『悟り』について
前回の『仏教』についてでも語ったが、悟りとは経験でしか知ることのできない「考えるな! 感じろ!」のクオリアであるから、何千、何万文字かけて説明しても、理解することはできない。
理論で理解することはできないけれど、そう言ってしまえば「そこで試合終了」で、理論で理解できるギリギリまでのことを、できる限り説明できればと思う(て、私自身悟っていないから、その悟りの理論が合っているかわからないのだけど……)。
悟った者は「涅槃」完全な静寂に達し、「解脱」し、二度と輪廻しなくなるとされているけれど、悟りとは曖昧な言葉だ。
一般に悟りとは迷いの世界を超え、真理を体得することだとされている。
そう説明されても抽象的過ぎて、どのような心理状態を悟りとするかわからない……。
迷いの世界を超えるとは、苦しみから解放されるということだろう。
真理を体得するということは、この世の真理に気が付くか、または苦から解放される真理(方法)に気が付くことなのか。
そこで、私は悟りについて、四つの解釈をしている。
① 悟りとは夢中・熱中の状態を指している。
夢中または熱中とは一つの物事に集中している状態のことを言う。
スポーツ選手がゾーンという状態に入ったら、相手の動きがゆっくりに見えるとか、ボールがゆっくりに見えると言うけれど、ようはあれだ。
ミハイ・チクセントミハイという幸福の心理学という学問を研究されている方は、ゾーン(フロー)状態をコントロールすることで人間は幸福になれると説いた。
何かに熱中しているときは、余計な煩悩、雑念を考えないから幸福になれるというのはあながち間違いではないのだ。
難しい理論など出さなくても、ようは全集中である。
何かに夢中になっているときは、余計な欲も苦しみも感じないし考えない。
すべての人が全集中○○を極めることができれば、それは悟りに近い状態だと言えるかも?
だから、フロー状態のことを悟りと言えるのではないだろうか。
人間は常に何かを考えている。
過去こと、未来のこと。
人間は脳が作り出す仮想現実、過去と未来のシミュレーションの世界を生きているのだ。
過去を後悔し、未来に起こる色々なことを常にシミュレーションしている。
食事するにしても、食事に集中するのではなくテレビを観たり、話をしたり、料理の味ではなく他のことを考えてしまう。
歩くにしてもただ歩くのではなく、色々なことを考えながら歩く。
つまり人間は『今』という時間を生きていないのだ。
考えてみて欲しい。
好きなことをやっているときは、何も考えずそのことだけに熱中していることがあるだろう。
気が付けば何時間も過ぎていたという経験、誰もが一度はしたことがあると思う。
ゲームをしているときだったり、映画やドラマを見ているとき、好きなことをしているとき、ようは熱中しているとき。
そういうとき、苦しみを感じただろうか?
そう、夢中になる、熱中している状態でいるときは余計なことを考えないから、苦しみを感じないし考えない。
考えないということは四諦もないし、渇愛がない。
ということは煩悩が湧くこともない。
過去を反省したり、未来をシミュレーションしない夢中の状態を悟りと言うのではないだろうか。
釈迦はそのような熱中した状態、全集中の状態を半永久的に維持できていた人。
釈迦にとって瞑想とはフロー状態に至るための手段だったのだと考える。
釈迦は何日でも瞑想するすることができ、好きな時にフロー状態になることができ、時間の流れから解放された。
② 悟りとは常用語の通り、理解すること、知ること、気づくこと、感づくこと。
問題は何を知るかだが、この世のありのままを知るのである。
ありのままとは、バイアス(偏り)が掛かっていない、ありのままの状態を見ることだと思う。
つまりこの世界が空であると真に理解すること。
人間生きていれば、絶対、そう絶対にバイアスがかかっているものなのだ。
この世の常識と呼ばれるものも、言ってしまえば洗脳でありバイアスなのである。
生きていれば、色々な洗脳を受ける。
『宗教』についてで触れたと思うが、○○主義という思想体系なども言ってしまえば洗脳。
正か負かの違いでしかないのだ。
お金を神聖視して、捨てるなり、燃やすなりできないのは、資本教の洗脳を受けているからだ。
私たちが自由を求めるのは、自由教の洗脳を受けているからだ。
私たちが、あれが欲しい、あそこに行きたいと思うのは、消費主義・ロマン主義の洗脳を受けているからだ。
それが洗脳だと気が付いても、どうすることもできない。
『仏教思想のゼロポイント: 「悟」とは何か』や『講義ライブ だから仏教は面白い!』などを書かれている魚川祐司氏は、女性の胸で例えているが、女性の胸もただの脂肪の塊なのである。
だが人間はただの脂肪の塊である胸を、理論ではわかるが、ただの脂肪の塊だとは思えない。
わかっていただけたかな?
ようはそういうことなのだ。
理論でわかっていても、バイアス(本能といっていい)がかかっているので胸が肉の塊だという真理を真に理解することができない。
人間はこの世界をバイアスというメガネ越しに見ている。
このバイアス(洗脳)とは厄介なもので、自力でバイアスを解くことはまず不可能だろう。
今生きているこの世界が夢の中だと気が付いても、目覚められないのと同じだ。
宗教を語る上で切っても切れないテーマは死だが、釈迦は自分が必ず死ぬことを悟ることができたのだと思う。
だから、悟りにより死の苦しみを克服したことになるのではないだろうか?
自分が死ぬなど誰だって知っている、と思いたいだろうが、実は否である。
確かに人間の理性は自分がいつか死ぬことを知っているが、無意識領域である無意識さんも本当に自分がいつか死ぬことを理解しているのか?
人間は自分が本当に死ぬ、死の瞬間まで自分が死ぬことを理解できないという話もある。
アメリカの小説家・劇作家である、ウィリアム・サローヤンは「誰でも死ななくちゃいけない。でも私はいつも自分は例外だと信じていた。なのに、なんてこった」という言葉を残しているらしい。
そのような心理を正常性バイアスと呼ぶ。
自分だけは大丈夫、自分だけは死なないと人間は根拠もないのに思ってしまう生き物なのだ。
その正常性バイアスを無くし、森羅万象をバイアスの無い状態でありのまま受け入れることが悟りだと言えるのではないだろうか。
悟りを開けば、すべての真理をありのまま受け入れることができるから、四苦八苦をなくすことはできないけれど、四苦八苦の苦しみに向き合え克服したことになるのでは?
悟りを開くと、この世の洗脳から解放される。
マトリックスふうに言うなら、夢から覚めることを悟りというのだ。
お金をただの紙きれ、金属の塊として見ることができるし、異性をただの人だと見れるし、ただの人を肉の塊だと見れるようになる。
○○主義の洗脳から解放され、本当の自由を手に入れることができる。
他者に肯定されなくても、自分で自分を肯定できるようになる。
③ 一人称ではなく、三人称で自分を見る。
どういう意味かわからないだろう。
こいつは小説の話しでもしてるのか、と戸惑われたと思う。
まあ、ちょっと、話を聞いて欲しい。
一人称ではなく、三人称で自分を見るとは、ウパニシャッドの修行者たちが目指した『梵我一如』という悟りの状態のことを言っている。
以前の『仏教』についてでも触れたが、ちょっと難しい思想なのでウィキペディアからもう一度引用させてもらいたい。
『梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。 宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものである』
という状態のことを言っている。
つまり、宇宙の原理と、我あるいは理性が同一の存在なら、肉体と心は別物であるから、苦行でどれだけ肉体が痛みや苦しみを訴えようと、梵我一如である理性は痛くも痒くもないという解釈になる。
ツッコミたい気持ちもわかる(まあまあ、落ち着いて聞いて欲しい)。
心頭滅却しようと火は熱いし、痛みを感じれば痛い。
だが、それらはすべて、自分を自分だと思っているから生じるのだ。
例えば、自分ではない他人が誰かに頬を思いっきり殴られたとする。
その場合あなたは物理的な痛みを感じるだろうか?
共感力の高い人なら、実際に他者の痛みを脳が感じているという科学的証拠もあるが、まあ自分が殴られたのではなかったら、痛くも痒くもないのが普通だ。
つまり、その状態なのだ。
人間は、色々な感情を同時に持つことができる複雑な生き物。
悲しいときですら、頭の片隅に楽しい感情を発見できるし。
怒っているときでも、冷静な自分を発見できる。
泣いているときでも、客観的に泣いている自分を見ている自分がいるはずだ。
そういう、理性を頭のどこかで必ず発見できるはず。
その客観的な理性こそが、梵我一如ではないだろうか?
その梵我一如状態は、三人称で背後霊のように自分を見ている状態に近いと思わないだろうか?
悟りを開くとは、一人称視点ではなく、完全な三人称視点で自分の内面を見るということだと思うのだ。
痛みを感じるとき、確かに自分の脳は痛みを感じているが、理性の自分だけに全集中して、一人称の自分を離し、客観的三人称で痛みという感覚を見るのだ。
痛みだけではなく、すべてのことに言える。
自分の感情を、三人称の視点で離れて観察する。
例えば、「今、私は怒っている」「今、私は悲しんでいる」「今、私は楽しんでいる」のではなく「今、彼(彼女)は怒っている」「今、彼(彼女)は悲しんでいる」「今、彼(彼女)は楽しんでいる」というふうに完全に感情的な一人称の自分を切り離し、三人称の理性的な自分で自分を観察するのだ。
そのように理性的、客観的三人称の我で自分を観察することができるようになると、溢れ出る渇愛も冷静に処理できるようになるし、渇愛を枯渇することだってできるかもしれない。
④ 脳に何かしらの障害を抱えていた。
これもあながち否定できないと思う。
どう考えても生物として生きていく以上、バイアスをなくすことも、欲を捨てきることもできないのだ。
かつて精神疾患を抱える人たちに、ロボトミー手術というものを施して、恐怖の感情を司る偏桃体や、感情を司る前頭葉などを取り除く手術が行われていた。
するとどうなったか。
感情を取り除かれた人々は、精神疾患は治ったものの、欲もなくなり、生きる気力、生気を失ってしまったのだという。
人間欲があるから生きことができている。
この世界から欲が無くなれば、釈迦が説いた生殖と労働の否定を人類は達成できるようになり、人類は静かに絶滅するだろう。
生物が生物である以上、生物学的に欲望からの解放など不可能だ。
人間は遺伝子や本能という欲望の奴隷であるが、欲望の奴隷であるから生きることができていることになる。
欲がなければ、この世に楽しみはない。
釈迦は幸もなく不幸もない何も感じない状態を最上の幸せとした。
何も感じなければ馴化することもない。
だが現代人はそのような生活耐えられるだろうか?
伊藤計劃氏の『ハーモニー』という小説の中でハーモニクス計画という思想が語られる場面がある(ハーモニーのネタバレをしてしまうから、気を付けて欲しい)。
ハーモニクス計画とは、人間を操っている脳の報酬系を制御することで、人間から選択という意思を取り除いて、完璧な調和のとれた理想の社会を造ろう、という思想だった。
選択という意思は簡単に思えて、実に複雑な現象なのだ。
人間はどのように選択をしているか?
何らかの選択をする場合、人間は報酬系と意思との競り合いによって、選択という複雑な情報処理を行えている。
私たちが心や魂と呼ぶ感情が時として非合理な選択を選ぶことがある。
欲望に負けて、非合理な選択を選ぶこともある。
人間が人間である以上、非合理な選択をする場合の方が多いだろう。
どうして意識などという非合理な機能が、進化の過程で生まれたのか。
それは意識があった方が生存に有利になるからという、自然選択でしかなかった。
昔のような社会なら意識は必要だったが、これからさらに科学が発展し、社会が調和を求めるようになれば、意識などという多様性を生み出す非合理な機能は邪魔になる。
社会は調和のとれた機械的な人間を求めているからだ。
この資本主義の社会で生きていると、そのように感じないだろうか?
多様性を謳っているのに、調和を求める。
人類は多様性に向かっているのか?
調和に向かっているのか?
多様性と調和の板挟みだ……。
どちらとも言えないが、ハーモニーでもいわれているけれど、「程々」が一番理想。
けれど、人間は極端にしか物事を判断できない生き物。
すべては、ベルトコンベヤーで運ばれるように、合理的に処理される。
人々は機械のように生きているように見えてしまう。
人間は完璧な調和のとれた機械に進化しようとしている。
人間を機械にするハーモニクス計画が執行されれば、人間から意識がなくなり、選択という情報処理をしなくても、最適解を常に選ぶ合理的な生き物になるという。
ハーモニクス計画により意識をなくするから、意志同士がぶつかり合い、争いが起こることもない。
意識がなくなれば「真綿で首を絞めるような」息苦しさを感じることもない。
意識がなくなれば、過去や未来を生きることもなくなり、今だけを生きる状態になる。
意識がないから苦しみもなくなる。
それはある意味、本当の幸せを体現した社会だと思う。
人間から意識をなくすとは、悟りの状態だと思う。
サピエンス全史でも言われていたが農業革命以来人間は幸福に貪欲になった。
人類はブレーキの壊れた車に乗っている。
一度動き出してしまえばアクセルべた踏みで突き進み続けるしかない。
泳ぐのを止めれば死んでしまうサメのようなものだ。
もうこの世界を止めることはできないのだ。
いつか事故という破滅が訪れるまで。
欲が生きるために必要なのだから、人間は生き続ける限り苦しみ続けなければならない。
生きることは苦しむこと。
欲望を享受し続けたいなら破滅の日が来るまで、この地球から、自然から、生命から、人々から搾取し続けなければならない。
認知革命→農業革命→産業革命→科学革命と人類はもう止まらない。
本当に止めたいと思うなら、釈迦が説いたように人類は計画的にゆっくりと絶滅しなければ止まれない。
伊藤計劃氏が説いたハーモニクス計画のように、意識をなくせば、地球規模で見ると良い世界になると思う。
だが不可能だ。
そんなこと不可能だ。
だから、受け入れなければならない。
その苦しみも生きている証なのだと思うから。
始めの『悟り』についてからそれてしまったが、悟りとは何かまとめると、「超人的な集中力で常時ゾーン状態で、バイアスや洗脳から解放され、三人称で自分を観察できる人」ということになると思う――。
これを読んだ人たちは、このエッセイ書いている人「絶対、ヤバい奴じゃん……」と思っている人が多いと思う……。
いや違うんですよ、ほんと。
自分で読み返してみても、ヤバい奴だな……と思うけど、世間一般の常識はちゃんと心得ているつもりです。
エッセイ内で度々、伊藤計劃さんの『ハーモニー』について触れたと思いますが、本当にハーモニー面白くて凄い小説だと思うので、気になった方は読んでみてください。
ハーモニーの前作に『虐殺器官』という世界線を同じにした話がありますが、『ハーモニー』からでも読めます。
『虐殺器官』と『ハーモニー』本当にオススメ。
あと二、三年伊藤計劃さんが生きていたら、ハーモニーの先の話が生み出されていたと思うと本当に惜しい人を亡くしたと思いますね……。




