『仏教』について
仏教を広めようと思って、この『仏教』についてを書くわけじゃないし、自分が仏教徒であるという自覚すら持っていない。
だから宗教介入ではないから安心して欲しい。
以前、仏教に関する本を読んで少しだけ勉強したことがある。
そして思った。
仏教以上に人間の内面世界と幸福を追求した宗教は他になく、仏教こそが人間を苦しみから救うことができる唯一の宗教かもしれないと。
二千年以上残っているだけあって、仏教とはすごい思想体系だ。
少し考えてみて欲しいが時の洗礼とは残酷で、せいぜい数十年残るだけでもすごいことなのに、仏教は二千年以上残っている。
そしてこれだけ地位が確立されていれば、人類が滅びでもしない限り消えることは多分ない。
今ある小説や漫画、映画などの物語や思想がこれから先二千年残るものがあろうか?
数百年でも厳しい。
悟り、輪廻、解脱、涅槃、六道、ダルマとかとか、何だかスピリチュアル的で怪し気に見えるし聞こえるが、よくよく学ぶとどの宗教よりも論理的だと思う。
とまぁ仏教の凄さがわかってもらえたところで本題に入る。
日本人に一番馴染の深い宗教と言えば仏教だ。
確かコンビニの数よりお寺の数の方が多いという話を聞いたことがある。
それだけ身近だと言うのに、私たちは仏教のことを殆ど知らない。
仏教とは何だろう?
西洋のキリスト教のような一神教の神を信仰するものでもない。
仏教の開祖は説明するまでもないが、お釈迦様である。
ブッダとも言う。
ブッダとは「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」「覚者」という意味だという。
悟った人を人々は敬意を込めて『ブッダ』と呼んだ。
お釈迦様の呼び名には色々あって、迷う人もいると思う。
ブッダや釈迦、ゴータマ・シッダールタ、如来、仏陀などなどややこしい。
ここでは釈迦で統一したい。
釈迦はシャーキヤ族の王子であったらしい。
インドはカーストという階級制度があり、王が属するのはクシャトリア(戦士)という階級で、バラモン(神官)についで上から二番目の地位に位置する。
釈迦とはこのシャーキヤを音写したものである。
釈迦が母マーヤーから産まれ出てすぐに、七歩歩いて、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』とバトル漫画の強キャラの必殺技のようなことを言ったとされるが、あれは釈迦以前に出世したといわれる、過去七仏の第一仏である毘婆尸仏が誕生した際に言ったとされる言葉だ。
そりゃあそうだよな、と思う。
産まれてすぐの赤ちゃんが言えるわけがないと思う。
まあ、偉人には逸話がつきものだから、ツッコミどころ満載で、いちいちツッコんでいたら話が進まないから触れないで話を進める。
王子である釈迦は何不自由なく王宮で暮らし、成長して立派な青年になった。
そして釈迦が二十九歳のある日、釈迦は出かけようと東門から出る時に老人に会い、南門より出る時に病人に会い、西門を出る時に死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。
北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった(ウイキペディア 引用)。
この出来事が四門出遊という有名な逸話である。
この話を聞いても、どうして釈迦が出家して苦しい苦行に身を投じることにしたのかわからないだろう。
自分を苦行で苦しめて何が得られる?
救われようと修行しているのに逆に苦しんでいるではないか、と思った人は私だけではないはずだ。
その理由はその当時、言ってしまえば苦行が一大ブームだたからだ。
その話をするには、およそ紀元前750~前700年にいたとされる、ウパニシャッド最大の哲人「聖仙」とも称された、ヤージュニャヴァルキアという人物の話をしなければならない。
ウパニシャッドとはヒンドゥー教の聖典のことで、仏教以前に存在していた宗教のようなものだと考えてもらえればいい。
そしてウパニシャッド最大の哲人と称されるヴァルキアは、ある悟りを体現してみせたのだ。
それが『梵我一如』である。
手塚治虫の『ブッダ』などを見て釈迦以前に修行者がいるのを私はずっと不思議に思っていたのだが、彼らはウパニシャッドの修行者だったのだ。
そしてウパニシャッドの修行者が体現しようとした梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であるということだ。
東洋哲学は理論でどれだけ考えようとわからない。
悟りとは自転車の乗り方と同じで、力の入れ方、バランスのとり方などどれだけ理論で理解していようとも自転車に乗れないのと同じで、悟りも理論を理解していても悟ることができない。
悟りとは経験でしか理解できないクオリアなのだ。
ようは「考えるな! 感じろ!」だ。
釈迦の苦行と、梵我一如に何の関係があるのかというと。
『宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものである。すなわち個人の肉体が死を迎えても、アートマンは永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得る輪廻の根拠でもある(ウイキペディア 引用)』
とヴァルキアは説き、どれだけ肉体を痛めつけようと、ブラフマンとアートマンが同一であるのなら、我をどれだけ痛めつけようと、その痛みは空であり、不滅の存在であるはずだと考えたから(現代の感覚で考えると正直わけわからん)。
だから釈迦は我は不滅であるのだから、痛みなど空あることを悟ろうと、苦行をしていたわけである。
骨と皮だけになった釈迦の像を見たことがある人もいると思う。
あれは苦行時代の釈迦の姿を彫ったものだ。
だが、どれだけ苦行を積もうと一向に悟りには至れなかった。
心頭滅却しようと、火は当然熱いのだ。
痛みが空であるとわかっていても、痛いものは痛いし、肉体を苦しめれば我も苦しい。
悟りに近づいているどころか、遠ざかっている気さへする。
そして釈迦は苦行では救われない、と見切りをつけて苦行を辞める。
もっと早く気付けと思うが、そう思うのは現代だから。
当時はその修行方法が常識だったのだから疑いすら持たないのが普通。
苦行を辞めた後、釈迦が何を考え、どのような修行をしたのかは知らない。
だが結果的に各地を渡り歩いた末、三十五歳になった釈迦は、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳がゆの布施を受け、体力を回復して菩提樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達してブッダとなったとされている。
「悟り」という言葉は曖昧で何をもって悟りとするのかは私でもわからない。
一般には悟りを開くと、涅槃・解脱に至れると言われている。
悟りも独立したテーマで触れたいと思っているから、ここでは余り触れないでおくが、涅槃とは完全な静寂であり、苦から解放された状態で、解脱とは輪廻から解放され二度と輪廻しない状態のことを指しているとされる。
悟りを開いたからといって、体が溶けて世界と一体になってしまう人類補完計画みないなものでは当然ない。
悟りを開いたからと不老不死になるわけでも、世界を感受する機能である五感がなくなるわけでもない。
根本的な苦しみである四苦八苦が解決される訳ではない。
語り出したら長くなるが、ようは渇愛しないことで、欲望から生じる苦しみや四苦八苦の苦しみを釈迦は終わらせたのだ。
どれだけ詳しく科学的に説明しても、悟りはクオリアであり説明はできないから、そこは悟った者にしかわからない。
だが渇愛を終わらせたことで煩悩は無くなり、すべての真理を見ることができるようになった。
その後、悟りを開いた釈迦は、何日も悟りの楽しみを味わい、また何日後、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。
その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至る。
釈迦はニーチェと違い思想を他者に肯定されなくても自分で自分を肯定できる強い人間だったことになる。
では釈迦が悟った世間の常識と逆行する真理とはなんだったのか?
魚川祐司という方の『仏教思想のゼロポイント: 「悟」とは何か』や『講義ライブ だから仏教は面白い!』によれば、生殖と労働の否定と書かれている。
よく仏教とは正しく生きるための教えだなどと教えられるが、あれは大乗仏教徒たちが勝手に解釈した噓っぱち。
原始仏教とは正しく生きる教えを説いたものではなく、いつの時代も世間の常識に逆行するものなのだ。
魚川氏は現代的に釈迦が悟った真理を「異性とは目も合わせないニートになれ!」と言っている。
どうだろう、仏教としてはそれが正しい生き方だとされているが、それが生物として人間として正しい生き方に思えるだろうか?
すべての苦しみはこの世界に産まれることで生じると釈迦は二千年以上も前に悟った。
確かに生まれないことこそが救いだという、釈迦が悟った反出生主義の真理は間違いではないと断言できる。
それなのにどうして、人間は生まれ来る子が必ず苦しむことを承知の上で、この世界に生み出すのか?
子供に「どうしてぼく(わたし)は生まれてきたの?」「どうして人間は生きるの?」「どうして死ななければならないの?」「どうして生きることはこんなに苦しいの?」と訊かれたら答えられるだろうか?
答えられる親もいるかも知れないが、たぶん答えられない親の方が多いと思う。
どうして生まれてきたのかなど、それはただ親のエゴで子供が欲しいと思ったからに他ならないし、どうして人間は生きるのという問いに、本来生きることは虚無であるから意味などないと答えるのが正解だ。
どうして死ななければならないのかは、生物である以上避けられない宿命で、生まれたからにはいつかは死んでもらうしかない。
どうして生きることがこれほど苦しいのかは、生きることは苦しむことで、生きているからには苦しみから逃れられないからだ。
大抵の親は幸せになってもらいたくて子供を生むと思うが、生きていれば苦しみの方が多いのは事実。
少子高齢化により国は子供を増やすことに力を入れているが、どうして子供を増やす必要があるのか?
それは子供が増えなければ経済が回らないからで、経済が回らなければ今生きている自分たちの面倒をみてくれる人がいなくなるからというエゴでしかない。
資本主義経済を回すためというエゴにほからなない。
国は個人のことなどどうでもよくて、経済を回すことだけを最優先にしている。
資本主義経済は常に人口を増やし続け、経済を成長させなければいつか破綻する。
環境保護と資本主義は矛盾しているのだ。
資本主義経済とは、泳ぎ続けなければ死んでしまうサメのようなもの。
国は生まれて来る子供たちの幸福など考えず、産めよ増えよ地に満ちよと国民を洗脳し、経済を回す奴隷を生んで欲しいのだ。
資本家・上級階級の人々からすれば、奴隷には沢山増えて欲しいだろう。
なぜなら、労働力だからだ。
サピエンス全史を読んでもらえればわかるが、苦しみの多くは人口が増えたことに端を発している。
人口が増えたことで、労働が増える仕組みになっている
本当に人類が幸福になりたければ、出生数を管理するしかないのだ。
生まれたからには、この世界は生きるに値すると思っているが、生まれるに値する世界なのか?
生まれたからには四苦八苦の苦しみから逃れることはできず、この世界のルールに縛られ苦しむのは絶対だ。
なのに出生させるのは、生きている人間たちのエゴでしかないのだ。
人間は遺伝子という創造主に言われるがまま本能の奴隷になり、一人では生きられない弱い生き物だからでしかないのだ。
釈迦が生きていた地域はヒンドゥー教の力が強く、カースト制度で一生階級が決められており、成り上がることはできなかった。
奴隷はずっと奴隷のまま、非人はずっと非人のまま。
それなのに子供を作って、その子供もずっと奴隷のまま、非人のまま苦しい人生を送らせるのか?
そのような人たちは意思により子供を産むことを諦めた人たちもいただろう。
人間は意思の力で遺伝子に背くことができることを、オーストラリアの先住民アボリジニたちが証明した。
昔オーストラリアにヨーロッパからの侵略者がやって来て、アボリジニたちを捕まえて奴隷にした。
表向きは先進国が発展途上国の人々を教育するという名目だっただろうが、アボリジニたちはヨーロッパ人たちの傲慢な振る舞いに耐えかねて、子供を産むのをやめてゆっくりと滅んだ部族もあったという。
この歴史が証明しているように、人間だけが意志の力で本能に背き生殖を辞めることができる。
それはいつの時代も変わりなく、カースト制度や、資本家が奴隷のように労働者から搾取している現代も同じだ。
ヒンドゥー教のカースト制度よりもたちが悪いのは、能力主義による自業自得という、上手くいかないのは当人の努力不足という説を盾にしていることだろう。
例として、ヨーロッパ、アメリカで黒人たちが奴隷としてこき使われていたという歴史がある。
白人側の主張として、黒人は知能が劣り、暴力的で、野蛮で、節操がないなどの科学的根拠も何もあったものではない決めつけにより、長い間搾取し続けてきた。
で、色々あり奴隷解放が行われ、黒人たちは表向きは自由になり、就きたい職業につけるようになり、やりたいことは何でもできるようになったが、いつまで経っても黒人がエリート職に就いたり、社会的に成功したという話を聞かない。
そうなってしまえば白人たちは、やはり黒人は知能が劣っているから、野蛮で節操がないから社会的に成功できないのだという因果関係も何もない決めつけを行った。
現代では、黒人が白人より知能が劣っているだとか、野蛮で節操がないなどということが誤った説であることはわかっているだろう。
現生人類はみんな、ホモ・サピエンスであり、身体的な面での個体差はあれど、知能の面ではほぼ個体差はない。
黒人の彼らが成功できなかったのは、長い歴史により作られた悪循環が当人の努力ではどうすることもできないほど強大な壁となっていたからなのだ。
長い貧困が続いていれば、教育も受けさせてやることができず、そうなればいい学校にも行けず、社会的に成功できないという悪循環が何世代も続き、あたかも個人の努力不足、黒人の性質のせいなどと決めつけた白人たち。
それが能力主義の怖いところでもある。
貧困の悪循環に一度陥れば、抜け出すのは困難。
逆に好循環を一度作ってしまえば、何世代も余程の失敗を犯さない限りは維持できる。
それは現代の日本も同じ。
能力主義の資本主義、自由主義である現代日本は、表向きはカースト制度などないことになっているが、間違いなく目に見えないカースト制度があり、貧困の悪循環から抜け出せない人たちが『親ガチャ』という言葉で社会に問題提議している。
話しがそれてしまったが、つまり釈迦が悟ったことは生殖の否定なのだら、この世に子供を生み出さないことで、苦しみから解放されようということだった。
生まれないことこそが究極の涅槃だ。
人間は遺伝子を複製するために作られた機械であり、遺伝子の奴隷。
釈迦は「生殖と労働を辞めて、人類は計画的にゆっくりと滅びましょう」というゲームや漫画のラスボスのような思想を説いていた。
正直言って釈迦の悟った滅びの思想こそが苦しみから救われる真理だと思う。
どうして仏教徒が悟りを目指すのかを考えればわかるが、悟りを開き解脱・涅槃の境地に達することで繰り返す輪廻転生という生の苦しみを終わらせることを目的としている。
生の苦しみを終わらせるとは二度と輪廻しない、つまり生まれないようにするためであり=生殖の否定ということになる。
その教えが原始仏教の本当の教えで、今の日本の仏教や、ある一部の性行為により悟りに至れるなどと説く仏教は、本来の釈迦の教えを破っている。
遠藤周作氏の『沈黙』でも語られているが、日本人は本来の文化、教義を独自の解釈に落とし込む。
沈黙で語られたキリシタンたちはいったい何の神を信じていたのかわからない。
日本の仏教は仏教と言う名の違う宗教だと解釈した方がいい。
生殖と労働の否定が人々に受け入れられないことは釈迦自身もわかっていた。
だから「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」という結論に至ったのだ。
だが、その結論に至った釈迦の前に梵天が現れ、衆生に教えを説くよう繰り返し強く請う。
梵天とは古代インドの神ブラフマンが仏教に取り込まれたものだ。
梵我一如のブラフマンのことである。
多神教の凄いところは、どのような神も取り込めるところにある。
日本でも神仏習合で、仏教の神と神道の神が同一のものとされている通りである。
ちなみにではあるが神である梵天よりも、釈迦の方が位は上ということになっている。
仏教の世界では神よりも、悟りを開いた者の方が上なのである。
神の住む天道ですら、輪廻の苦しみから解脱できていないのだ。
輪廻のサイクルから解脱するには、悟りを開くしかないとされている。
そして釈迦は梵天の説得もあって、人々に悟りの内容を伝え回った。
現代でこそ悟ったというお坊さんの話を聞かないが、昔はそれなりに悟れていたそうであるらしい。
何をもって悟りとするのかは曖昧なので、現代は昔で言ったら悟ったといえる領域に達しても、悟ったとは言い出せない空気があるのかもしれない。
悟った者は、自分から悟ったと言えない空気もあるだろう。
大乗仏教の修行者は菩薩、上座部仏教の修行者は阿羅漢と区別される。
そして八十歳くらいまで生きた釈迦は、沢山の弟子たちに悲しまれながら入滅した。
かいつまんで説明したが、一応伝えられている釈迦の生涯である。
開祖が生きているときは良いが、亡くなってしまうと揉めるのはよくある話。
釈迦の入滅後、色々あって宗派が分かれることになる。
釈迦は自分の教えをちゃんと書き留めていなかったし、人によって説いている話の内容が違ったりしたそうだ。
悟りを開くとは理論では理解できないクオリアで、一人一人悟りへの至り方が違う。
ゴールに至る道が無限にあるようなもの。
釈迦の教えを物凄い記憶力を持つアーナンダという弟子がすべて記憶しており、アーナンダが記憶している教えの解釈で揉める。
当然揉めるだろう。
釈迦の教えは生殖と労働の否定である。
そんなこと説けば、誰も仏教を信仰しなくなるかもしれないのだから。
釈迦の教えを忠実に守る派と、釈迦の教えを良いように解釈する派に分裂してしまう。
そのとき現れたのが龍樹である。
龍樹は釈迦の教えを否定して、大乗仏教を創始した。
龍樹の大乗仏教が日本にやって来て、日本独自の仏教ができることになる。
仏教本来の教えは、生物として正しく生きることを説いていなかった――。




