『反出生主義』について
今回は今までで一番※閲覧注意※だと思います。だから、本当に読みたい人だけ読んでくださいね。それに、文字数が一万二千文字いってしまいました……。短くまとめるのが本当に下手。まあ、どれだけ長くても読みたい人は読むし、読みたくない人は文字数に関係なく読まないと思いますんで、一話の文字数なんて正直それほど関係ないのかも。
あなたは『反出生主義』という言葉を知っているだろうか?
最近流行っている『親ガチャ』なる言葉で知った人も多いかもしれない。
反出生主義とは文字通り、出生を反対する、この世界に生まれること、または子供を生み出すことを否定する思想のこと。
反出生主義には、“すべての人間は生まれて来ない方がよかった”という『反出生主義』と“すべての人間は子供を生むべきではない”という『反生殖主義』に分けることがことができるが、ここではわかりやすいように『反出生主義』で統一させてもらうけれど、大抵の反出生主義者は後者の反生殖主義が大多数だし、無理やりこの思想を押し付けもしないし、説得によって子供を生み出すことを辞めさせようという、平和主義者がほとんどであることをわかっていただきたい。
決して怖い思想ではないと思うし、どちらかというととても平和的にすら思う。
この世界に子供を生み出すことは良いことなのか? 悪いことなのか?
この思想は現代に始まったものでなはく、かなり昔から、私が知っている限りでは、古代ギリシャ、または二千年以上も前の仏教の開祖である釈迦が『反出生主義』を提唱している(もしかすると、釈迦や古代ギリシャ以前から反出生主義の思想があったかもしれない)。
それだけ人類にとって究極の問題であり、これから人類が生きていく中で、何度も議論されるだろうし、そしてこの問題は苦しみから解放される究極の真理だと言って間違いないだろう。
釈迦が悟った真理の一つに、生殖の否定という、この反出生主義の思想が含まれているわけだし。
と、今回は反出生主義について、私的意見を語っていきたい。
中立に語りたいとは思っているけれど私自身、反出生主義者だから、反出生主義側に少々偏ると思う(だってこの思想は否定できないから……)。
テーマがテーマだけに、とんでもなく重い話になるだろう。
誤解しないでいただきたいけれど、差別する気は0,1ミリたりともないことをわかっていただきたい。
差別は断固反対!
けれど、読む人によっては不快に思われたり、差別的に聞こえることが書かれているかもしれないから、無理だと思ったらすぐに閉じてくださいね……。
できる限り、生まれて来る意味を肯定できるような考えを書きたいつもりでいるけれど……。
では始めさせていただく。
軽く説明した通り、反出生主義とは、人間はこの世界に生まれない方が幸せだ、あるいは子供を生み出すべきではない、という主張を説いている。
反出生主義者として知られている人たちを挙げると、ショーペンハウアー、エミール・シオラン、デイヴィッド・ベネター、ザプフェ、釈迦、数多の上座部仏教徒、あとフランツ・カフカも明言はしていないが、子供を生み出すことに否定的だったことから反出生主義者だったのだと思う。
あ、あと現代の著名人を挙げると、お笑いタレントのヒロシさんも反出生主義者なのかも……?
ショーペンハウアーの本を読むと、彼がこの世界にどれだけ絶望しているかがうかがえるし、原始仏教を知ると、この世界には苦しみしかないということが実感できる(言い過ぎなような気がするけれど、快楽も苦しみと割り切る仏教的に語ると、この世界には苦しみしかないということになってしまうのだ)。
釈迦曰く、この世界は苦しみで溢れているのだ。
私たちが感じる快楽も、苦しみもすべて苦。
大乗仏教では、開祖である釈迦の教えを否定しているが、原始仏教を忠実に受け継いでいる、上座部仏教では、釈迦の教え(生殖の否定)を忠実に継いでいる。
生殖を否定している上座部仏教徒が現在でも脈々と存在することを思うと、いつの時代も一定数は反出生主義者が存在していることになる。
嘘か誠かわからないが、現在『反出生主義』の思想が静かな拡がりを見せているとも聞く。
昔もそうだったけれど、現代も苦しみが多いのは変わらないんだね……。
世界の闇の部分、ニュースなどで見る不遇な人々、日常生活での苦しい出来事などを考えてしまうと……「本当にこの世界に子供を生み出すのは良いことなのかな……」と常々思ってしまう訳ですよ……。
「日本に生まれて来れただけで幸せだ」という意見も結構聞いて、確かに、タリバンや紛争関係で大変な中東や、世界中の至る所にあるスラム街や、裏の世界などに生まれずに、国を脱出しなければならない心配を抱えず、衣食住に恵まれ、貪欲にただ命尽きるまで、命を浪費できるニーチェが言った末人のように幸福を享受できる日本に生まれて、十分私たちは恵まれている。
だが、夏目漱石が言うように、この世界のどこに住もうと住みにくいのは同じで、人間は強欲で足るを知ることができない醜い生き物。
どれだけ恵まれていても苦しみの大きい、小さいは関係ないと思うんですよ。
それを言ってしまえば、「世界中にはもっと苦しんでいる人がいるのだから、甘えるな!」と怒られてしまいそうだが、『苦しみ』についてでも触れたように、人間は他人の苦しみよりも、自分の苦しみが一番苦しいと思ってしまう自己中心的な生き物。
世界中のもっと苦しんでいる人から比べると、確かに日本に生まれた私の苦しみなどちっぽけな苦しみだろうけれど、苦しんでいる個人からしたら、自分の苦しみが一番の苦しみで、だから自殺者が年々増えているわけなのですよ……。
自殺した人に、「あんたの苦しみなんて、世界中で地獄のような苦しみを感じている人に比べたらちっぽけなものだよ」と悪気なく肯定するつもりで言ってあげたとして、その人が「ああ、そうだよな。自分なんかより苦しんでいる人が沢山いるから、自分の苦しみなんて大したことないな」と思い直し自殺を止められるだろうか?
逆に、「おまえなんかに俺(私)の苦しみがわかるかよ!」となって逆効果だと思うのですよ。
そりゃそうだ、他我問題が解けないのだから、相手の苦しみなんてわかりっこない。
更に例を挙げると、王子として生まれ恵まれていたはずの釈迦が苦しみを克服するために出家した話は有名。
確かに釈迦は王子として生まれた“クシャトリヤ”という王侯・武士階級だったわけだ(ヒンドゥー教では、生まれながらに階級が定められ、何代経とうと階級を変えることはできない)。
そして釈迦はバラモンに次いで二番目に偉い、クシャトリヤだった。
そんな恵まれた釈迦に、「あんたは十分恵まれているんだから、なに甘えてんだよ! ヴァイシャや、シュードラ、更に下には非人で苦しんでいる人が沢山いるんだぞ!」と言ってあげたとして、釈迦は「ああそうだよな、自分の苦しみなんてちっぽけだな」と言って出家を辞めただろうか?
たぶん、そう諭してあげても、釈迦の苦しみはなくならなかったと思う。
どのような境遇の人でも生きているからには、何かしらで苦しんでいるのは同じ。
そのような自己中的な苦しみを、子供たちに無理やり押し付けてしまっていいのだろうか……?
釈迦が説く通り、生きることは苦しむことであり、生きているからには“四苦八苦”の苦しみから絶対に逃れることはできない。
だから釈迦は輪廻する遺伝子を解脱させるため、生殖を否定して、新たに苦しむ子供を生み出さないであげよう、という救いの真理に至ったわけだ。
『パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と ――スッタニパータ――(正田大観訳)』
とスッタニパータには記されている。
つまり“子供が欲しい”と子供を生むことは今生きている人間が、生きる意味を得る、喜ぶための依存ということ。
喜びを得るためのエゴ、と。
確かに……子供を生み出すということは、子供に選択権がない時点で、親となる人間の“エゴ”だと言われると否定できない……。
結局すべてはエゴということになるんだよね、ほんと……。
命ある者いつかは死ぬわけで反出生主義者の中には“出産は殺人”という文字通り『殺人出産』という過激な意見を唱える人までいる。
認知能力の発達した人間には、余りに酷な話であることも否定できない。
私たちは必ず死ぬのに、何故生まれる必要があるのか。
始めから生まれなければ、苦しむことも、死の恐怖に怯えることも、精神を病むことも、苦痛を感じることもないのに。
四苦八苦の定めを子供に背負わせるのは余りに酷な話ではないだろうか。
このような子供に苦しみを味わわせないであげよう、という説を反出生主義者は“苦痛回避論”と呼んでいるらしい。
この苦痛回避論えの反論として、「生きていれば楽しいことも経験もできるじゃなか。子供の楽しみを奪うのもエゴではないか」というもの。
同時に、その反論にも「確かにな」と心が揺らぐ。
けれど、そんな反論など簡単に論破できて、以前読んだシェリー・ケーガン氏の『「死」とは何か』という本の中で、死が悪いのは「生きていたら経験できる良いことを剝奪されるから」という“剥奪説”を説いていた。
反出生主義者はこの反論に「産まれなければ、何も想うことも、幸福の剥奪という概念すらあろうはずがない」というもの。
生まれてしまえば死ぬことによっての剝奪説が適用されるが、生まれなければそもそも存在しない、つまり観測しなければ存在しないという量子力学でいうところの観測者効果と同じというわけで、剝奪説は適用されない。
う、うう~ん……、確かにどれだけ否定しようと思っても、反出生主義の苦痛回避論を攻略する説は、どれだけ考えても見つからなかった……。
つまり、どれだけこの世界に生きている人たちが綺麗ごとを並べようと、子供を生み出すことはすべてエゴになってしまう。
生まれる前の状態とは涅槃であり、究極の楽園で、子供を生み出すことは楽園追放させるということだと解釈でき、罪深い行い、という考えに至ってしまうのですよ……。
こう反出生主義のことを書いていくと、反出生主義者がみんな子供を生み出すことを悪だと思っているというふうに捉えられてしまうが、そんな過激派ばかりではなく、説得により段階的に出生を減らしましょうという穏便派が大多数だし、生まれてきた命は祝福するべきだ、という考えがほとんどだ。
“人間は生まれない方がいい”と説く反出生主義の方ではなく、生まれてしまったのなら仕方がない、人生自体を肯定するけれど、出産は子供のためにもやめてあげましょうね、という反生殖主義の意見が多数だ。
ちなみに上座部仏教徒たちも、反出生主義者ではなく、反生殖主義者の方だ。
世界中の人みんなが厳格な上座部仏教徒になれば、ゆっくりと人類は滅びることができるが、夢物語だとしても不可能としか思えない。
生物には生殖本能という厄介なものをDNAによって組み込まれていて、これにより私たちは性という情動に、常に悩まされるわけだ。
性を満たすと快楽を感じるのも、DNA、脳によって調教、心理学用語で言うところの“条件付け”されていて、私たちはDNAを複製するたにだけ存在する機械であり奴隷。
死ぬまで一生、本能の束縛から逃れることはできない。
というものの、その情動からは逃れられずとも、現代では避妊方法が確立されているのだから、性行為だけがしたいなら、ちゃんと避妊すれば反出生主義を守ることができるようになり、昔と比べると後はエゴをどうにかすることで、人類は計画的に滅びることが可能になっている。
上座部仏教徒になってしまうと、性行為自体を禁止されてしまうが、普通の反出生主義者はストア派のようにストイックではなく、性行為自体を否定しているわけではない。
ゲスな発言に取られてしまうかもしれないけれど、子供を生まないのであれば性行為をどれだけしても問題ない。
子供はこの世界に生まれたいか、生まれたくないかを選ぶことができず、環境も選ぶことはできない。
親ガチャという言葉は嫌いだけれど、親ガチャ外れたと言っている人たちの言うことも否定することができない例もあるわけで、難しいですね……。
いい親、良い環境で産まれるのならまだ救われるかもしれないが、ニュースなどでも報じられるような酷い親が世界には意外と多くいるように、そのような親のもとに生まれてしまった子供は、どうすれば救われるのだろう?
子供を捨てる親、虐待する親は意外といるのですよ(やむなく施設に預けることになった人もいるけれど……)。
親が良い親でも、周りの環境は?
障がいを持つ、持たざるかは?
学校にもよるのだろうけれど、必ずと言っていいくらい、一クラスの中に少なくとも一人は、環境に恵まれていないな……という子がいると思う。
一クラスにそのような子が必ず一人いるということは、全国で考えるととんでもない数に上る。
子供は自分の力で運命を切り開くことができるだろうか?
運命を切り開けるのは、能力の高い子や、周りに助けてくれる人や環境が整っているかの運に頼るしかないわけだ。
虐待やネグレクトなどをする親も、親から愛をもらえなかったのかもしれない。
親から愛されなかった人間は、同じように子供を愛せない、という訳ではないけれど、悲しいことにそうなってしまう確率は高くなると統計が証明しているらしい……親の不幸は、子の不幸(悪循環は連鎖するんだね)。
親の所得や遺伝的能力がかなり大きく子供の人生を左右するという話は、もう説明するまでもなくみんな知っていることと思うけれど、今の学歴社会、能力主義社会では、いい学校に入るためにお金をかけて、勉強できる環境を整えてもらっている人の方が、断然有利だ。
人の社会でも自然法則の原理は機能していて、自然選択的に優秀な遺伝子を持つ男性には、優秀な遺伝子を持つ女性が、というふうに自然選択がされていく(差別のつもりは本当にない……)。
そうなれば、遺伝子の突然変異でも起きない限り、能力に差が生じてくるのは当たり前で、能力主義社会は格差を助長する機能を果たす。
環境が良ければ、色々恵まれない環境の人たちよりも有利になるという、悪循環が続くように善循環も続く。
親ガチャなどの言葉が言うように、そのような要因は間違いなく運で、「運も実力の内」ではなく、「実力も運の内」なのは事実。
反出生主義者はその運説を親ガチャなどと言わず、“ロシアンルーレット論”と呼ぶらしい。
つまりギャンブル。
自分の代は大丈夫、次の子供の代も大丈夫だった、だが孫の代は? そのまた孫の代は? 確率の問題であるわけだから、いつかは何かしらでロシアンルーレットが外れるときが来る。
「そんな先の先の代まで関係ねえよ!」と言ってしまえばそれまでだけれど、ギャンブルである限り、いつかは不運な子供を生み出してしまうのは必然(そうなれば、絶対祖先たちは恨まれるんだろうね……)。
ギャンブルとは引き際が大切で、頃合いを見計らって引かなければならない。
その引き際が、子供の代か、孫の代か、ひ孫の代か、いつかはやってくるのなら、その引き際の役目を自分の代に背負ってやるか、というのが反出生主義者の主張。
そういう話をすると、貧しい人は、能力の劣る人は子供を持ってはいけないのか、と言う話になって優生思想のような話しに聞こえてしまうが、差別をしようとして書いているわけではないことを重々理解して欲しい……。
子供を持つのは、愛してあげられるなら、どんなに貧しかろうと自由だ。
けれど、貧しかったら子供に与えてやれる経験や、情報などが少なくなってしまい、恵まれた人たちよりは不利に働くという事実も考えた上で出生を考えた方がいい……。
愛してあげるのは必須条件で、そこからプラスアルファどれだけ子供を幸せにしてあげられるかは別問題なのだから。
こういってしまうと、一人親などで一生懸命に子供を育てている人を傷つけてしまうかもしれない……。
わかって欲しいのは、そのようにちゃんと愛を持って育ててくれた親を、子供は『親ガチャ外れた』などのゲスな言葉で貶したりはしない、ということ(親ガチャ外れた、という言葉は嫌いだけど……)。
けれど、やはり、愛があっても、理想論だけでは子供を幸せにはしてあげられないし、何も与えてはあげられない。
『バビロンの富豪の教え』のように、自分で生きていく方法を子供に教えてあげられるか。
生きるために必要な知識を教えてあげられるか。
そのために足場を築いてあげられるか?
大抵の親はできていないのが現実。
子供を生み出したのなら、ちゃんと育てるのは義務であり必須条件。
養育費、学費を払ってやっているのだから文句を言うな、と言いたい親の気持ちもわかるが、子供は勝手に生み出されているわけで、生まれてしまえば生きていく義務があり、そのためには勉強をして、自分で生きる力が付くまでは育ててもらわなければならない。
だが酷い無責任な親も世界には沢山いて、力のない子供たちを虐げ、親の権威を振りかざすだけの親とも言えない親もいる。
「おまえなんか産まなければよかった」と平気で言う親もいるし、毒親と呼ばれる類の親など掃いて捨てるほどいるということを理解して欲しい。
最近では“トー横キッズ”と呼ばれる行き場のない子供たちが、トー横だけではなく、日本各地にいるわけだ。
酷いゲスで人間とも思えない大人たちは、そのような子供たちを利用したり、性欲を満たすためだけの売春をする。
そのような話しを聞くたびに、本当に悲しくなる……。
だが、子供たちは帰る場所、行き場がないのでどうすることもできない。
親はいったい何をやっている?
そのような毒親は「親ガチャ外れた」と言われても仕方がないと私は思うのです……。
虐待やネグレクトだけではなく、世の中には毒親と呼ばれる親が沢山いるのですよ。
ちょっと自分に置き換えて考えてみてくださいよ。
あなたは「親ガチャ外れた」と言われる毒親にならないと言えますか?
ならないという保証はないのですよ。
大抵の毒親は、自分が毒親だという自覚がないのですよ。
親ガチャ外れたと言われてもいいから、子供を生むという人もいたのですが、それって子供のことを全然考えていないエゴイストの発言じゃん、と思うのです。
親はまず自分ファーストではなく、子供ファーストですべてを考えないといけないでしょ。
けれど、世の中には自分ファーストで考える親で溢れている。
子供を育てるとは、ただ大きくするのではなく、生きるために必要な知識を教えるということ。
大抵のオリンピック選手、政治家、あるいはエリート職の人たちは、親が小さい時からいい環境で、良い教育を受けさせ、技術を教え、感性を磨いてあげている事実。
環境や遺伝のせいにするな、という言葉をよく聞くけれど、実際環境や遺伝ってかなり人生に大きな影響を与えていると私は思う。
教育は学校に任せていればいい、と言う話ではない。
生きるために本当に必要な知識は学校では教えてくれない。
学校は社会に出るまでの、階段でしかない。
本当に大切な知識を教え、足場を築いてあげられるのは親だけなのだ。
だから、どれだけ子供に生きるために必要な知識を教えてあげられるかは親の能力の問題。
親の能力が高ければ、バビロンの富豪のように子供たちを幸せにしてあげられるが、能力の低い親ならそれは望めない……。
だからどうしても知識格差や、所得格差、経験格差のような格差が酷くなる一方なんだよね……。
こればかりはどうすることもできない。
何が言いたいかというと、結局出生とは、親となる人間のエゴなのだから、子供を生むとき、親となる人は子供に何を与えてあげられるかをよく考えましょ、ということ。
ちゃんと子供を育てていける環境かどうか。
差別のつもりで言っているのではないが、あなたの遺伝子は優秀か。
ちゃんと愛してあげられるか、幸せにしてあげられるかを考えましょう、という話になるのだけど。
そして、もう一つ、現代では、生まれる前に障がいを持っているか、そうでないかを知ることができるという。
ここで生じる倫理的な問題は、障がいを背負っていることがわかっていて、子供を産むべきか、産むべきではないかという問題……。
倫理的に考えれば胎児にも人権があるのだから、産むべきだ。
障がいを持っているからって、産まないのは差別だ。
という声が上がる。
私も障がいを持っているからって産まないのは酷い……。
差別だよな……という気持ちを抱くが、障がいがあるとわかっていて、産んでやるべきか、そうでないかの答えが出せないでいる(この問いに答えなどない)。
子供が産まれて成長していく過程の中で、何らかの障がいを持っているのなら、障がいで一生苦しむのは絶対だし……。
差別はやめよう、という運動が拡がってはいるが、私は人間が人間である以上、差別は無くならないと思っているので、唸ることしかできない。
確かに差別反対活動が高まる中で、差別が表面化しないようになっていくだろうが、それは表面化しないだけで、無くなったわけではない。
その証拠に人間の本性が表れる匿名のネットの世界では、人間の残酷さが顕著に表れている。
政治家や著名人でさえ差別的発言をぽろりと漏らしてしまうことがある。
障がいを持って生まれてきて、そのような差別をされるのは悲しいけれど絶対なのだ。
そのような苦しみの十字架を子供に背負わせてやっていいのだろうか……?
勘違いされてしまいそうだから一応言っておくが、ナチスがやったようなホロコーストのような虐殺は許されるものではないし、旧優生保護法のようなことも何があっても正当化されるものではない。
反出生主義者の意見はそのような強制的な反出生の押し付けではなく、よく考え、本人が納得したうえで子供を生み出すことが良いことなのかどうかを考えましょう、という平和的なものだ。
愛を持って育てられるなら、生みたいなら生めばいい。
だから、障がいを持っている人が一生懸命に生き抜いている姿を見ると、そのようなことを思うことに罪悪感を抱いてしまう……。
何度も言いうけれど、差別のつもりで書いている訳ではないことをわかって欲しい。
障がいを持っていても、あんなに一生懸命に生きている姿は美しく、心震わされる。
障がいがあるから産むべきではないと私は思わない。
どんな障がいを持っていようと、社会的なはみ出し者だろうと、生きる権利、義務があるし、生きているだけでいいのだと思っている。
けれど、思考のジレンマにはまってしまい、障がいがあっても産むべきだという意見には深く賛同するが、障がいを持って生まれてしまう苦しみを考えると答えが出せない……。
胎児にだって感情や思考はあるので、だからって殺してやるのは道徳的に私も反対なのだ。
精子と卵子が結合してしまったら、生んでやるべきだ。
それがエゴで子供を生み出した親の義務なのだと思うから。
だからこの問題に対する明確な答えは出さない。
いや、出さないのではなく出せない。
だが、反出生主義はそのような倫理道徳問題にも、最適解を提示してくれている。
“始めから子供を生み出さなければ”つまり、精子と卵子を結合させなければ、そのような道徳倫理的な問題が発生することもない、というもの。
苦しみが発生することもない。
当たり前だが初めから存在していないのだから、何も問題が発生することすらない。
と、反出生主義者の意見をここまで書いてきて、では、どうして私たちは子供に苦しみを背負わせることが絶対にわかっていて、子供を生み出すのか?
まあ、エゴという答えは脇にいったん置いといて、いくつかの理由があるが、私が一番に挙げるのは『人間が弱いから』だと思う。
この地球上を統べっている人間。
どのような動物にも文明の利器で勝つことができる人間だが精神的には“弱い”。
ニーチェは超人になることで人間は救わると説いた。
つまり、孤高。
独りで生まれ、独りで死ぬ。
極端すぎるが、ようはそういうことだ。
確かに、そうなることができれば反出生主義は完成し、人類は徐々に衰退して救われるだろう。
二千年以上も遥か昔から、反出生主義という究極の救いの真理に人類は到達しているが、その真理を実行できる超人になれる人間ばかりではない。
何度もいうが人間は弱い。
生態ピラミッドの頂点に君臨する動物ほど、個体数が少ない。
何故なら子供を多く作り出す必要がないからだ。
生態ピラミッドの上部に君臨しているだけあって、捕食者がいなく、そう多く子孫を残すよりも、数少ない子供をちゃんと育てた方が種の存続には有利だから。
数の多さが生態ピラミッドに関係するのなら、人間は生態ピラミッドの最下層に位置しているか、除外されるべき存在だ。
人間は孤独を何よりも恐れる弱い生き物だから、一人で死ぬことができず、誰かを求める。
ショーペンハウアーは人間の社交性は社交を愛するからではなく、孤独を恐れるからだと見抜いた。
結構過激に聞こえるけれど“子供を生み出すのは人間が弱いから”という理由は間違ってはいないと思う。
親となる大人の自己中心的なエゴでしかない。
自分の老後を世話して欲しいから、生み出すのか?
自分の孤独を癒して欲しいから生み出すのか?
自分の生きる意味を得るために生み出すのか?
自分を肯定するために生み出すのか?
子育てしてみたいから生み出すのか?
性欲に流されて生み出すのか?
二人の愛の証として生み出すのか?
周りに目、同調圧力に負けて生み出すのか?
すべては自分のためで、そこに子供のためという理由は絶対に含まれない。
子供のためを思うなら、生み出さないのが一番いいに決まっている。
残酷に聞こえるけれど、子供を生み出すのは間違いなくすべてエゴなのだと思う。
エゴを認めなければならない。
独りで生まれて、独りで死ぬことができれば、生まれて来る子供もいなくなり、苦しむ子供もいなくなるわけだから。
確かに、結婚して子供を持つのは幸せな形だと思う。
けれど、結婚しても子供を作らない夫婦も結構な数いるわけだ。
子供を作らない夫婦も増えていると聞く。
幸せの形は一つじゃないし、家族の形も一つではない。
LGBTの人たちが家族になってもいい。
LGBTの人たちは生産性がない、と言ったり思ったりしているどこかの政治家たちの立場に立って言うなら、反出生主義者も生産性がなく生きる価値がないとなるのだろうけれど、私はそう思わない。
子育てがしたいのなら、子供を生まなくても、里親や特別養子縁組などの制度もあるわけだから、そのような恵まれない子供たちを引き取って親になることもできる。
哲学者のテオフィル・ド・ジローは、世界中に何百万人もの孤児がいることに触れ、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを養子にする方が良いだろうと述べた。
今の日本の方針に背くことを書いているけれど、日本にも沢山の孤児がいるのに、その子供たちを救済せずに、新たに産めよ増えよというのは無責任なように私は思ってしまう(不妊治療をしている人を差別しているつもりは毛頭ない)。
血の繋がりはなくても、家族になることができるのだから。
人によっても考えは違うと思うけれど、私は血の繋がりだけが家族の定義ではないと思う。
血の繋がっていない者同士が出会って家族になるのだから、家族とはよく誓いの言葉などで聞くように、苦しいときも、どんなときでも共に乗り越え、喜ぶ集りを家族というのだと。
あれやこれや考えてきたけれど、結局この世界に子供を生み出すことはエゴだという事実を否定することはできなかった。
どのような反論をしようと最強の右『苦痛回避論』と最強の左『ロシアンルーレット論』のダブルストレートで論破されてしまう。
この最強の思想と正攻法で戦っても、絶対に勝つことができないという結論に至る。
なら、反出生主義の否定ではなく、生まれて来るこの世界の肯定をするしかない。
以前にも何かで述べた通り、エゴは仕方のないことだと思う、と肯定する。
人間みんなエゴイストなのだから、否定したって始まらない。
例えエゴで偽善だろうと、その偽善で助かる人がいるのなら、それはいいことだと同じように、エゴで生み出しても幸せにしてあげられる自信があるのなら生み出してもいい。
子供の許可はないけれど、ちゃんと愛を与えて一人前に育ててあげられるなら、「生んでくれるんじゃなかった!」とか「親ガチャ外れた」などという言葉は言われないと思う(思いたい)。
つまり、子供を産んで幸せにしてあげられるのなら、それはエゴの偽善であってもWin-Winな関係でいいことだと肯定するしかない。
ここまで色々語って来たが、生まれることと、生まれないことどちらが良いかと聞かれれば、私はやはり生まれない方が幸も不幸もなく、良いと思う結論に至ってしまうけれど、生まれたら生まれたなり良いこともあるのだから、生まれたからには醜くても、生きなければ。
人間の本当の美しさとは、どんな過酷な環境や状況でも、懸命に生きているその姿に見つけることができると私は思っている。
私が感動系の作品が好きなのも、過酷で辛い環境でも、地をはいずりながらでも、苦しみながら一生懸命生きているその姿に生きることの過酷さと、美しさを見つけられるからだと思う。
どんなに過酷でも苦しみながら懸命に生きているその姿は美しい(そう言ってしまうと、とんだドS的発言に聞こえてしまうけれど……)。
本来産まれうるところも、生きることも醜いことなのだ。
醜くなければ生きられない。
その醜さに本当の美しさがあると思う。
有名な歌の歌詞にこんな一文があるではないか。
『ドブネズミみたいに 美しくなりたい 写真には写らない 美しさがあるから』
すごく文学的な名文で、正に言いたいことはこれ。
“ドブネズミ”と“美しさ”という一見相反するもの同士だけれど、ここで言われている美しさとは写真に写るような美しさではない、と。
醜いけれど、一生懸命に生きている姿に美しさを見出したのだと私は解釈している。
人の世は醜いけれど美しい。
生まれて来たことに対する、これ以上ないであろう言葉をニーチェが残してくれている通り。
『たった一度でいい。本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する』
この言葉は反出生主義に対する最適解のように思う。
生きることには必ず苦しみが付きまとうが、たった一度でもいいから、魂が震えるほどの悦びを味わったなら、その人生はすべて肯定される。
この世界に生まれなければ、苦しみを味わわない代わりに、悦びを味わうこともない。
どちらが正しい、間違っているなどという問題ではなく相対主義的に人それぞれだ。
生まれればいいこともある。
生まれない方が幸せという反出生主義を論破すること絶対にできないけれど、一元的に判断するのではなく、多元的に色々な考えがあってもいいという結論で落ち着かせてもらう。
日常のふとしたことや、美しい自然を見たこと、面白い物語を知れたこと、このような世界があるのだと知れたこと、私たちが感じるすべてのことは、生まれなければ感受しえなかったこと。
人間必ず死んで無に帰すとしても、この世界の美しさと、残酷さを感受した記憶と共に無に帰すことができるわけだ。
確かにこの残酷で醜くて美しい世界に、私たちは存在し苦しみながら生きていた。
フィクションでもなんでもなく、疑いようのない事実として。
生まれないのが一番の幸せに越したことないにしても、生まれてしまった私たちにはどうすることもできないのだから、生きるに値する世界を死ぬまで生きるしかない。
そして、もし子供を幸せにしてあげられる自信がないのなら、反出生という選択肢も考えて欲しいと思う。
まず考えないといけないのは、子供ファースト。
エゴで生み出されて一番苦しむのは子供なのだから。
これから先、千年、二千年、三千年経とうと、人間が存続しているからには、「子供を生むか、生まざるべきか」の反出生主義の思想は議論され続けられるだろう――。
このエッセイは私的意見に偏っていますんで、興味があったらご自身で『反出生主義』について色々調べてみてください。と、まあ、お疲れ様です! メンタルは大丈夫ですか? (おまえが言うか!)
自分でも文章が硬いと思いますわ……。文章を柔らかくするにはどうすればいいのでしょう? 文章が柔らかければ、これほど重々しくはならないかも。顔文字でも多用すればいいのか、文語体ではなく、口語体ふうにするべきか(文語体と口語体の区別がいまいちついていない)。あと、文字の行間に作る空白が一番困ります。Web小説だと行間空いていないと読みにくいでしょ。あれ、何行ペースで開けるべきかいまだに悩んでいます。




