プロローグ 『原初の願望』
「いらっしゃい、迷える魂よ」
美しい、鈴の音のような女性の声が聞こえた。だが、何も見えない。何も感じない。
「ここに今日訪れたのはあなたが二人目。珍しい日ですね」
二人目? 何を言っているのだろう。そもそもここは一体どこだ?
「ここは浄化の教会。輪廻転生の輪に戻る前に、特別な魂だけが立ち寄れる場所です」
輪廻転生? 魂? つまり僕は死んだのか? いや、そもそも僕は誰なんだ? 何も思い出せない……
「あなたは転生する直前の魂です。記憶ももうありませんし、自我もやがて消滅するでしょう」
じゃあ何故僕はここに?
「あなたはこの世界にとって不可欠な存在です。あなたのような特別な魂は完全に安定した状態で転生して頂かなくてはなりません。ですからここで、前世で混ざってしまった言わば不純物を取り除くのです」
不純物……?
「そうです。今あなたが欲するものを思い浮かべてください。身体も記憶も失った状態で、なおも心に残る願い。それが魂に刻みつけられたままでは、来世に影響が出る恐れがあります」
今僕が欲するもの……。どうやら今の僕には感情さえ無いらしい。この状況に対する様々な疑問こそ湧くものの、不安や恐れと言った物を一切感じない。
そんな僕に願いだなんて感情に限りなく近い物があるのだろうか。
「ありますよ。願望の無い魂がここに来ることはできません。あなたには前世で満たされなかった何かがある。だからこそ、あなたはいまここにいるのです。深く考える必要はありません。ふと心に浮かんだもの、それがあなたの願いです」
ふと心に浮かぶもの……。余計な考えを捨てた、その先に残る何かが――
あった。
それはとても自然に、何の感慨も無く、ただ僕の中にあった。
今まで意識の端にも掛からなかったはずなのに、それを認識した瞬間から意識がそこから離れない。それどころか、それに向かう意識が加速度的に強まり、ついにはそのこと以外考えることができなくなって――
「そう、それがあなたの願い。全てを賭して叶えたいと感じた願いの残滓。さあ、もう一度願いなさい。前世で叶わなかったその願望を。さすれば、その願望の全てを叶える力をあなたに与えましょう」
声に導かれるままに僕は願った。
僕は――――
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「ふぅ……」
暗闇が満たす部屋の中、一つのため息が漏れる。天窓から微かに差し込む星明かりだけが壁と床の精緻な模様を照らし出す。
一つの人影が椅子から立ち上がり、淡い光の下へと滑り出た。無駄な飾り付けのない白のドレスがふわりと舞う。ドレスの布地に劣らぬほどに白くきめ細かい肌が光を反射して輝いた。星明かりを見上げ、明るさにわずかに目をすがめるその横顔は形容しがたいほどに美しく整っている。星にも負けない美しさの中に一匙の厳かさを加えたようなその立ち姿はまさに女神と表現するに相応しい。
微笑めば万人を虜にするであろうその美貌は、しかし、仄かな悲しみと不安の色が滲んでいた。
「普通に暮らしたい……ですか……」
思い浮かべるのはつい先ほどまでこの場にいた久々の客人。彼の抱いた願いはあまりに平凡で、しかしそれでいてあまりに過酷。
「私とあなたは同じ。身を委ねるべき運命を定められた特別な魂。その道から離れることは決してできない哀れな籠の鳥」
女神は己のその運命を認め、受け入れていた。
でも、だから。彼の強い願いを感じたあのとき、女神は思ってしまった。もしかしたら、と。
自分には絶対に叶えられない願いを、絶対に通れない道を、もしかしたら彼ならば、と。
「私ができるのはわずかな手助けだけ。それに、『普通』とは己の価値観そのもの。他人が決定できるものではありません。ですから……」
一つの魂に肩入れするなど彼女の立場ではあってはならないこと。しかし彼女は願わずにはいられなかった。
「どうか、がんばって」
小さな、小さな鈴の音は、暗闇の中に溶けて消え去った。