『文字・言語』について
毎回のことですが、独断と偏見で書いていますので余り真に受けないでください。
アインシュタインは人類最大の発明を複利と言ったそうですが、私は人類最大の発明を文字と言語だと思っています。
人間は生きている間に蓄えた知識ごといつかは死にますが、文字によって記録された知識は消失されない限り永遠に残り続けるのですよ。
文字があることで、人間は知識を積み上げることができ、一からスタートしなくても、先人たちが到達した地点から再スタートすることができるようになった。
それもこれも、文字があったからです。
今、私がこうやって考えていることが伝えられるのも、文字があるから。
文字とはインターネットのようなもので、近くの人、遠く離れた人にも情報を伝達することができるデータ。
文字ができる前は、ラスコーの洞窟壁画のように、絵によって人間は情報を伝達していて、絵の形から人間は文字というものを生み出したと考えられているわけですが(諸説あり)。
いつ誰が文字という概念を考えだし、文字の共有がされるようになったのかは定かではないですが、世界で最も古いとされている文字が、エジプトのヒエログリフ、メソポタミアの楔形文字、中国の甲骨文字ですね。
粘土板や、パピルス、竹などに文字が記されていた歴史の方が長く、羊皮紙や紙などに文字が書かれるようになったのは、人類の歴史から見れば最近のこと。
活版印刷技術が中国で発明されてから、時代が少し流れヨーロッパでグーテンベルクが活版印刷技術(グーテンベルクは中国の活版印刷の影響を何らかの形で受けていた、と考えられているらしい)を普及させ、より広く情報を伝達できるようになったのも、科学の発展に大きく関わっていると思われます。
記録の進化は、人類の進化。
昔は識字率も低かったけれど、教育が普及したことで、識字率も格段に上がり、誰でも色々な情報を手に入れられるようになった。
識字率が向上すれば、更に人類は発展する循環が出来上がるわけです。
文字がなければ、人類は紀元前ほどの暮らしを今も送っていただろうと思います。
何が言いたいかって、「文字ってスゲー」ということ。
これも人間の脳がいくつもの図形を認識する能力を持っているからで、「人間ってスゲー」ということに繋がりますが。
本当に人間の脳は凄い。
はっきりしたことはわかっていませんが、人間の脳は半分上使われていない、なんて話もあるくらいですね。
脳科学者の池谷裕二氏がいうように、スポーツカーのエンジンを、軽トラにでも搭載しているようなもので、人間がもっとハイスペックな体を持っていれば、この脳を今よりも有効に使えたのかもしれない。
まあ、実際にはすでに九割方は使っている、という話もあるから、ハイスペックな体を持っていても、今度は体が使えなくなっていたかもしれないけれど。
それでも、十分に人間の脳は凄い。
目から入って来た視覚情報が、視神経を通り海馬を経由して、脳の広範囲で文字の情報を処理し、意味をくみ取る。
そして短期記憶と長期記憶に分けられる。
絶対ではないですが、言語や文字の情報を処理しているのは右利きの人の場合、左脳が活発に活動することが確認されているらしいです。
ブロッカ失語や、ウィルニッケ失語など失語症という障がいがありますが、脳に何らかの障がいが生じると、文字を読んだり書いたり、または言語を理解することができなくなるらしいです。
進化とは生存や生殖に有利になるようにしか進化してくれない。
図形や文字を識別できる能力が、生存や生殖に有利になったのか。
なったとしたら、どのように利用されていたのか、不思議に思ったことがあります。
文字もまだ存在しない原始の時代に、図形認識能力は何の役に立っていたのか?
今回のテーマとは関係のないようなことを書いている、と思いになっているだろうけれど、これは前置きです。
つまり脳には図形、文字を理解する機能が先天的に備わっているということです。
以前から度々取り上げている伊藤計劃というSF作家さんの作品に『虐殺器官』という作品があるのですが、その『虐殺器官』の中では、人間には虐殺の器官が先天的に備わっている、と語られています。
人間に虐殺の言語を聞かせると、人間は虐殺を起こすようになるらしい。
その話はフィクションではありますが、あながち嘘ではないのではないか、と思いもします。
どういうことかというと、文字や言語とは先にも言ったように、データでもある。
人間は文字や言語というデータをやり取りしている。
さっき触れたように、文字や言語があったから人類は協力し、危険を回避し、発展することができた。
人間以外の他の動物では、ここまで柔軟にコミュニケーションによって行動を変化させることはまずできないですよね。
当たり前に思えるかもしれないけれど、言葉や文字によって私たちは行動を変化させることができるから、自然選択による遺伝子の変化を待たずとも、環境に適応できたわけです。
つまりですね、コンピューターには、プログラミング言語というものがあるように、人間も機械と殆ど同じでプログラミング言語によって、動いていると言えなくないのですよ。
会話を聞いたり、文字を読むことによって、私たちのは常にプログラミング言語を書き換えられているわけです。
人間の場合、プログラムを書き換える人によって効き目は違うけれど、大なり小なり言語や文字には人間のプログラムを書き換える力があるのだと思います。
ここまで書いてきて何が言いたいかって、過激な言葉や相手を傷つける言葉は強力なプログラミング言語で、人間の心理や行動を変えてしまう力があるから、そういう文字や言葉には重々気を付けましょうね、ということでした――。
まあ、あり得ないとは思いますが、もし私のエッセイを読んで、思考や行動が変わったとしたら、あなたのプログラミング言語を私が書き換えたことになりますね(真に受けないでね……!)。実際、人間の言語とコンピューターのプログラミング言語はまったく別物だと思いますが、人間の言語=プログラミング言語説、あながち否定できない気がしませんか? 信じるか信じないかは、あなた次第です!




