのなら本当にごめんなさい……。




