『苦しみ』について
始めということもあり、何から書いていいのかわからないから、とりあえず私が思う苦しみについて書いていきたい。
苦しみと言っても色々ある。
この世界は苦しみで満ち満ちている。
私はこの世界には苦しみしかないと思っている。
しかない、というのは言い過ぎかもしれないが、苦しみが多いのは間違いない。
生きていると色々なことが苦しい。
幸せであるときですら、苦しみを感じる。
苦しみを大きい小さいで判断することは好きではない。
何故なら、どのような小さな苦しみも、大きな苦しみも、苦しんでいる本人にしてみれば、自分の苦しみが、どのような苦しみ以上に苦しいのだから。
私は苦しみに耐えられる強い人間ではないから、その苦しみとは何かを知るために色々考えて来た。
私だけではなく古今東西、太古の昔より人間は苦しみについて考えて来た。
世界中にある宗教とは、人々を苦しみから救うために創り出されたようなものだろう。
ユダヤ・キリスト・イスラム教では神を信じること、そして愛が人間を救うと説くし、仏教でも念仏を唱えたり、仏さまを信じることで救われると説く。
だが信じたところで、誰も救われていないのが現実。
数えきれない人たちが、神を信じてきたが救われているようには思えない。
そう思えないのは、外部から見ているからであって、本当に信じた人は精神的には救われているともいえると思うが。
ようは麻薬と同じだと思う。
麻薬を使っている本人は快楽によって、救われているのだ。
だが第三者として見れば、麻薬依存状態のその人は生活を麻薬(宗教)によって狂わされているようにしか見えない。
第三者が麻薬(宗教)依存の人から、麻薬を取り上げるのは、その人にとって苦痛でしかないのだ。
ようはすべて自分が思う幸せを、自己中心的に人に押し付けているに過ぎない。
終始一貫して私は、相対主義的にそう説き続けると思う。
では、感じ方次第で苦を無くすことはできるのか?
何かに依存して、一つの苦を無くすことはできるかもしれないが、依存することで新たな苦が生まれる。
苦が生まれ、苦を無くすためにとった行動は、また苦を誘発する。
つまり、苦を無くすためには仏教でいう涅槃・解脱の状態になることしか人間は救いはないと思う。
涅槃とは簡単に言ってしまうと、煩悩や、感情の想起がなく、繰り返す再生の輪廻から解放された、完全な静寂の状態のことを指す。
仏教徒はこの涅槃の状態になることを目指して、日々修行しているのだ(仏教の話もまたいつか触れたいと思っているが、今回のテーマではないので、深くは触れないでおく)。
苦を無くすには、縁(原因)起(発生)業(結果)のサイクルを断つ以外にはないという結論に私は至った。
だがこの世界に生きている限り、縁→起→業のサイクルから抜け出すことはできない。
本当に仏教の言う涅槃に至れるならまだしも、ロボトミー手術で脳の構造から変えない限り、涅槃の状態には至れないと私は思っている。
脳の構造から考えて、どう考えても不可能だと思うのだ。
生きていれば、考えないなんてことできるはずがないからだ。
だから、生きている限りは苦しみから逃れられない。
生きるとは苦しむことだから。
苦しみを無くすとは、死ぬということだ。
暗い話になるが、唯一苦しみから逃れられる方法は死、または自殺だけだと思っている。
色々な宗教や道徳で自殺はいけない、自殺したものは地獄に落ちる、などと言われているが、私は天国も地獄もないと思っているから、自殺したからと地獄に落ちるとは考えていない。
死とは体と脳の機能停止であり、生まれる前の無に帰すだけ。
死とは涅槃なのである。
完全な静寂。
考えないのだから、幸も不幸も生み出すことはない。
自殺についてもまた考えを述べたいと思うが、今はテーマではないからこれくらいにする。
つまりは、生きている限り苦しみからは逃れられないのだ。
生きることは苦しむこと。
生きることは戦うこと。
私たちにできるのは、苦しみを少しでも小さくする努力だけ。
どれだけ苦しみを小さくしても、苦しいのは変わらない……。
世界中で自分なんか、比べ物にならないほど苦しんでいる人がいるのだから、こんなことで苦しいなんて言ってはいけない、甘ったれるな、と言われてしまうだろうか……。
だが、どのような恵まれた環境にいても、どのような苦しみ多き環境にいても、すでに述べているように、本人からすれば、自己の苦しみこそが一番の苦しみになるのだ。
人間はみんな自己中なのだ。
自分のことを一番大切にしているから、自分のことを一番に考えているから、苦しいと思うのだ。
自分ではない他者のことを自分以上に考えられるなら、今よりは苦しいと思わないだろう。
例えば仏教の開祖である釈迦は王子として、何不自由なく育ってきたが、そんな彼でも苦しいのは同じだった。
釈迦には四門出遊という逸話がある。
『ある日、東の門から出かけようとした釈迦は、歯が抜けて腰の曲がった老人を目にします。老人について侍従に尋ねた釈迦は、自らもいつかは年を取り、同じようになることを知った動揺から、外出を取り止めます。
後日、南の門から出かけようとした釈迦は、瘦せ衰えた病人を目にします。侍従から「病気になったら、誰もがあのような姿になる」と聞いた釈迦は、同じく動揺から宮殿に引き返すのでした。
さらに今度は西の門から出かけようとした釈迦。そこで、骨と皮ばかりに痩せこけ、動かなくなった死者が周囲の人々に囲まれながら運ばれていく様子を目にします。葬式の行列について侍従に尋ねた釈迦は、人は誰しも最後には死を迎えることを実感し、大きなショックを受けます。
「人は皆、老・病・死という苦しみを経験しなければいけないのか」
絶望した釈迦でしたが、最後に北門を出たときに出家者の堂々たる姿に出会い、そこに自分の進むべき道を見出して出家を決意するのでした(東洋大学LINK @ TOYO 引用)』
この根本的な苦を克服するために、釈迦は出家する。
四苦に加え、更に八苦を加えて『四苦八苦』と言う。
『生苦』
衆生の生まれることに起因する苦しみ。
『老苦』
衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
『病苦』
様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
『死苦』
死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみ。
この四苦に加えて――。
『愛別離苦』
親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること。
『怨憎会苦』
怨み憎んでいる者に会う苦しみ。
『求不得苦』
求める物がおもうように得られない苦しみ。
『五蘊盛苦』
五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないくるしみ
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
どんな裕福な家庭に生まれようと、生きるのが苦しいのは変わらないのだ。
だから、苦しみの大きさなど競うものではないと私は考える。
自分にとってはどのような小さな苦しみも、苦しいのだから。
苦しんでいる人がいたら、苦しみの大きい、小さいに関わらず、その苦しみを否定するのではなく肯定してあげて欲しい。
ニーチェは永遠回帰する人生を克服するには、すべての苦しみも含めて、人生を肯定する『運命愛』しかないといった。
永遠回帰とは輪廻に似ているが、輪廻とは非なるもの。
永遠回帰とは、今の自分の人生が永遠に繰り返すという、言ってしまえば輪廻よりも苦しい思想だと言っても大袈裟ではないだろう。
自分の人生に満足している人生が永遠に繰り返されるならいいが、不満を抱いている人生が永遠に繰り返されると考えれば地獄だろう。
ニーチェの言う『運命愛』とは仏教でいう悟りなのだ。
自分の不運な人生も含めて愛する、つまり肯定するということ。
他人の人生を生きることなどできない。
なら、どんな人生だろうとニーチェの言う通り肯定するしかない。
永遠に回帰する人生を肯定できないまま繰り返すのと、永遠に回帰する肯定された人生どちらを生きたいかと聞かれれば、当然後者だろう。
すべての苦しみは生きているから感じることのできる、生きている証。
どのような苦しい人生でも、少しくらいは幸せがあるはずだ。
『たった一度でいい。本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する』とニーチェは言った。
生きることは苦しいが、パンドラの壺の話のように、少しの希望があるから、私たちは絶望に暮れずに生きられているのだと思う。
ありきたりな言葉だが――この世界は残酷で美しい――正にその通りだ。




