欠けたガラスペン
夏休みも2週間が過ぎた頃。
アルバートの身の回りの世話にも慣れ、自分の時間もかなり確保できるようになってきた。
アルバートは初日以外は意外と紳士的で、ただ静かに世話を焼かれていた。
二人きりになったとしても私に触れることはほとんどなかったし、愛を囁く暇もないみたいだった。
執務に追われて疲れ切っているのか、むしろ素っ気ないくらいだ。
最近では起こしに行くより先に目覚めていることも多い。
前日の夜に着替えを用意しておけば、部屋を訪れた時には着替えも終わっていて、机で書類にサインをいれる作業をしていたりする。
「アルバート、おはようございます」
「あぁ」
「ご朝食はこちらにお運びしますか?」
「頼む」
「承知いたしました」
こんな無味乾燥な会話も増えた。
心が乱されないということは、恋人としては少し寂しさを感じる時もある。
だけど甘えて迷惑をかけるなんて論外。仕事と割り切ってすべきことをするしかない。
日中はアルバートの部屋のミニキッチンを間借りしていた。
ザラ様の資料に目を通しつつ、適当なタイミングでお茶のおかわりを淹れる。
「失礼いたします。殿下、お茶をお取替えいたしますね」
「そこへ置いておけ」
アルバートは視線をこちらに向けることもなく言った。
1時間前に入れたお茶は、手付かずで冷めきっていた。
こんなに近くにいるのに視線も合わないなんて少し切ない。
続けて前室で執務に当たっている補佐官専攻の皆にもお茶を出す。
「あ、これ美味しいね」
「ほんと? ノアが美味しいって言うなら本当ね」
「はは、リシリアが淹れたお茶はいつも美味しいけどね」
「ふふ、ありがとう」
そんな軽い会話にふっと気が抜ける。
幼馴染みゆえの気安さだろうか。
「そのうち僕の紅茶コレクションから一杯ごちそうするよ」
「あぁ、あの部屋すごかったものね」
棚にびっしり詰まった茶葉の缶を思い出す。
「あれからまた増えたよ」
「本当?」
そんなことを言っていると、ゴーチェ先輩の睨むような視線を感じた。
「す、すみません」
私は慌てて口をつぐむ。
「気が散る」
「失礼しました」
ゴーチェ先輩とはちっとも打ち解けられていない。
2週間見てきたが、自分にも他人にも厳しい人のようだ。
それからまた1週間が経って、執務の方も大詰めで、大きな案件を分業で行っていた。
これが終われば全て終了、なのだが、皆3日ほどあれこれと調べ物をしたり、計算したり、議論もまとまらなかった。
朝から大雨が降っていたある日、ノアが「あっ」と大きな声を出した。
「どうしたの?」
「ガラスペンが欠けちゃって」
普段ならそんなことしないのだろうが、余程疲れが溜まっているのかもしれない。
「私の羽ペンでよければ貸すよ?」
「いや、部屋に予備があるから取ってくるよ。道具が変わると落ち着かないし」
「じゃあ取ってこようか? ガラスペンがなくても出来ることはあるでしょう?」
ノアの部屋は知っているし、ガラスペンを取りに行く暇があるなら積まれた資料に目を通す方が有意義だ。
「じゃあお願いしようかな。執務机の引き出しの一番上にあるから」
「わかった」
私はノアから鍵を受け取った。
「クロードは何かお遣いすることある?」
「だ、大丈夫……」
もうヘトヘトですね。眠れているのでしょうか。
ゴーチェ先輩は手洗いでちょうど離席していたので、私はそのまま部屋を出た。
久しぶりに公爵家の部屋が並んでいるフロアーを歩く。
去年の私の部屋は、1年生が使っているみたいだ。
ノアの部屋のドアノブに、金色の鍵を差し込む。
高い音がカチャリと鳴って鍵が開いた。
部屋は清掃されているが、応接机の上にも執務机の上にも大量の本が置かれていた。
ところどころに紙が挟まていたり、開けっぱなしのものもある。
夜遅くまで頑張っているのだろう。
「えぇっと、引き出しの一番上だったよね」
私は執務机の引き出しを開ける。
インク壺のストックや羊皮紙、封筒や蝋封は詰まっているのだけど、ガラスペンが見当たらない。
「おかしいな、ここって聞いたはずなのに」
ずっしりと重い引き出しを慎重に引き抜く。
一度全部出してみたが、やはりそれらしきものは見当たらなかった。
「うーん」
ひとつひとつ丁寧に、元にあった場所に戻しながらどうしようか考える。
指定されたところ以外を探すのはよくないよね。
一度戻って聞いてみましょうか。
私がもう一度引き出しを入れた時、扉が開いた。
「リシリアごめん! 予備のガラスペン、寝室だった」
走って来たのか、ノアの呼吸は少し上がっていた。
「そっか。ないなと思ってたの」
「昨日寝る前に思いついた式をベッドでメモしてて、そのまま寝ちゃったんだ」
「熱心ね。でもわざわざ来なくてもよかったのに。もう一度聞きに行こうと思ってたところ」
「何かそれも悪いだろ?」
「ふふ、今更気を遣う関係?」
「そう言われると何とも。何か今週は余裕ないや」
ノアは眼鏡を押さえながら言った。
ノアがガラスペンを取ってくる間、私は紅茶の缶の並んだ棚を見上げていた。
種類が多いのは言うまでもないが、同じ「アールグレイ」でも、産地や収穫時期が異なる缶があって面白い。
「気になるのある?」
不意に背後で声がした。
「うーん、これだけあると全部気になるかも」
「はは、仕事が全部終わったら皆でテイスティングパーティーでもしようか」
「いいわね」
「その中から好きなのをプレゼントするよ」
「悪いわ」
「夏休み中、毎日美味しいお茶を淹れてくれたお礼」
ノアはくしゃっとした笑顔で笑った。
相変わらずノアは優しいし、私を甘やかすのが上手い。
「じゃあ、楽しみにしてる」
「うん、それじゃあ戻ってもう一仕事だ」
ノアがそう言って私の頭を撫でた時、ドンッとすごい音がして扉が開いた。
「何をしている」
人でも殺せそうなくらい恐ろしい形相をしたアルバート。
そしてその背後にはゴーチェ先輩がいた。