三つ目の悪夢
「…………はっ!」
長い眠りから目覚めた俺は、瞼を擦りながら大きく伸びをする。
どうやら酷い悪夢をみていたらしい。全身が生温い汗で覆われている。
俺はポケットの中に手を入れ、眠気覚ましのミントタブレットを探し当てると一粒口に含み、噛み砕いた。
すると、途端に爽やかなミントの風味が口いっぱいに広がり、脳の中枢部が活性化した。
俺はミントの爽やかな風味を楽しみつつ、ぼんやりと思考し始める。
ここは一体何処だっけ……。
周囲を見回しているうちに段々思い出してきた。
そうだ、ここは総合病院の一角にある妻の病室だ。
今もベッドの上では、療養中である俺の妻がスヤスヤと寝息を立てている。
俺は今日、入院中の妻のお見舞いに来た。
そして、妻の寝顔を眺めるうち、いつしか自分も睡魔に襲われて眠ってしまった、とそういうわけだ。
珍しいこともあるもんだ。
いつもは神経質なこの俺が、自宅以外で寝てしまうとは……。
まあ、この頃の生活リズムの乱れを思えば、無理もないことだが。
俺は霞んだ目で、妻の顔を眺めた。
少し青白いが、端正で美しい顔である。
何故よりによって俺の妻だけが、こんな難病に襲われなければならないんだ……。
妻が病を発症したのは、もう二年近く前のことになるか。
忘れもしない、あれは六月七日の午後八時十分頃。
二人で夕食のハヤシライスを食べていたときのこと。突然妻が倒れた。
俺の通報により、妻はすぐに総合病院に搬送された。
その後、俺は医者の口から妻が病に発症したと直接聞かされるに至ったのだ。
なんでも妻の病気は難病らしく、治療法は現在も確立されていない。
今、妻の身体は常に死と隣り合わせという状況だ。
難病にかかった妻を支えるべく、俺は毎日、仕事、家事、見舞いに追われた。
忙しい日々を過ごすうちに、いつしか俺の心身までもが疲弊していった。
妻とは大恋愛のうちに両親の反対を押し切って結婚したため、頼れる者も無い。
俺はスヤスヤと眠っている妻に向かって、ぽつりと呟いた。
「俺の人生には、お前しか居ないんだよ……」
目から涙がぽろぽろと溢れ出し、数滴が布団の上に小さなシミを作った。
今や、俺にとっては妻こそがたった一つの生き甲斐だ。
妻が亡くなった後の事など到底考えられるはずがないし、考えたくもない。
「また来るよ……」
別れを惜しみつつ、俺は妻の病室を後にした。
◇
深夜になると、俺はふらっと近所の居酒屋に足を踏み入れた。
「ビールとたこわさ。それとキムチもくれ!」
店員が持ってきたビールを急いで喉に流し入れると、途端に脳内が人工的な幸福感に包まれた。酒を飲むのも随分と久しぶりだ。
妻が倒れてからというもの、俺は殆ど酒を口にしていなかった。
忙しかったというのもあるが、酒を買うのはいつも妻の役目だったからだ……。
俺は大量の酒をぐびぐびと口に運んだ。
くだらない享楽に耽った。
俺だって本当は分かっている。
酒によって得られる幸福など、所詮偽りだ。幻想だ。まやかしだ。
けれど、別に良いではないか。
偽りだろうが、幻想だろうが、まやかしだろうが、無いよりは幾分かマシなのだ……。
俺が酔っ払っている間にも、妻はあの暗い病室で今も病と闘っている。
そう考えると、俺にも罪悪感が芽生えないことはない。
しかし、そんな罪悪感さえも、俺が酒を飲むのを手伝った。これが所謂ヤケ酒である。
そして、ベロベロに酔っ払った俺は居酒屋を出た。
千鳥足で細道を歩いていると、何度か障害物にぶつかって躓いた。
そのとき。
道を歩く一人の男と肩がぶつかった。
跳ね返った俺はよろめき、どすんと尻餅をつく。
「なんらあ!お前、気をつけろお……」
「あ、どうもこれは。すいません」
何気なく俺はその男の顔をちらりと見て、あっと声を上げた。
その男の顔には、なんと目が三つ付いていたのである。
右眉の下に一つと、左眉の下に一つ、そして額の中心に大きいのが一つ。
「わ、なんだあ!お前目が三つ付いているじゃないか!もののけの類かあ?」
「は、そうでございます。実は私、人間の皆さんに三つ目小僧と呼ばれているものでして……」
三つ目の男はそう言うと、ケッケッケと怪しく笑った。
奴は三つ目であるという以外、特に特徴のない男である。
「ふん、お前が小僧を名乗れる年かあ?軽く四十歳は超えているように見えるぞ」
俺は悪態をつきながら、三つ目の坊主頭をぺしんと叩いた。三つ目は軽く蹌踉めく。
「まあ確かに、しかし名義上そのように呼ばれておるものですから。ケッケッケ……」
その、三つ目小僧もとい、三つ目中年は俺の態度に随分と驚いた様子だった。
「それにしても貴方、私の姿を見ても全然動じないのですねぇ。ケッケッケ」
「当ったり前だ!目が一つ増えてるくらいで俺が驚くと思ったか!アハハハ」
俺はそのとき、酷く泥酔していた。
それに比例してか、肝っ玉も大きくなっていたのである。
この辺から記憶が曖昧になってくる。
気付くと俺は、三つ目中年と一緒に小さなおでんの屋台に入っていた。
昔ながらの古い屋台である。
しかめっ面をした髭面の店主の顔が見えた。
「いらっしゃい」
「おやじ、大根にはんぺん、それとこんにゃくね」
「あいよ」
どうやら、そのおでん屋台は三つ目中年の行きつけ店らしい。
今の時代、今の季節に何故おでんの屋台があるのか。
何故この店主は三つ目中年の姿を見てもなんとも思わないのか、色々と不思議だった。
三つ目中年は奇妙な色の酒を一杯呷りながら、俺に尋ねてきた。
「それにしても貴方、随分と酔ってらっしゃいましたよね。ひょっとして何か嫌なことでもあったんじゃないですか?」
「ふん、あったどころではない。病気のせいで、妻の命が、俺の人生が、何もかもめちゃくちゃになっちまったんだ……」
酔った勢いで、俺は妻と自分の身に降りかかった悲劇について三つ目中年に洗いざらい話してしまった。
「ほう、それは随分辛い目に遭って来られたのですねえ」
「俺にとってこの現実世界は、悪夢そのものだよ……。なんとか妻の病気だけでも治ったらなあ、今の俺はそれだけが望みだ……」
「あ!でしたら」
三つ目中年は、ぽんと手を打った。
「私が貴方の願い、叶えて差し上げましょう。ケケ」
「何だって、それは一体どういう意味だ……?」
三つ目中年は、額の大きな目をぎょろぎょろと動かしながら言う。
「そのままの意味ですよ。私の妖術で、貴方の望みをなんでも叶えて差し上げようと言っているのです……」
「そんなことが可能なのか!」
俺は驚愕した。
もしその話が本当ならば、妻の身を病から救ってやることができるかもしれない。
「本当は禁止されておるのですが、貴方は私の大事な友達ですから、特別です。そう、どんな願いでも二つだけ叶えて差し上げましょう……ケッケッケ」
「どんな願いでも、だと……!」
俺は生唾をごくりと飲み込んだ。
現実的に考えれば一笑に付すべき類の話だ。
しかし、なんといっても相手はもののけ。
もののけといえば、人知を超えた超自然的存在。
人間に出来ないことでも、もののけならばあるいは……。
「さあ、お好きな願いをなんでもどうぞ……」
よし、と俺は覚悟を決めた。物は試しである。
一つ願いを言ってみようじゃないか。魂を取られでもしたら、そのときはそのときである。
「まずは、そう金だ……!」
「え、なんですって?よく聞こえませんでしたよ?」
三つ目中年がそう言うので、俺は再度声を上げた。
「だ、か、ら、金だよ金!孫の代まで遊んで暮らせるくらいの大金を出してくれ!頼む、このとおり!」
「ケケケッ。お望みのままに……」
別に俺は妻を忘れたわけでも、嫌いになったわけでもない。
だが、まずは金が必要だろう。
金が無くて困ることはあれど、あって困ることはない。
妻だって、せっかく病気が治ったとて、金が無くては結局苦しい思いをすることになる。
だから、まず一つ目の願いで大金を手に入れる。
その後に、二つ目の願いで妻の病気を治してくれと頼むことにしよう。
そうすれば、妻の病気も治り、大金も手に入る。
全く最高のプランではないか。うん、その方が良いに決まってる……。
「願いは叶いました。明日の朝、銀行口座を見てごらんなさい。貴方のお望みのものがあるはずですから……ケッケッケ」
三つ目中年は怪しく笑った。
ぎょろつく額の眼球が妙に気持ち悪かった……。
そして、次の日の朝。
銀行口座を見て俺は驚愕した。思わず口から泡を吹きかけた。
そこには確かに大金があった。
それも、孫の代まで遊んで暮らせる程の大金が。
俺は有頂天になった。
奴の言っていたことは本当だった。
「これで俺は一気に億万長者ってわけだ……」
ニヤけた表情は俺の顔に糊のように張り付いて、なかなか離れようとしなかった……。
◇
しばらくして、俺は三つ目中年と再会した。
自然な流れで、また例のおでん屋台に入る。
三つ目中年は俺に言った。
「しかし貴方、また随分と見違えましたねえ!」
「ふふん、そうだろう?」
俺は高級スーツに身を包み、手には高級腕時計、足には高級革靴を履いていた。
「君には本当に感謝しているよ。はっはっは」
俺はあの後すぐに会社を辞めた。
そして、金に物を合わせて各地を遊び歩いた。
酒、女、ギャンブル、旅行、買い物、金の力でなんでも上手くいった。
妻の見舞いには、いつしか行かなくなっていた……。
「それで、二つ目の願いはどうするのです?」
三つ目中年は不敵な笑みを浮かべながら言う。
俺の腹は既に決まっていた。
「女だ……。俺の理想を完璧に兼ね備えた女を出してくれ!」
「つまり、新しい奥さんが欲しいと?」
俺は大きくうなづいた。
「そうさ!俺も考えたんだ……。どんな願いも叶えられるというのに、それを妻の病気の治療なんかに使うのはもったいない!」
俺は嬉々とした表情でそれを言った。
三つ目中年は黙って聞いていた。
「それよりも、自分の理想である、この世の何処にも居ない完璧な女性を出してもらった方が良いに決まってる!
俺はこの悪夢のような人生を切り捨て、今この瞬間から、新しい人生を新しい妻と共に歩むのだ!」
三つ目中年は俺を見てニマニマと笑っている。
「本当に、後悔しないでしょうねえ……」
俺は頷いた。
後悔などするはずがない。
「願いは叶いました。家に帰ってごらんなさい。きっ
と新しい奥さんが出迎えてくれるはずですから……」
俺の胸は希望で膨んだ。
これで俺は何もかもやり直せる。
悪夢のような人生からは、これでおさらばだ!
◇
「ただいま!」
自宅へと帰宅すると、俺は玄関の扉を開けた。
どうも様子がおかしい。
新しい妻が出迎えてくれるはずではなかったか?
「……貴方、ここよ」
「おう、そこに居たか」
俺はリビングに上がった。
家の中は真っ暗で姿こそよく見えないが、声だけは聞こえる。
「どうしたんだ?明かりもつけないで……」
照明のスイッチを点ける。
それと同時に、俺は甲高い悲鳴を上げた。
そこに居たのは、確かに妻である。
難病の妻、ベッドで寝こんでいるはずの妻、動けないはずの妻……。
「お前、どうしてここに……!」
「……貴方、一人で何処に行くつもりなの?貴方一人で一体何処に行くつもりなのよおおお!」
妻の身体は緑色に変色していた。
ゾンビのような腐った身体で、腰を抜かした俺にまとわりついてくる。
「や、やめろ!俺に近づくなあああ!」
「貴方一人で良い思いしようたって!!そうはいかないんだからねえええ!!」
妻に襲われる最中、俺は無我夢中で叫ぶ。
「ちっきしょお!あの三つ目野郎、騙しやがったな!クソッ、クソッ、クッソ、クッソ……」
◇
「…………はっ!」
長い眠りから目覚めた俺は、瞼を擦りながら大きく伸びをする。
どうやら酷い悪夢をみていたらしい。全身が生温い汗で覆われている。
俺はポケットの中に手を入れ、眠気覚ましのミントタブレットを探し当てると一粒口に含み、噛み砕いた……。