『物語』について
今年も終わりですね。では、年終わりにまず一言「ごめんなさい!(土下座)」本当に反省してます……。いや~、前回は暴走し過ぎました、いやはや……。勢いで書き上げて、投稿してしまいましたんよ。勢いで書いてしまうと俯瞰して物事が見えませんね……。しばらく経ってから冷静に自分でも読み返してみました。すると、「こいつヤバい奴じゃん」と再確認しました。反出生主義者だと言っても、人類みんな生まれない方がいい、とベネターのような過激なことを言っているわけではないし、生まれて来なければよかったのかな、とまあ……思ったときもありますが、そんなの、生きていれば誰もが一度や二度思うことでしょ? だから、決して絶望したからではありません。絶望→苦悩→希望のサイクルを生きているからには誰もが、考えるはずですよ。生物って本当によくできていますね。絶望に沈んでいても、希望も見いだせる。パンドラの話ですよ。「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」側の人間です。だから、誤解しないでくださいね。
今まで重いテーマばかりで読んでくださっている方々は、とうに気が滅入ってしまっていることでしょう!
こんなヤバいこと書いていますが、私自身サイコパスではないので、あなたと同様に、気が滅入っていますよ!
他者の痛みにも共感できるし、自分がヤバいこと書いている自覚もちゃんと持っている。
いや~、なら書くなって話ですけれどね。
それを理解して書いているのを質が悪いと取るかどうかは人それぞれですけど。
実際、言論の自由があっても、書いていいことと悪いことがありますから。
ネット上には悪意のある酷い言葉が溢れているじゃないですか。
誹謗中傷などで自殺した人数知れずですよ。
言葉は凶器にもなりえることは重々自覚しています。
ネット上で好き勝手凶器を振り回し、他者を傷つける。
そんな無法地帯が続いていたら、国も言論の自由をいつかは規制するかもしれません(しないとは言い切れないでしょ?)。
そうなれば民主主義の根幹である、個人の尊重が脅かされ、次第に民主主義も崩壊するようになりますよね。
そうなってからでは遅いし、そうなってしまっても国民は文句が言えない自覚もある。
だって民主主義では個人を尊重しなければいけないのに、個人を傷つけているのですから。
このエッセイも誰かを傷つけている可能性がある。
だから、辞めようかと思ったのですが、それでも読んでくださっている方もいるので、細々とでも更新頻度は少ないですが続けて行こうと考え直した次第です。
だけど……書いていることがヤバすぎるかな……。
こういうエッセイは読みたい人だけが読める形なのでまだ良いですが、SNSとか書き込みとかに、明らかに悪意を持って能動的に誹謗中傷しに行く行為は絶対に許せません。
結論として、何が言いたいかって、ネット上でもマナーを守りましょう、ということ(おまえが言うか、と怒られそうですが……)。
読みたい人だけ読んでくださいね……。
と、まあ、何の関係もない前置きはこのくらいにして、重いテーマが続いたので、今回は暗くならない無難なテーマを書こうと思い、何がいいかな~と考えて、タイトルにもある『物語』をテーマにして書こうと思いました。
人間は物語が大好きですよね。
人間が持っているという欲の中に、物語欲というものがあるのではないでしょうか。
小説、漫画に映画にドラマ、物語に触れない日はないってくらい、人間は毎日物語に触れていると思います。
物語という虚構を共有することで、人類はここまで発展できたのだ、とサピエンス全史で説かれていましたね。
宗教なども物語ですもの。
旧約・新約聖書とか、神話、開祖の逸話などなど、すべて物語です。
その他にも、○○主義これも物語と言えないことはない。
まあ、今回はそういう学術的な話をしたいのではなく、ただ物語について適当に話そうかな、と思って。
人間にとっての最大の敵は退屈と言ってもいいくらい、人間は退屈に苦しむわけです。
以前NetflixのCMで「退屈は犯罪です」というようなパワーワードを目にしたように記憶していますが、それだけ退屈は人間にとって犯罪になりえるほどに、人間には退屈が天敵(平和な証ですけどね)。
現代はそういう退屈を埋める娯楽が充実していて、その娯楽の根底になっているのはやはり物語ではないでしょうか。
ゲームをしても、ゲームにはストーリーというものが必ずと言っていいほどあるし、映画や漫画、ドラマ、アニメ、そういうものもすべて物語。
絵画や音楽ですらバックボーンには物語がある。
娯楽を作るには、物語が必要不可欠な要素なのです。
人間の頭の中にある思想や、世界を表現するにはこういうエッセイのように直接伝えることもできますが、物語にした方が持続性がある。
人間はAIや機械ではないから、ただ情報だけを羅列されても頭に入らない。
例えば最近のCMはストーリーになっているものも多く、ただ情報だけを説明されているものより、ストーリーにして説明してくれている方が頭に残っているのでは?
例えば携帯会社のCMとか面白いですよね。
宝くじのあのCMも本当に面白い(笑)。
やっぱり笑いが入っているのがいいな。
まあそのように、遥か昔から、例えば『ギルガメシュ叙事詩』や『源氏物語』など、その他にも神話や宗教の物語が現在でも残っているのは、色々な理由があるにしても、ストーリーが面白いから。
それだけ物語には持続性がある。
古典なんかは色々な物語に影響を与え、脈々と続いている。
別に物語など無くても生きてけるけれど、物語がないと人生は味気ないものになってしまうと思います。
人類がこれほどまで発展できた理由は一見無駄とも思われることをしてきたからですからね。
キリスト教やイスラム教がなぜあれほどまでに大きくなったかというと、聖書やコーランの物語を共有して団結できたからです。
生きているからには苦しみからは逃れられない、だから芸術という手段でフラストレーションを発散するのです。
岡本太郎は言った『芸術は爆発だ!』と。
あれは、生きていれば溜まるフラストレーション、ストレスの爆発のことを言っていると思うのです。
その発散方法の一つが芸術であり、物語なのです。
つまり、生きているからには、副産物的に物語が生まれる。
生きるためには物語が必要不可欠。
あなたも映画なり、ドラマなり、小説なり、漫画なり、アニメを見て感動した経験が一度はあるはず。
物語をまったく見ないという人でも、生きているからには音楽を聴いたり、絵画や彫刻、何らかの芸術作品に触れたことがあると思います。
そういう作品に出会うと、苦しみは無くならないとしても、心が豊かになったり、希望がもらえると思うのです。
ギリシャ神話のパンドラの壺(箱)の話は有名ですよね。
神々に作られたパンドラが、開けてはならないと言われていた壺の蓋を開ける話。
浦島太郎の玉手箱しかり、開けてはならない、見てはいけない、してはいけないと言われるとしたくなるのが人間の性。
蓋を開けると中から色々な災いや病気などが出てきて、世界は大混乱に陥ったけれど、最後に壺の底には希望が残っていた、というやつです。
そのパンドラの壺の話しでも言われている通り、人間って少しの希望で生きていける、弱いけれど強くたくましい生き物でもあるのです。
だから、人間は美しい。
つまり、芸術で人を救うことはできなくても、一時の希望を与えることはできる。
芸術とは希望の役割を担っている。
ショーペンハウアーも創造的な趣味を持て、と力説している通り、創造的な趣味を持つことは救いになるのですよ。
そして、物語を作るとは一つの学問であるようにも思います。
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で、芸術はこの世界の論理形式を示すことができる、と説いたらしいですよ。
世界のすべてを証明することはできないけれど、芸術によって世界の論理形式の一部を示す学問でもあるのです。
物語を作り出すのは大変だけれど、それ以上に楽しいことでもある。
自分が考えた世界や登場人物が、物語となって動いているのを頭の中で想像するのは本当に楽しくて、中毒性がある(物語を書いたことがあるならわかるはず)。
きっと私はこれから先も、生きている限りは物語を楽しみ、自分でも書いていると思う。
書き始めた当初は、上手く物語にできず(今でもまだまだで、一生自分が作った物語に満足しないと思うけれど)、他の人の素晴らしい作品を見ると、自分には才能がないのだと思ったこともありますよ。
だが、才能が無くても、下手でも物語を書いてはいけないことはない。
好きなら書けばいい。
自分が好きで書いて、一時の時間つぶしに読んでくれる人がいるなら、それに越したことはないのです。
今はWeb上に気楽に、才能があろうがなかろうが物語を公開できる時代。
ネットが発展して悪くなった面もあるけれど、そういう面は本当に良くなったと思う。
ショーペンハウアーは『幾世紀もの間保存された後に改めて思索されるに足るだけの思想が、自分のうちから生み出されるということが大きな幸福である』と言っています。
あの最強の悲観主義者のショーペンハウアーが、創作を大きな幸福と言っていること自体凄いことなのですからね。
もし現代、自分が生み出したものが認められなかったとしても、ショーペンハウアーが言うように、幾世紀もの間、保存された後に改めて思索されることがあるかもしれない。
読んだ人の心に保存されるかもしれない。
そう思えれば、誇らしくなることがある。
思うだけなら自由です。
ゴッホは生前一枚しか絵が売れなかったそうだけど、今では誰もが知る画家ですもの。
その他にも、『モルグ街の殺人』や『黒猫』で知られるエドガー・アラン・ポーや、『白鯨』で知られるハーマン・メルヴィル、『変身』『城』で知られるフランツ・カフカ、『タヒチの女』『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』のポール・ゴーギャンなどなど、現在では知らない者がいないと思われるほどの知名度がある人物ですら生前は評価されなからしいです。
あ、あと『フランダースの犬』のネロも生前評価されなかったですね。
生きているときに認めてやらなくちゃ意味がねえんだよ!
と言いたくなるのはやまやまですが、ショーペンハウアーが言う通り、幾世紀も保存されたあと、改めて思索されるに足るものを生み出せるかもしれない想像力を、人間はみな持っている可能性を秘めている。
ショーペンハウアーはクリエイティブな趣味を最も尊いものと説いている。
だから、もし、物語を書いてみたいと思っている人、あるいは趣味が無くて困っている人がこれを読んでくれているのなら、まず物語を書いてみてはどうでしょうか、と勧めてみる。
始めのうちはとてつもなく難しいと思いますが(何年経っても難しいことには変わりないと思うけれど)書くのは楽しいですよ。
小説を書いている人や、Web小説を読みにここにきている人なら、みんな物語が好きなはず。
私も物語が好きだから、小説を書こうと思ってWeb小説の世界に生息したわけですよ。
けれど、物語を書くって本当に難しくて、作家さんや漫画家さんの凄さを本当の意味で知れました。
物語を作る上で何が難しいって、構成なんだと思います。
まあ、不条理文学系の話しなら構成なんて二の次でしょうけれど、エンタメ系の作品を書こうと思ったら、文章力よりも構成が大事なのだと思います。
文章力はいかに読者を飽きさせず物語の世界に引き込み読ませるか、構成を効果的に見せられるか、です。
裏を返せば、構成さえしっかりしていれば、意外と誰でも物語は作れるということだと思いません?
世の中にはテンプレが溢れているから、そのテンプレさえ使えば格段に書きやすくなるのですよ。
あの『鬼滅の刃』でもディスるつもりは全然ありませんが、テンプレの塊じゃないですか。
テンプレは面白いからテンプレになっているのです。
テンプレ展開を使えば、誰にもでも面白い作品が書ける可能性がある。
それだけで書くハードルが格段に下がって、始めやすいと思います。
他のテーマでも結論は殆ど同じになるのですが、夏目漱石や釈迦が説くように、人間が救われる方法は夢中になれる趣味(使命とも言っていい)を持つことが大切です。
使命を持っている人は幸福なのです。
物語を知ること、作れることは本当に幸せなことだと思う。
創作活動は苦しいけれど、とてもやりがいがある趣味だと思います。
改めて、この世界に多くの物語、芸術を生み出してくださった方々に感謝を込めて――。
あと少しで、今年も終わりですね。来年も書いていくので、よろしくお願いいたします。よいお年を――。




