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『孤独』について

 毎回短くまとめようと思ってるんですけど、どうしても長くなりますわ……。二千文字くらいが読みやすいですよね。だけど、本題に入る前置きだけで千文字以上使われているので、二千文字じゃあ何も書けないのですよ。なら、上下に分けようかと思ったのですが、どうしても一テーマにまとめたいのです(話は毎回脱線していますけど)。

 だから、長くなっても一エッセイにまとめたい。今回も六千文字近くありますが、それでもブックマーク登録してくれる人や、立ち寄って読んでくれる人がいる。最終的に何が言いたいかって、毎回こんな暗いエッセイ読んでくださってありがとうございます、ということが言いたかった。読んでくれる人がいるから書けているのですから。

 いきものはみんな孤独を抱えて生きているのだと思う。

 何をしていても、誰かと一緒にいても、ふとした瞬間に孤独を感じるときが誰にでもあるのではないだろうか。

 コロナ禍の現在では特にそう感じる人がいるだろう。


 コロナ禍以前は、誰かと会って、どこかに遊びに行って、何かをして、孤独を紛らわせることができたけれど、現在は難しくなり、紛らわせていた孤独が顕著になったせいで自殺者も増えている(※それだけが原因ではないけれどね)。


 孤独が怖いから、独りでいる時間が怖いから、SNSで誰かと常に繋がっていたいと思ったり、嫌われないように無理に人に合わせたり、友達が欲しい、家族が欲しいと思う。

 みんなみんな、嫌われる勇気なんてない。

 人は集団生活をする生き物だから、そう思うのは仕方がないこと。


 孤独を怖がるのは、遺伝子レベルで変わらない限りどうすることもできない。

 ショーペンハウアーは孤独を愛さなければ幸せにはなれない『孤独は優れた精神の持ち主の運命である』と言い、『人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである』と言った。


 優れた精神の持ち主という部分は違う気もするけど……(犬や猫のような多くの動物も孤独に苦しむわけだし)。

 人間の社交本能も、根本は直接的な本能ではない、というのはよく観察していると思う。

 卵が先か鶏が先かという問題のようで答えはないと思うけど、人が誰かと繋がりたいと思うのは、集団生活をする生物だからという以前に、孤独が怖いからなのだろう。


 どれほど成功している人たちでも、有名人でも自己顕示欲がある。

 人は誰かに肯定されなければ、幸せを実感できない弱い生き物だと中村文則氏の『R帝国』で述べられていた。

 突き詰めれば自己顕示欲も、孤独を怖がるから生じる欲望で、自分で自分が肯定できれば、自己顕示欲も湧かないし、孤独を感じることもない。

 

 人間の本能はもとより集団主義で社交的ではなく、孤独を恐れることから集団主義や社交的にならざるを得なかった。 

 孤独を恐れる本能が、文明をこれほど発達させたと言えなくもない。

 と、今回は孤独について、独断と偏見で語っていきたいと思う。

 一応保険のために言っておくけれど、これは独断と偏見で書いているので、間違ってもそんなことはないと思うが、真に受け過ぎないように。


 ショーペンハウアーが言うように、孤独を愛せるような超人になれれば人は救われるのだろうけれど、人間は改造手術でも受けない限りショーペンハウアーやニーチェの言う超人にはなれない。

 一番いいのは要領よく、人と付き合えるようになればいいのだが、要領よく人と付き合うのは本当に難しいことで実践できている人などごくわずかだろう。


 本屋に行けば、対人関係の本が沢山あるわけだし、それだけみんな対人関係で苦しんでいるのだ。

 人の世の苦しみの殆どが対人関係の苦しみだと『嫌われる勇気』で書かれていたと思う。

 夏目漱石も「とかくに人の世は住みにくい」と『草枕』に書いているが、最終的にどこに住んでも住みにくいのは同じで、だから芸術が生まれるのだと説いているわけだ。


 非繊細さんなら要領よく人間関係を築けるだろうけど、繊細さんは難しいのよ(ほんと)。

 人の気持ちに必要以上にアンテナを立ててしまって気が滅入る。

 たぶん、そういう繊細さんは多くて、それが表面化してきたからソロ○○が言われ出したのだと思うしね。


 ショーペンハウアが言った孤独の自由は、現代風に言うならソロを愛せる人は幸せだ、ということになると思う。

 YouTubeでソロ○○と検索してみると、意外と色々な人がソロで楽しんでいる動画が見られる(ソロキャンプとか人気だよね~)。

 ソロはまだネガティブなふうに捉えられがちだけど、ソロでなければできないことだって沢山あるのだから。


 例えば、こういう執筆だってソロでなければできない。

 その他にもソロでなければできないことが沢山あるのだから、決してネガティブな意味だけではない。

 何かを成し遂げるには、人間孤独でなければできないことがある。

 歴史に名を残している人たちは孤独な人が多いように思う。


 アインシュタインも『ベルリンでも、何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのです』と言ったというし、ノーベル文学賞を受賞したヘッセも『人生とは孤独であることだ。誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かねばならない』と残している。 


 ベクトルは違うかもしれないが、『変身』『城』などの作品で知られるフランツ・カフカも精神的に孤独な人だった(カフカの絶望語録などを読んでもらいたいが、付き合うのは面倒くさいだろうけれど、傍から見ると愛すべき人だと思う)。


 その他に、田山たやま花袋かたいというわりとマイナーな人の格言なのだが、心に残っている言葉がある。

『人間は元来一人で生まれて、一人で死んでいくものである。大勢の中に混じっていたって、孤独になるのは分かり切ったことだ』というもの。


 この一人で生まれて、一人で死ぬという言葉わりと有名ではないだろうか?

 それらの名言を聞いてもわかる通り、人間はみんな基本的に孤独設定なのだ。 

 誰かと係わり、一瞬は孤独を埋めることができるかもしれないが、離れてしまえばすぐに孤独に囚われる。

 孤独も欲望と同じで枯渇することなく、生きている限り満たされることはない。

 孤独を愛せなければ、一生苦しむことになる。


 では田山花袋が言った、『人間は元来一人で生まれて、一人で死んでいくものである』とはどういう意味だったのかを私なりに考えてみた。

 現代の感覚で考えれば人間一人では生まれて来ず、多くの人の力によってこの世界に生み出されている。

 精子と卵子が結合するには二人必要だし、出産するときも産婦人科医や助産師さんたちが常に付き添ってくれている。

 その他にも、産まれて来るに従い、めんどくさい手続きが沢山ある。


 その時点で人間一人では生まれてきていないことになるのではないだろうか?

 そして死ぬときも家族や知り合いに看取られながら亡くなる人もいる。

 そういう人たちは、一人で生まれてきて、一人で亡くなったのだろうか?


 その問いに対して私が出した答えとして、田山花袋がおっしゃったのは物理的な意味での一人ではないのだ、ということ。

 精神的な意味での一人だったのだと思う。

 人間の意思を生み出す脳は当たり前だが、一人に一つしかない。

 この世界を見て、思考するのも脳一つだ。

 脳が繋がらない限り、他者が何を考え、何を感じているかなど、脳の中で起きていることは推測する以外にない。


 それは『他我問題』と同じだと思う。

 他我問題とは『〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。赤を見たときの私の行動的反応と友人のそれとがほぼ同じならば友人は私とほぼ同じ感覚をもったと類推できる,というのである(コトバンク 引用)』


 つまり相手の心はクオリアなのだ。

 どれだけ考えても、相手の心は知りえない。 

 他我問題を考えることは、人の孤独を考えることと同意。

 他者と脳が繋がっていないのだから、結局すべて自分の解釈で相手と繋がれたと思い込んでいるだけだし、自分の解釈で孤独を感じている。

 結局この世のすべては、考え方ですべて決まる。

 この孤独を感じてしまうのは、脳の性質の問題に帰結する。


 脳の性質は大きく楽観脳サニーブレイン悲観脳レイニーブレインに分けることができる。

 孤独を感じる人は悲観脳レイニーブレインの人なのだと思う。

 これはもう脳の性質の問題だから、生まれつきの悲観脳性質の人は、誰かと一緒にいても孤独を感じてしまうのだね……。

 そのような人は孤独を受け入れるしか道はない。

 

 よく人生は道に例えられることがある。

 人間は皆いつの間にか、終わりの見えないどこまでも続く一本道を歩いている。 

 その道一本に対して、一人しか歩くことができない。

 となりを見れば、同じようにどこまでも続く一本道を歩いている人たちが、人間の数だけいる。

 そしてその道を歩く人は様々で、遅い人もいれば、速い人もいる。

 

 そうなれば結果的に最期、歩けなくなるそのときまでに進める距離にかなりの開きがあるだろう。 

 私たちはそのような終わりの見えない人生という道を歩いているのだ。

 その道はどこまで行っても、平行線で決して交わることはない。

 それもそのはず、人間の脳がどことも繋がっていない、いつまでたっても繋がらない以上、一人なのだから。


 そしてどこまでも続く終わりの見えない道にゴールを設けるときは必ず来る。

 人間は元来一人で生まれて、一人で死んでいくものである。

 誰かに看取られながら死を迎えるときも、脳が繋がっていない以上独りなのだ。

 意識は収縮していき一人でどこかに消えてしまう。

 脳が繋がっていない限り、意識がなくなる脳も一つ。

 どこかに消えるにしても、その意識が入れるどこかは一人専用なのだ。


 例え愛し合う二人が心中して共に死んでも、死ぬ瞬間までは孤独は誤魔化せるかもしれないが、死ぬときは脳が繋がっていない以上独りで無に帰すだけだ。

 脳科学的にそう考えると、一人で生まれて一人で死ぬ、という問題にも答えられる。

 “脳は繋がっていない以上、誰だって孤独だ”ということ。

 目や耳、五感から入った情報をアルゴリズムが勝手に処理して、勝手に世界を解釈している。


 それが嫌だと言うのなら、以前にも言ったがエヴァンゲリオンでゼーレがやろうとした『人類補完計画』や、伊藤計劃氏が『ハーモニー』で書いたハーモニクス計画のように、人間から意識を無くしてしまわない限りは救われない。

 そしてこれから更に科学が発展すれば、人類補完計画的なことが本当に行われ、人間は孤独という苦しみを克服できるかもしれない。


 どうやって? SF作品などで描かれているように、人間の脳を電脳化して、ネットワークで繋げることで脳はもう孤独ではなくなる。

 脳を電脳化など本当に可能なのか? という問題になって来るが、私の判断でしかないが、たぶん可能だ。

 百年や二百年ではまだ無理かもしれないが、千年単位で考えるとたぶん、脳の電脳化だけではなく、不老不死も可能になっていると思う。


 またの機会に不老不死や、脳の電脳化・義体化のテーマも書きたいと思うから、ここでは深く書かないけれど、『サピエンス全史』で知られるユヴァル・ノア・ハラリ氏は『ホモ・デウス』の中でこれから先の時代はデータ至上主義(データ教)が世界を席巻すると予期している。


 今までは神が最上の存在だったが、科学が発展するにしたがって、人間至上主義になり、人間が最上の存在になったように、デジタル技術がこれからさらに発展することで、人間よりアルゴリズム的データが最上の存在になるとされている。

 そうなれば、人間の脳や体を機械に換えることができるようになると、私は思っている。


 その他に、機械と人間が一つになるトランスヒューマニズムや、デザイナーベイビーが当たり前になり、私が勝手に予想するに、第二次認知革命は人間から自己の同一性を無くして、デジタル上に自分と同じ思考パターンを持つデータを生み出すことで、人間は電子の世界に移るのではないかと。


 そうなるためには、人間の唯心的な同一性の自我を大切にする人間至上主義を捨て去り、完全にデータ至上主義に移行する認知革命をもう一度起こさなければならない。

 話しを省き過ぎているからわけがわからないと思う(またいつか話す)。

 信じるか信じないかは、あなた次第です!

 

 と、まあ、話がそれたが、ここまでは人間の孤独について語って来たが、孤独を怖がるのは何も悪いことではないと私は思っている。

 人間の脳をネットワークで繋げることも、人類補完計画をする必要もないのだ。

 繋がり過ぎれば繋がり過ぎたで、別の苦しみが生じるのだから。


 ショーペンハウアーの言う通り、孤独は受け入れさえすれば、孤独は意外と幸せなのだ。

 そういうと語弊に聞こえてしまうな……。

 本当の孤独は良くないと私も思う。


 人間平行線の道を一人で歩いていても、となりの平行線を歩く誰かと会話をしたり、共に精神的に支え合いながら、その道を完走することができるのだから。

 マラソンだってそうだろう。

 自分の力で走っているが、一人で走っているのではないから頑張る力がもらえるときがあるのではないだろうか。


 例え脳が繋がっていない一人な状態でも、誰かとコミュニケーションを取ることで、一緒に走っている誰かの存在を感じることで私たちは走ることができている。

 そうなのだ。

 ただの気休めでも、幻想でも、そう思うことで道を進むことができる。

 だが、独りと一人は違う。

 同じ孤独でも、良い孤独と悪いこと孤独がある。


『孤独』と言うのは誰とも繋がりがなく、社会的に孤立している状態を指していると思うし、『一人』は社会的な孤立ではなく、いつでも誰かと繋がれるが一人でいる状態を指していると私は区別している。


 決して交われない平行線を歩いていても、誰かがとなりの平行線を歩いると思えれば、少しは一人が満たされるが、孤独だと本当に独りで平行線を歩いている状態だ。

 だから、社会的な孤立は良くない。

 社会的な孤立をせず、誰かと一緒にいられるがあえて、一人で過ごしている。

 寂しくなればいつでも誰かと繋がれる。

 

 人間には一人で過ごす時間も、誰かと共に過ごす時間も大切。

 私たちは一元的に物事を判断したくなるが、この世界に一元的な答えなどなく、本当は多元的に相対主義的に物事を判断しなければいけない。

 人の世に一元的なことなどない。


 そして孤独から救われる道は、一人の時間でしかできないことを見つける。

 悟りについてでも語ったのだが、夢中になれることを見つけることで人間は苦しみを克服できる。

「何でもいいからオタクになれ! オタクになることが救われる近道だ!」

 一人の時間を愛せる人、例えばお笑いタレントのヒロシさんのような人が、人間関係で苦しむことのない幸せな人になれるのかもしれないね――。 










 ソロブームが来てますね。良い風潮だと思いますよ私も。あなたも何かソロ活始めてみてはどうですか? ソロカラオケ、ソロ焼肉、ソロ映画、ソロ登山、ソロキャンプとかですかね。とにかく、孤独で苦しんでいるのなら、一人ででしかできない趣味を探すことですよ。

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