愛しい人
「リシリアさん、何か悩んでる?」
「え? 何か変でした?」
私とギュリオはヴァイオリンの合わせをしていた。
弾き終わって第一声の言葉がそれだった。
「何ていうか、音に迷いが」
「す、すみません」
「いや、大丈夫。どっちかというと、その方が場面にあってる」
アンジュ演じる「シシィ」が独白をする場面。
誰もいない真っ暗な夜、ただ星に向かって自分の恋心を告白するシーンだ。
「ギュリオはどう思いますか? 誰にも聞かれない告白をすることに、意味はあるのでしょうか」
私はヴァイオリンを置いて椅子に座った。
「意味なんてないんじゃないかな」
「なら何でシシィはそんなことーー」
「想いが溢れて、自分の胸にはもう閉まっておけない。そんな気持ちだと思って曲を書いた」
そうか。
意味なんてなくてもいい。
伝わらなくても、叶わなくても、ただ素直に自分の気持ちを言葉にする。
そんな気持ちなのかもしれない。
「ギュリオはすごいですね。そんな恋をしたことが?」
「シシィとは違うけど、恋する気持ちはわかる」
ギュリオはカタンとヴァイオリンを置いた。
そして窓際に行くと、高い空を見上げた。
「俺の想い人には、もう相手がいる」
「そうなのですか?!」
唐突な告白。
しかも何やら大人な香りがひしひしと。
「絶対に届かない人」
「そ、それは、既婚者、とか?」
「いや。婚約もしてないみたい」
ほっ。
安心しました。
音楽しか知らなそうな純朴少年が、まさかの不倫スキャンダルかと。
「ならチャンスがあるんじゃ」
「ある?」
ギュリオはくしゃくしゃの髪をかき上げると真っ直ぐに私を見た。
ヴァイオレット色の瞳が静かに私を見つめる。
「どなたか存じませんが、婚約者がいないのならまだ」
「俺は子爵家でしかも次男。音楽ばかりやって、家督争いの候補にもならない。なのに相手は公爵令嬢ときた」
「公爵令嬢、ですか」
子爵家の次男なら、公爵令嬢に求婚するのはかなり厳しい。
しかも音楽に夢中な道楽息子と言われてしまえばそれまで。
将来性のない格下相手に娘をやろうという者は、少なくとも公爵家にはいないだろう。
「しかもその公爵令嬢は王子殿下のお気に入り。そこに俺の入る余地なんてない」
ギュリオは再びヴァイオリンを手に取ると、聞いたことのないメロディーを弾き始めた。
細い糸の上を渡るような、危うくて不安げで、張り詰めた音だった。
高音を微妙なバランスで行き来する。
それは胸をかき乱すようなメロディーだった。
ほんの20小節くらいの短い曲を弾き終えると、ギュリオはそっと弓を離した。
ガラス玉のような目をこちらに向け、何か言いたそうな顔をしていた。
「新しい曲ですか?」
「これはリシリアさんに」
「私に?」
「そう」
ギュリオはポケットから、小さく折り畳まれた紙切れを取り出した。
「あげる」
そしてそのまま教室を出ていった。
私はちぎれないようにゆっくりと紙を開く。
「っ!」
タイトル「愛しい人」
そこにはそう書かれていた。




