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ヨルムンガンド・サガ  作者: 椎名猛
第一章 因果から伸びる手
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58 - 不屈の華⑤

クラフト区の市街区からやや離れた場所にベンの邸宅はあった。

立派な館だなぁ、こんな邸宅をいくつも持っているなんてちっと羨ましいね。

浮浪者よろしく汚い私は邸宅の使用人さん数人がかりで身体を洗われて綺麗な寝巻きを着せられた。

暖かな部屋、暖かな食事、貴族の令嬢にでもなった気分だ。



「うんまぁ、あたしほどじゃないけど、綺麗になったんじゃないかしらね」


「はっ、今のあたしのどこが綺麗なんだよ? 女としちゃ終わってるって」


「いいわね、ちょっとは張り合いが戻ってきたじゃない。

 あたしは死ぬほど忙しいからね、もういくわよ。

 あんた、くれぐれも屋敷から出るんじゃないわよ、見張られてる身ってこと忘れないように」


「うん。 ……ありがと、オカマ」


「ふん、手がかかる小娘だわ。

 ああ、ウィルデから言伝」


「え?」


「“怒ってないから帰ってこい、このバカ娘” だって。

 チャオ、間に合って良かったわ」



そういってベンは部屋を出ていった。

なんだ、この感情は。

暗い霧の中に温かい太陽の光が指したように、心の中が高揚していく。

まだ辛くて、寒くて、悲しいけど、少なくとも孤独ではないと思える。

涙が止めどなく溢れてくる、ああそうか、私はいま生きようとしているんだ。


それから幾日か過ぎた。

ベンと別れてからの心境の変化は驚いたけど、相変わらず私の精神状態は浮き沈みが激しく、食事を受け付けなくなるなどしたが、最も恐れている発作的な記憶の欠如や感情の高ぶりは幸い起こっていない。

酒も止めた、というかここでは出してもらえなくて自然と生活が健全になっていった。


その夜、私はある冊子を荷物から引っ張り出して、眺めていた。

魔法剣技部隊の創設隊であった私たち四人が互いに付けていた日報というか、交換日記のようなものだ。

私とエアンストが巻き込まれた軍の審議会のあと、フリーデとヴァルターが魔法剣技部隊に加わって、シルフ隊長が身寄りのない人々を部隊に引き入れ始めてから、部隊の運用について書き留めて四人で共有していたものだ。

あの頃からシルフ隊長は部隊の拡大に伴う膨大な軍務作業で部隊の実用面での運用にかなり苦労をしていて、もはやエアンストだけが補佐できる範囲を超えていた。

シルフ隊長は意外と強情な面があって、部隊のことをなにもかも背負うおうとしているところがあった。

だから、私たち四人はシルフ隊長から習得した剣技、風魔法を使った身体操作の技術、ヨハンやカールが専門の付呪や魔法薬学の知識をどうしたら部隊のみんなに伝えられるかということで様々な話し合いをした。

全てが手探りで、良い手応えがあったときも思うようにうまくいかなかったときもその時々の心の声をこれに記して、四人で共感しあいながら共に歩んでいった。

今の私にとっては、何か過去に見ていた楽しい夢の軌跡のようだ。

筆跡に刻まれたみんなの声が、心のなかで再生されて、その度に私の心を締め付ける。

あるページで私の目が釘付けになる。

ノートの隅から隅に細かい文字で事細かにエアンストの手記が記してある。

アーニャ・ペトロヴナ、魔法剣技部隊の中で恐らくシルフ隊長に次ぐ天才、私たちの次の世代を担うであろう潜在能力を宿した彼女の育成にエアンストはかなり熱を上げていた。

予備役として私たちの仲間となった彼女には本当に手を焼かされた。

シルフ隊長以外に心を許してくれなかったあの子は常にトラブルを抱えていて、当時シルフ隊長が引き取ったどの子よりも精神面でのケアが欠かすことのできない子であった。

男に酷い嫌悪感を抱いていた彼女は比較的私には早く懐いてくれていたが、逆に私と仲の良いエアンスト、カール、ヨハンの三人に嫉妬からくる敵対心のようなものを抱いている節があった。

それを払拭したいエアンストは事あるごとに彼女に強くあたっていたけど、暖簾に腕押しとでもいうのだろうか、一向に状況が改善しなかった。

ああ、そういえばある時を堺にあの子はやけに素直になった気がする。

あのときはたまたま多忙だったシルフ隊長が学舎に訪れて、あの子と二人で話をしていたな。


判然としない記憶を手繰り寄せている際に、突然ドアが開かれた。

いや、開かれたなんて上品なものじゃない、高級な木製のドアが粉砕されて弾け飛んだ鉄製のヒンジが私の背後の窓ガラスを突き抜けていった。

現役の頃なら瞬時に剣を抜けたはずなのに、一切の気配を消した侵入者に私はベッドの上で全くの無防備のまま硬直してしまっていた。

ドアを突き破った彼女は予備動作なく風魔法で跳躍すると調度品を吹き飛ばしながらまっすぐに私に飛びついて、濁流のような涙を流ししゃくりあげながらひたすら私の名を叫んだ。



「アレッサ姉さん!!アレッサ姉さん!!」


「やあ、じゃじゃ馬娘、アレッサ姉さんだよ」


「生きてた!!よかった!!よかった!!」


「おいおい、幼児後退してるねぇ、あんた」


「うるさい!!バカ!!アホ!!」



泣きながらキレた彼女は力のコントロールもうまくできないほど動揺しているのか、呼吸が苦しくなるほど強く私を抱きしめてきた。

あのねぇ、あたしはあんたより体格が小さいんだからさ、加減してくれよ。



「どうしたの、そんなに慌てて。

 というか、よくここがわかったね」


「オカマが…オカマが教えてくれたんだ…。

 アレッサ姉さんが死にたがってるとかぬかすから、マジで焦って飛んできた」


「そっかぁ、オカマもちょっと大げさに伝えたんだね。

 大丈夫、いまの私は少なくとも落ちついているから」


「うん、それはすぐにわかったんだけど、ごめんアレッサ姉さん」


「え?」



精神作用系魔法を掛けられたときの独特の不快感が全身に走った。

通常、戦闘時にこれを食らったときには即座に戦線から離脱することが鉄則だ。

この類の魔法をかけられた場合、自分の思考状態が正常なのか自分で判断できない可能性が高い。

魔法剣技部隊はシルフ隊長の方針のもと、この類の術式の訓練を受けている。

相手が無防備な状態でないと成功しづらいものだけど、まさかこの子にやられるなんて夢にも思わなかった。



「……どういうこと?アーニャ?」


「ごめん!怒らないで!

 アレッサ姉さんに会わせたい人がいるんだ!」


「シルフ隊長だね」


「そうなんだけど、わからない。

 私をここへ行くよう命令したとき…、あれってシルフだったのかな…」


「どういうこと?」


「ごめんよ、姉さん。

 情報部の連中に嗅ぎつけられると嫌だから、私が姉さんを連れて行く」


「は!? ちょ、ちょっと!!」



アーニャは私を軽々と抱きかかえ窓を突き破って館の屋根へ立つと、間髪入れずに近隣の建物の屋根から屋根へと風魔法を使った跳躍でびゅんびゅんと飛び移っていく。

ああ、久々の感覚、風に乗って空を舞って、鳥になったような開放感。

凍えそうな夜空の下、私の心はまた暖炉にくべられた薪のように燃え上がっていった。


明かりが消えた灯台、この時間はヘルト王都内を航行する船は基本的にない。

僅かな時間だが、灯台守たちがいなくなり、警備が薄くなる時間帯でもある。


私を抱えたアーニャは堤防を封鎖する鉄の門を軽々と飛び越え、長く続く突堤を走っていく。

夜空にある満月のおかげか、一隻の船もない堤防の先端に誰かが立っているのが見える。

アーニャの足が止まる、私の心臓も、きっと一瞬止まっただろう。



「エ、エアンスト……兄さん?」



アーニャが息を呑んで、静かに私を地面におろした。

静かな波が打ち付ける堤防の上に佇む長身の男性。

魔法剣技部隊の制服、優しい目、わずかに微笑む表情は、私の記憶から一時も離れることのない私が愛した彼だった。

私は素足でコンクリートの上に立ち、駆け出す。



「アレッサ姉さん!待ってよ!

 何かおかしいよ!死んだ人が返ってくるはずない!」



私の脇を両腕で包み込んで引き止めるアーニャを風魔法を使った体術で堤防の上にねじ伏せる。

この子なら簡単にやり返すこともできただろうけど、私を傷つけることができない優しい子だ。

ごめんね、アーニャ。幻影でも亡霊でも、なんでもいいんだ。


彼の元へ一気に駆け出した私だけど、ほんの数メートルの距離で足がとまった。

彼は変わらず私に優しく微笑み掛けてくれている。

彼は私の記憶の中にある彼のままなのに、なぜ私を抱きしめるために近づいてくれないのだろうか。

一瞬の疑念が頭をよぎったが、すぐさま打ち消す。

儚い至福の夢を見ているように、現実を認識してしまったら目の前の彼が消えて、ベッドの上で目覚めてしまいそうな恐怖を覚えたからだ。

手のひらの中で揺らめく儚い夢を零さないように、彼の顔を見つめながらゆっくりと私は近づく。

心の震えに呼応するように私の左目から涙が溢れ出す。

それまで微笑みかけるだけだった彼が、ゆっくりと手を差し伸べてくれた。

その手を目一杯握りしめて、彼の胸の中に飛び込む。

厚い胸板、体臭、呼吸のペース、その全てが私の中の愛した彼だ。

喉が痛むほどの嗚咽を漏らしながら、私は彼の名を呼ぶ。



「エアンストッ…エアンストッ」


『アレッサ、落ち着いて。 俺もずっと会いたかった』


「なんでッ…なんで私を…私を置いて死んじゃったの…。

 ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃんッ」



必死に抱きしめながら背中に回した腕で彼の背中を叩く。

私の身体にぐっと体重が乗る、彼の両腕が私を包み込んでくれる。

この数ヶ月ずっと夢に見ていたあの暖かで優しい抱擁だ。



『俺は君に謝れば良いのか、それとも励ますべきなのか、わからない。

 ただ、俺はあの瞬間の決断を悔いてはいない』


「なんで!?」


『俺は、死んでお前と一緒にいるよりも、生きてお前に幸せになってほしかった。

 死者が願うものは愛し遺した者の幸福だと、いまはわかる』


「そんな……自分勝手なこと言わないでよ」


『アレッサ、シルフ隊長を、どうか悪く思わないでくれ。

 彼が君を助けたのも俺の願いに応えてくれたからだ』


「どういうこと…? どうしてシルフ隊長が関係しているの?」


『すまない、もう長くこうしてはいられない。

アレッサ、俺は君の幸福をずっと願っている。

君の燃えるような赤い髪が好きだった、俺は君を愛している。

でも、君は現世で幸せになってくれ。俺たちはもういくよ』


「“俺たち”?」



そっと離れたエアンストに変わって、両肩を誰かに触れられた。

そちらに首を向けると、私に微笑みかけるカールにヨハン、ヴァルター。ドレスデンで散っていった仲間たちが生前の姿で薄ら明かりに包まれて湖の上に立ち、私を優しく見ていた。



「みんな!!みんなぁ!!」



私が彼らに触れようとした瞬間、蝋燭の火が消えるように彼らの姿が見えなくなった。

強烈な孤独感と焦燥感がこみ上げてきて、正面のエアンストへ視線を向ける。


だが、もうそこにエアンストはおらず月明かりの中で無表情で佇むシルフ隊長がいた。

この真冬の夜空の下、彼は多量の汗で顔を濡らしながら酷い震えと荒い呼吸を整えようと必死に胸を上下させていた。



「アレッサ…」


「シルフ隊長…」


「これを…」



シルフ隊長は私の左手を取ると、すでに指輪があるその薬指にエアンストがしていた、彼とのペアの指輪を通した。

私の手を握ったまま、彼は微笑む。



「覚えていてください、アレッサ…。

 どんなに世界が辛く残酷でも、やがてあなた達の魂は巡り巡ってまた出会うことができます…。

 だから現世では幸せになってください…」



その場に崩れ落ちたシルフ隊長を抱きとめる。

全速力でアーニャも駆け寄ってきた。



「シルフ隊長…」


「よかった…、旅立つ前にあなたに会えて…」


「あのね…、あたし…あなたに謝らないと…。

ずっと死にたいって…、みんなと一緒に消えればよかったって…。

あなたに救ってもらった命なのに…、恨んじゃって…」


「いいんですよ、そう悩んでいたあなたはもう過去なのですから…。

 過去は取り戻せない、だから未来に生きてください…、私の親愛なる友よ」



シルフ隊長はそのまま意識を失った。

涙と震えの止まらない私に代わり、アーニャがシルフ隊長を担ぎ上げ私に肩を貸してくれる。

突堤の鉄の門が開けられていて、一台の馬車と、それに寄りかかって葉巻を吸うベンの姿が見えた。



「いいタイミングね。

 灯台守たちが戻る前に移動しましょ」


「姉さん、乗れる?」


「うん…」



気を失ったシルフ隊長を奥へ乗せ、三人で馬車に乗る。

前の席に乗ったベンが合図を出すと御者が馬を走らせた。



「ふぅ…、まだ情報部の連中はあんたを見つけられていないわ。

 どうする?まだあたしのところにいる?」


「ううん、傭兵ギルドの酒場にいって欲しい」


「そう。アーニャとシルフちゃんの作戦はうまくいったみたいね」


「あたし、なーんも聞かされてねーよ。

いつの間にかあたしにまで幻惑魔法が掛かってたしさぁ。

 シルフのやつ、起きたらとっちめてやっぞ」


「ぶほほほっ!青いわね、秘密裏に物事を進めるなら味方を欺くのが定石ってやつよ。

 ……それよりも、あんたもお別れを言っておきなさいな」


「ケッ…、せっかくしみったれた雰囲気を戻そうと思ってたのにさぁ!

 勝手に人を殺すんじゃねぇよ…」



両手を首の後ろで組んでふんぞり返り、悪態をついてアーニャだけど、すぐに切なげな眼差しで私を見つめてきた。

私はアーニャを抱き寄せて、左手で髪を撫でて、何度も額にキスをして、私もこの子もボロボロ泣きながら互いを抱きしめあった。



「ごめんね、アーニャ。心配かけてごめんね。

 あたし、ちゃんとするから。もう大丈夫だから」


「……もう死にたいとか言わない?」


「言わない、絶対に」


「そっか…、あたし、ずっと迷ってたけど決めたよ。アレッサ姉さん」


「何を…?」


「あたし、姉さんのために戦いに行くよ。

 姉さんと姉さんを大事に想ってくれる人たちのために、戦争にいってくる」


「本当は…、そんなことしないで逃げて欲しいな」


「駄目だよ。そんなことしたらシルフは独りぼっちで戦わなきゃならなくなっちゃう。

 アレッサ姉さんも、兄さんたちだってそんなこと絶対にさせないでしょ?」


「そうだね」



納得できないのに、納得せざるを得ない。

個の自由意志の及ばない、国家という権力の闘争に巻き込まれていく可愛い部下だったこの子をどうしてあげることもできない。

もはや戦うすべを失った私にできることはない。そう考えたら、なおいっそう悲しくて切なくて、その想いが大声になって馬車の中に響く。

 そうしてただただ彼女を抱きしめて泣いていたら、いつのまにか傭兵ギルドの酒場の前に馬車は止まっていた。



「……着いたわよ、アレッサ」



ベンの呼び声がしたが、私は動けなかった。

傭兵ギルドの酒場にはなぜか明かりが灯っている。こんな夜とも朝とも言えない丑三つ時に。

私が抱きしめているこの子、その横で気を失っているシルフ隊長。私はここを去ってどうすればいいのだろう。

死地に向かうと分かっている彼らを後目に、本当に私は幸福の道を歩んで良いのだろうか。


私を抱きしめていたアーニャが私の身体を引き剥がし、朗らかに笑いながら風魔法で私を馬車の外へ放り出した。

硬い石畳に身体を打ち付け、怯んでいる間に馬車は走り出し、アーニャの声だけが響く



「アレッサ姉さん、大好きだよ。幸せになってね」



寒空の下に放り出された私はそのまま動けずにいた。

地面に打ち付けた身体が痛むとかそういうわけじゃない。

今日だけで何度“幸せになれ”と言われたのだろう。

綺麗な言葉だと思うけど、じゃあ逆に言いたい。


“あんたたちを幸せにしてくれるのはいったい誰?”と。

どいつもこいつも利他主義で他人を優先して自分は死にに行くバカばっかりじゃない。

私だって、私と関わった人たちに幸せになって欲しいのに、みんな私を置いてどこかへ行ってしまう。

これじゃあ呪いじゃない、こんな言葉。


悔し涙でその場にうずくまっていたら、ふわりと柔らかなストールが私を包み込んだ。

甘いフレーバーのタバコの煙と、刀ダコ跡だらけだけど、柔らかい手が私の髪を撫でてくれる。

顔を上げたら、開かれた傭兵ギルドの酒場の扉と中から漏れ出る光の中、微笑んで私を見るウィルデさんがいた。



「おかえり」


「……あ、あの」


「こら、返事は?」


「はい……、ただいま」


「お腹、空いてる?」


「うん……」


「そう。寒いから早くお入り」



幾日か前と比べても、ギルドの宿屋の中はさらに酷いものになっていた。

テーブルの上には飲み残した酒や汚れた食器が残され、酒のせいか嘔吐された吐瀉物が床に残され乾いていた。

厨房から溢れ出るゴミもそのまま、お世辞に衛生的とはいえない。

私は、本来なら事務作業をするスペースに座らされ、調理場に向かうウィルデさんの背中をしばらく目で追いかけて、それからただボーッと机の上を見つめていた。


ただ見つめていたそこに、湯気を立て見るからに熱そうなソーセージと野菜の入ったスープ、そしてパン。

差し出された木製の匙を取ると、そっとスープを掬って、口に運ぶ。



「おいしい……」


「そうかい」



私の正面に座ったウィルデさんは頬杖をついたまま、スープとパンを頬張る私を見ている。

荒んだ心に流し込む酒よりも、ベンの邸宅で食べた贅沢な料理より、何倍も何万倍もおいしい。

あっという間に食べきった私に、ウィルデさんがお茶を出してくれた。

ジュニパーベリーのお茶、口に含んだら僅かな渋みに蜂蜜の甘みが口に広がる。

ああ、一瞬で思い出してしまった。

エアンストに木皿を投げつけた光景、初めて本気で言い争った光景、焚き火の前で泣いているリリーを抱きしめた光景、その彼女にシルフ隊長が振る舞ったこのお茶。

私は鼻水を垂らし泣きながら、先程の思いの丈をウィルデさんにぶつける。

シルフ隊長とアーニャのことを本当は言ってはいけないのだろうけど、そんなことを考えられないほど、張り裂けそうな心を必死に軽くするように私の本音が口から次々と吐き出される。

タバコを吸いながらひとしきり私の話を聞いていたウィルデさんはポカンとした表情で言ってのけた。



「なに、あんたそんなこと悩んで泣いてたの?」


「そ、そんなことって……」


「あんたは、たくさんの幸せをくれたよ。

 あたしにも、旦那にも、もちろんリリーにも」



ウィルデさんは自分のジュニパーベリーのお茶を飲みながら穏やかな表情で語り始めた。



「ふふ、このお茶ね、リリーのお気に入りでね。

 あんたたちとの大切な思い出があるんだってね。

 あんた、仕事以外でもちょくちょく顔だしてくれてリリーのことを見守ってくれたでしょ。

 あの子はあんたと話したことをいつも嬉しそうに私たちに話して聞かせるのさ。

 あの子が笑顔になってくれるたびに、私もルキも本当に救われたし、幸せな気持ちなれたよ。

 あんたは、そうしていろんな人に幸せを配って、もらった幸せをあんたに少しでも返そうってやつがいっぱいいるのさ。

 あたしらもそう」



タバコをもみ消したウィルデさんは、小刻みに震える私の左手を両手で包んで、そして静かに涙を流した。



「あんたの痛みも辛さも、一緒に背負ってあげる。

 だから、一緒に生きていこう、アレッサ」



もう一生分泣いたと思うんだけど、やっぱり涙が溢れてきた。

でも、いままでの涙とは違う、暖かく優しく荒んだ大地を潤すようなそういう涙。

地獄に堕ちて、救われて、再び地獄に堕ちたと思ったけれど、今度こそ私は生き抜いて行ける気がする。

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