『宗教』について
日本人は『宗教』と聞くと、無意識に嫌悪や恐怖を抱いたりする人が多いのではないだろうか(偏見)。
私も同様である。
宗教と聞くと、「何だか怖そう……」「怪しい……」と偏見を抱いてしまう。
まあ、実際怪しげな宗教もあるので疑ってかかるのは仕方のないことだけど……。
本来人間を苦しみから救うために生み出された宗教は、人間を苦しめるものになっている場合が多い。
これでは本末転倒だ。
一応言っておくが、私は魂も死後の世界も、神も信じていない無神論教の信者だということはお気付きだろう。
日本人の大多数が入っている科学教、無神論教、資本教などには属しているかもしれないが、比較的一般的な教徒だ。
日本人であるのならプラスα仏教徒なのだろうが、自分が仏教徒だとも思っていない。
ただ単に仏教思想について少しばかり勉強しただけだ。
だから怪しげな宗教介入ではないので安心して欲しい。
では始める――。
宗教とはどのような経緯で生まれたか?
一般的に言われている定説は畏怖の念。
人間は自分たちの力が遠く及ばない、自然現象などを恐れた。
その畏怖の念が、神を生み出したと言われている。
そしてその神々に物語を与えたのが神話。
神話に登場する神々を信仰する集団が一般的に思われている宗教になる。
人類は物語という虚構、お金、帝国主義などの相互作用によりこれほどまで発展したという。
その話をしていくと、『サピエンス全史』の話になってしまうから、今回はあまり触れないでおくけど。
タイトル通り宗教というものに触れるが、宗教の歴史を語るわけではない。
宗教の教義を語るわけでもない。
ただただ私が思う宗教とは何か?
について一方的に語るだけである。
ウイキペディアによると宗教とは『一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである』そうだ。
ようは観念・思想体系の共通認識した集団を宗教という。
思想を大勢の人間が共有し、その思想のもとに行動を起こすことができる虚構すべて宗教。
思想の共通認識が宗教だとするなら、冒頭で無神論教や、科学教などと私が言ったように、現在私たちが暮らす資本主義社会も、宗教と言える。
共産主義も、自由主義も、民主主義も、○○主義と呼ばれる思想体系すべて言ってしまえば、共産教、自由教、民主教という宗教だ。
ではどうして資本教や民主教が怪し気に思わないかという話になると、多くの人が資本教や民主教を疑いなく信仰しているからの、マジョリティー、マイノリティーの違いでしかない。
敬虔なキリスト教徒、イスラム教徒であろうと、資本主義を信じているのであれば、資本教の教徒である。
だがキリスト教徒やイスラム教徒などからしたら、他の宗教を信仰する訳にはいかない。
だからそのような思想体系を宗教と呼ばずイデオロギーというらしい。
どれだけ正当化分類しようと、結局信じている思想体系、観念体系があるのなら宗教である。
どれほど敬虔なキリスト教徒、イスラム教徒、○○教徒だろうと人間はみんな混合主義者、混合教の信者だ。
みんなが当たり前のように信じている概念があるのなら、それも宗教だ。
自分は宗教に入っていない、何ものにも洗脳されていないと思うのは否。
人間生きている限り、産まれたときからの刷り込みによって洗脳されているのは絶対。
例えば、紙幣など言ってしまえばただの紙切れだが、私たちはその紙切れを神のように崇拝して、破ったり、燃やしたり、ゴミ箱に捨てたりはできないように、紙切れに価値があるという洗脳を受けている。
私たちは資本教、○○教の洗脳を必ず受けている。
この世界にはそんな秩序など存在せず、人間の頭の中にだけ存在する。
その洗脳が正か負かの違いでしかない。
私たちが当たり前と思っている概念、世界観、常識すべて極端に言ってしまえば洗脳である。
仏教ではこの世の一切は空である、と説かれている。
つまり『無』ということ。
人間には真の『無』を理解することはできないと私は思っている。
無を理解できないということは、洗脳から抜け出すことはできない。
唯一抜け出せる方法があるとすれば、仏教でいうところの涅槃の状態にならなければならない。
仏教について語るのはまたの機会にして、今回のテーマは宗教。
世界三大宗教呼ばれるのは『キリスト教』『イスラム教』『仏教』だ。
どの宗教も一応は、人間を苦しみから救うために存在しているはず。
だが人間は救われるどころか、むしろ宗教のせいで苦しんでいる。
信じる者は救われる、ということで宗教を心のそこから信じている人は本当に救われているのかもしれないが……。
宗教を信じている者にとっては、神のために行うことすべてが救いになっているのかもしれないが、無宗教徒からしてみると、宗教に振り回されて逆に苦しんでいるようにしか見えない。
逆に敬虔なキリスト教徒、イスラム教徒、○○教徒からすると無宗教という宗教を信じている人たちの方が苦しんでいるように見える。
結局、相対主義的なものなのだ。
まあ、無宗教徒視点から語っているからキリスト教の力が強い西洋史などを見ていると、現代では非人道的行為でも神の名の下に行われている通り怖い印象がある……。
人間は自分の考えこそが正しいと思うバイアスがかかってしまう生き物だから、仕方のないことなのだけど……。
宗教を信じている人は、本当に自分が救われているから他の者も同じ思想を共有させようとして、自分たちの宗教に改宗させようと頑張って来た。
世界中の人皆が無宗教の信者にでもなるか、一つの宗教で統制されればもしかすると今よりは救われるかもしれないけれど、苦しみが無くなるわけではない。
結局どの宗教も最終的な目標は世界征服。
そう思い込んでいるから昔から異教徒を自分の信じる宗教に改宗させようとして、争いが絶えない。
だが何度も言う通り、人間は自分の考えこそが正しい正義で、他の考えは悪だと決めつけてしまう生き物。
正義の対義語は悪ではなく正義らしい(納得)。
正義と正義の戦い。
例え正義と正義でも対峙すれば争いが生まれるのは必然。
宗教の血なまぐさい歴史が今も、そしてこれからも続くのは当たり前。
どっちもどっちの状態。
中でもそういう考えは一神教に多い。
多神教なら色々な神を信仰している人がいて多様性があり、自分とは違う考えに寛容になれるが、一神教は自分たちの神こそが絶対だから違う考えに寛容になれない。
この考えのバイアスをどうにかしない限り、宗教の争いは今後も絶えない。
何度も言うように人間である限り不可能……。
だから、苦しみは生きている限り無くならないし、争いは生きている限り無くならない。
人間は凄いと思うと同時に、愚かな生き物だとも思える不思議。
一番宗教として争いを生まないのは、アニミズム思想だと思う。
今でもアニミズムを信仰しているアフリカの原住民族などは、自然のままに生き、土地という概念もなく、自然と人間を比べて自分が優位に立っているとも思わない。
土地も、財産も、地位もそんな概念はないだろう。
インディアンたちは土地という概念がわからなかったという話を聞いたこととがある。
世界は誰のものでもない。
人間は結局何も手にすることはできない。
シャボン玉と同じで、どれだけ大きく膨らませても、いつかは儚く消えてしまう。
ただ生まれて、ただ生きて、ただ死んで無に帰るだけの存在。
スティーブ・ジョブズは言った。
『私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に、一緒に持っていけるものではない。私が持っていけるものは、愛情にあふれた思い出だけだ』
色々な宗教が説くような死後の世界には何も持って行けない。
唯一死ぬ間際まで持って行けるものは思い出だけである――。




