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ヨルムンガンド・サガ  作者: 椎名猛
第一章 因果から伸びる手
43/59

43 - ブラザーフッド⑭

ルイーサに通された病室は、凄まじい薬品の刺激臭と、排泄物の臭い、汗の熱気でむせ返りそうだった。

ベッドを取り囲む治癒士は大量の汗をにじませながら、ろくに瞬きもせずにそこに横たわる人物に魔法を掛け続けている。

彼らの治癒魔法の放つ光で、照明などいらぬほどに部屋は明るかった。

そして、その部屋のソファにはぐったりと仰向けに寝かせられているソフィアの母、ヴェリーヌがいた。

ただでさえ俗世にまみれぬ生活を送ってソフィアにとって、消える命とそれを繋ぎ止めるために奮闘する人間のやり取りは強烈な衝撃を持って幼い彼女の心を揺さぶる。



「姫様、ひとつ……、確約が欲しいのです」



背筋が冷たくなるような声がソフィアの真横から降ってきた。

そちらに顔を向けると、本当にあのルイーサなのかと疑いたくなるほどに暗い彼女の目が見えた。



「これからあの治癒士たちには魔法をやめさせます。

 正直、シルフ様だけにこれ以上この病院の人員を割けないのですわ。

 姫様が彼を救えなかった場合、彼の治療はここまでとさせていただきます。

 同意……、いただけますかしら?」



ぐっとつばを飲みこんで、ソフィアは静かに頷いた。

それを確認すると、ルイーサが声を上げる。



「あなた達、シルフ様の治療は中止よ。

 他の重症者の治療に回ってちょうだい」



三人の治癒士はルイーサの大声が届くまで彼女たちに気づいていなかったようで、肩で息をしながら頷き、汗だくの顔を袖で拭き取って足早に部屋を出ていった。

彼らに入れ替わって、シルフの横たわるベッドの横にソフィアが立った。

ルイーサはランプをテーブルの上に置くと、ソファーの上でヨダレを垂らして気絶しているヴェリーヌの足を動かしスペースを空け、どっぷりと座り込んだ。

本当はソフィアとシルフのやり取りを盗み見るつもりだったが、ソファーの柔軟な感触が彼女を猛烈な勢いで眠りへと引っ張り込もうとする。

あまりに抗いがたい眠気の中、明日の職務について考えを巡らせ、自分が眠ってもよいかどうかしばらく考えて、そのまま本能に従うまま深い眠りに落ちた。


実質的にシルフと二人きりとなったソフィアは手の中に生み出した魔法の光でシルフの顔を覗き込んだ。

思わず叫びそうになる口元を手で抑え、声の代わりにだくだくと涙が溢れ出る。

あの透き通るように白かった白い肌は土気色になり、ただでさえ痩せ気味だった頬はこけ、ひび割れた紫色の唇が呼吸でかすかに動いている。

体中に巻かれた包帯から血が滲み赤黒く変色していて、消毒液の臭いと傷口から漏れ出た異臭を放つ体液が強烈に鼻を抜き抜け、思わずえずきそうになった。


常に優しく彼女に微笑んでくれていたシルフの無惨な姿にただただ声を押し殺して彼女は泣いた。

ひとしきり泣いた後、震える手で、誰にも施したことがない自己再生促進の魔法を掛ける、だがこんな魔法はそれほど高等な魔法ではない、この軍病院の治癒士が試していないわけがないだろう。

すぐに術式を解いた。


以前に自分が論文で書き起こした聖魔法の術を試そうと思ったがすぐに己の中で否定する。

人の生命を救う魔法は本来人間に施すまでに幾度もの実験を繰り返し、ようやく国が認める魔法体系の中に組み込まれ普及していくのだ。

机上の論でしかない、ましてや実戦経験のない自分が放った魔法がもしシルフに止めを刺してしまったらと考えると怖くてできなかった。


なんということだろうか。

あれほど息巻いて大人たちを振り回してここへ来たのに、彼女にはできることが何もないことに、彼女自身が気づいてしまった。

何が守護聖女の末裔だろうか、自分はただの無力で非力な子供であり、大切な人間ひとり救うことなどできはしない。

民を救うことなどできる訳がない。


悔しさが再び涙となって流れ落ち、彼女の心が深い闇の中に堕ちていく。

彼女は泣くのをやめた。

彼女が何もできないのならば、ルイーサの言った通り、シルフの人生はここが終着点になる。

彼女は愛しいシルフの最後に、せめて寄り添い、立ち会うことに決めた。


シルフの傷に触らないように慎重にベッドに上がると、ゆっくりと彼の横に寄り添って眠る。

血で固まった髪と土気色の顔を両手で抱き寄せ、幼子を寝かしつけるように撫でる。



「ごめんね、シルフ…、あなたにはたくさんの大切なものをもらったのに、私は何もあなたに返すことができないみたい…」



彼女はシルフを抱きながら、彼女の中にあるシルフの記憶をひとつひとつ話し始めた。

うっすらと、まだ赤子だった自分を抱き上げる彼の優しい顔を覚えていること。その時は彼の背後のガラス窓に満月が登っていたこと。

両親不在で軍の宿舎まで遊びに行ったこと、紅い楓の葉が埋め尽くす歩道を狼の毛皮を来て、シルフに抱き抱えられていたこと。

カーリアと出会えたこと、ポエットというガルム族の子供に出会えたこと、一緒に市場に行ったこと、本を買ってもらったこと。

軍務の後で疲れているであろうシルフに遠慮することなく、本の朗読をせがんだこと。本当はもう自分で読むことができたのに。

嫌な顔をせずにベッドの横で読んで聞かせてくれたこと。本の章を読み進める度に新しい綺麗な栞を本に挟んでくれたこと。

母に叱られ泣いている自分を抱きしめてくれたこと。

誕生日に手作りのケーキを毎年作ってくれたこと。



「シルフ…、あのね、シルフが贈ってくれた勇者様の本の中でね、とっても好きなお話があるの。

 心躍るような冒険譚じゃなくてね、この国を作るために大きな戦争を起こしてしまって、たくさんの人を殺めて…、自分の命を呪った勇者様がこの国を独りで出ていくところ…。

 この世で唯一愛したエルフの女王様に会いにいくために国を去っていく、最後のお話」



シルフの額に頬をくっつけると、彼女の涙がシルフの鼻筋を通って、唇へと伝っていく。



「シルフは…、たくさんの人を救って、ここを…、私をおいて去っていっちゃうのかな…。

 あなたのことを全部知ることができないまま行っちゃうの…?

 私のシルフ…、大好きだよ…、まだ、行かないで…」



シルフを抱く彼女の手の中に、彼女自身も気づかないほどに僅かな光がふわりと一瞬、灯った。



---



ああ、これは…、夢か…。

いつもの、胸糞の悪い夢だ…、こいつのせいで俺はいつも熟睡できない。



「おい、そろそろ泣くのやめてそこどけよ。

 早くしねーと親方連中にまた半殺しにされる」



ボロ布をまとった銀髪の幼い少女に、幼い頃の俺は酷く苛立った声を上げている。

ああ、くそ…、こいつは見たくない…、思い出したくない…。



「ジラ姉さん、死んじゃったよ…、シルフ」


売女ばいたやまいで死ぬのなんていつものことだろうが。

 いちいち泣いてちゃキリがねぇぞ」


「…ジラ姉さんだけは、私達に優しくしてくれたね……、シルフ」



やめてくれ…、思い出させないでくれ…、頼む…。

これが夢なら、目覚めてくれ…、早く…。



「…どうせ最後はこうなるってのに、俺らみてぇなしょうもねぇガキに世話焼きやがって……。

 そのせいで、てめぇが早死するだけだったじゃねぇかよ、馬鹿な女だな」


「そんなに強がって我慢しなくてもいいんだよ、シルフ。

 いつもみたいに、バラバラにしないじゃない」


「うるせぇな…、こんなチビでガリガリの死体、俺でも持って行けるだけだ。 さっさといくぞ」



ズタ袋に包んだ死体を小さな体の俺が抱えていく。

やめてくれ…、見たくない…。


場面が変わった…。

ああ、あの共同墓地…、野良犬や魔物が死体を掘り返して、酷い場所だった。



「ちゃんと掘ったのに、なんでシルフがやるの?」


「浅いんだよ、こんなんじゃ子犬でも掘り返せる。

 お前、また体力落ちたんじゃねーのか…。

 チッ、くそッ…隣に埋まってたか…、くっせぇ…。

 おい、その辺に白い花が馬鹿みてぇに生えてんだろ、採れるだけとってこい!」


「わかった」



布の端切れで口を覆いながら、泥だらけの俺が銀髪の少女に怒鳴り散らす。

野良犬みたいな目だ、こんな目だったかな…、早く目覚めてくれ…。

また、場面が変わる…。



「これだけ掘ればいいだろうよ」


「ねぇ、あの白い花、なに?」


彼岸花リコリス。あれには強力な毒がある。

 根をちぎりながら穴を埋めていったから、野良犬も魔物も近づかねぇ」


「ありがとう、優しいね、シルフ」


「うるせぇ……」



跪いて祈りを捧げ始めた銀髪の少女の横で、俺は火を付けた一本の葉巻を、死体を埋めた盛土の上に投げ捨てた。

ああ…、もう遥か遠い昔の記憶なのに…、彼女に初めて教えられたんだ、この場所で…。



「そんなに悲しむ必要なんてないんだよ、シルフ」


「悲しんでんのはおめぇだろ、泣き虫が」


「死んだ人の魂はね、巡り巡って、いつか想い人と出会えるの。

 この世界は残酷だけど、それと同じくらいに幸せな時を過ごして、また魂は巡って、出会ってを繰り返すって言われているの」


「神様の話ってか? 俺ぁそんもん信じてねぇぞ…。

 そんなものいるんだったら、俺もお前もこんな目にあってねぇ…」


「私、結構幸せだけどな」


「はぁ…? お前なにいってんだ?」


「だって、大好きなシルフに出会えたんだもの、私の魂は巡り巡って君に出会うことができたんだよ。

 シルフは…、わたしのこと嫌いかな?」


「うるせぇ……」


「覚えていてね、シルフ。

 どんなことがあっても、私はあなたに会いに行くよ。

 私の身体がなくなっても、きっとあなたに会いに行くから。

 だから、私があなたの前からいなくなっても────」



俺は結局、君との約束を守れなかった。

君が大好きだと言ってくれた俺の魂は、これ以上ないほど自分の手で穢してしまった。


ああ、温かいな…、なんだろうか、とても心地良い、溶けていまいそうなほどに…。

誰かに呼ばれている気がするんだ。

俺も君が大好きだった。

優しくて、温かい、きっと俺は清々しく目覚められる気がする。



---



「かっ…はっ…、温かい………、ひ、姫様……」


「シルフ!? あぁぁ!!シルフ!!

 うわぁ!! うわああああああああああああ!!!」


「そんなに…大声で泣かれては…少々お行儀が悪うございます、姫様…」


「そんなことどうでもいい!! うああああああああ!!」


「姫様…、どうか落ち着いてくださいませ……」

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