ヒロイン アンジュ
「アンジュ様。私、ノックス公爵家のリシリアと申します。こちらはアルバート殿下で、さっき、たまたま、お会いしたんですの」
たまたま、を強調しておきました。
「あ、あの。私、誰にも言いませんから」
「いえ、そうではなくてね?」
しかしよく見るとやぼったい。
長い黒髪、と言えば聞こえは良いが、つまるところ伸びっぱなしで手入れがされていないのだ。
制服は微妙にオーバーサイズで誰かのお下がりでももらったのかもしれない。我が校の制服はオーダーメイドで各人に合わせて採寸し、ぴったりのものを作ってくれるというのに。
そして瓶底眼鏡に極度の猫背。
うーん、初期パラが低いのはわかりますが、これほどとは。
これでは「王子と恋に落ちるのは彼女です!」と胸を張って言えません。
抜本的改革が必要ですね。
「アンジュ様、ここで会ったのも何かの縁ですわ。同級生ですし、仲良くしてくださいね」
「そ、そんな。公爵家のお嬢様と私では世界が違いすぎます」
何を言ってるのですか。
あなたは公爵令嬢を追放し、王太子妃になるのですよ!
「そんなことないわ。ほら、顔を上げて背筋を伸ばして?」
私はアンジュの背に手を伸ばす。
「も、申し訳ございません!」
アンジュはギュッと身を縮めると、そのまま走り去った。
「あ! 待って!」
アルバート王子に部屋まで送ってもらわないと!
「リシリア、あまり庶民をからかうな」
「えぇ?!」
もしかして、悪役令嬢補正ですか?
私、アンジュ様にいじわるしたことになってますか?
「風が出てきたな。雲行きも怪しい。そろそろ戻ろう」
「そうですわね」
ヒロインが逃げてしまっては、ここに留まる理由はない。
「部屋まで送ろう」
「?! だめです!」
私とイベント起こしてどうするのですか。
「なぜだ」
「一人で帰れますので」
「一人にしてまた他の男に声を掛けられてはたまらないからな」
「何のことです」
「さっきビラをもらっていただろう」
「ランカ先輩のことですか?」
アルバート王子は黙って椅子から立ち上がった。
「私が先に見つけたのだ。横取りされてはかなわない」
「そのように言っていただくほどの価値は私にはございません」
「それはこれから私が決める。それまでは他の男に触れさせぬ」
「私は誰のものでもありません」
「さっさと婚約しておけばよかった」
「謹んでお断りいたしますわ」
それこそ追放エンドまっしぐらではありませんか。
アルバート王子は可笑しそうに笑った。
「やはりリシリアは面白いな」
「それは褒めていらっしゃるのですか? けなしていらっしゃるのですか?」
「褒め言葉だ」
もう、調子が狂う。
こんなふうに軽口を言い合っていたら、本当に気心の知れた相手のような気がしてくる。
でもこの男に恋をしてはいけない。
「では殿下の興を削げるよう、善処いたしますね」
「ほぅ。皆気に入られようと必死なのにな」
「誰もがそうだと思い上がるのはおやめになった方がよろしいかと」
「そうだな、心得よう」
アルバート王子はすっと腕を出した。
「何ですこれは」
「戻るぞと言ったろ」
「不要です。一人で帰れると申しましたでしょう」
黒い雲が空をすっぽり覆ったかと思うと、ポツポツ雨が降り出した。
アルバート王子はマントを外す。
バサッ。
私は頭からマントを被せられた。アルバート王子の温もりが私を覆う。
「ならばこれを被って帰れ。雨よけにも、虫よけにもなろう」
虫よけって……。
私に寄ってくる男性は虫ですか?
「このような高価なものお借りするわけにはーー」
「あとで返しに来い」
そう言うとアルバート王子は植栽の向こうへ消えてしまった。
「リシリア様! そ、それ!」
貴族棟のエントランスでは案の定だった。
アルバート王子が新入生挨拶で身につけていた、王家の紋章入りのマント。
そんなものを被って帰ってくれば、注目されないはずがない。
「婚約者候補とは聞いておりましたが、既に深い仲でいらっしゃるのですね」
「いえ、これは」
あぁ、やってしまいました。