プロローグ
開け放たれた窓から風が吹きこむ。
北国の短い夏に今を盛りと葉を茂らせた草花の、むっと青臭いにおいが鼻孔の奥をくすぐった。しかしそれはすぐさま、周囲に濃厚にたちこめる、鉄錆た腥いにおいにかき消される。
アルフイーナは、顔の横にかかった腰までのびた淡い金髪を片手ではらって、凍てついた冬の湖を思わせる蒼氷色の瞳であたりを見まわした。
寝台と身の回りの物を入られた小さな衣装入だけがおかれ、がらんとしていたはずの部屋には、三人の男の死体が転がり、部屋を狭苦しく見せていた。死体の下には血溜まりが広がり、寝台と衣装入の上には、アルフイーナに斬られた男たちの血潮が飛び散っていた。惨状とよぶに相応しい状態だったが、乱闘の最中刺客から奪った剣を片手に部屋の中央に立ったアルフイーナは、ただ冷静に、これをどうやって片付けるかと考えていた。
「面倒だな」
村の誰かに手助けを頼まなければ、この部屋きれいにすることはできないだろう。大きくため息をつくと、先程から感じていた人の気配に後ろをむいた。
「俺を葬り去れたか、首尾を見届けにきたか? だが残念だったな」
開きっぱなしになっていた扉のむこうに、大陸の北に位置するこの国では滅多に見かけない、褐色の肌をした少年が立っていた。背の高いアルフィーナと同じほどの背丈がある。だが細身のアルフィーナとは違い、少年は服の上からもそうとわかるほど筋肉が隆々と盛り上がっていた。
「違う」少年が顔を歪めて言う。「――兄貴に……、兄上に言われてきたんだ」
「兄上?」
アルフイーナは首をかしげた。
「俺の兄の名はユストゥス・アイゼンフートだ。この名前を忘れたとは言わせないぞ」
「ああ」アルフィーナは、得心がいったと自分自身に頷いた。どうして気づかなかったのだろう。少年は彼らの父にそっくりだと言うのに。「それでユストゥスは、俺を殺して復讐を果たすと?」
彼は、自ら殺す価値もないと刺客を差しむけ、他人にアルフィーナのことを殺させようとしたのだろうか。だとしたら、彼にとって自分の存在とはずいぶんと意味のないものになってしまったものだ。アルフィーナは、薄い唇の左端をわずかに引き上げ、皮肉とも自嘲ともつかない笑みをつくった。
「そうじゃない」少年が首をふる。「兄上が巫王様からお言葉を賜ったんだ。アンタを王都に連れもどせと。それで兄上に頼まれ、兄上の代わりにオレがお前のところに来た」
「ふん」アルフィーナは鼻を鳴らした。「俺への恨みはひとまず忘れて、巫王に言われたから従うと? 国一番の忠臣と名高いテオドール・アイゼンフートの息子にふさわしく、お前の兄は殊勝な心がけをしているな」
「おまえっ」兄を侮蔑されたと思ったのか、少年が、アルフィーナのところまで聞こえてきそうなくらい強く歯噛みした。アルフィーナはそれを無視して言葉を続ける。「それで巫王は、俺を次の王位につけると?」
であれば、ここのところ絶えて久しくなっていたというのに、今日になって刺客が差し向けられた理由に説明がつく。
七年前、王位継承権など捨ててやると、父王と廷臣の居並ぶ王宮の一室で捨て台詞を吐き、アルフィーナは王都を後にした。だが、アルフィーナの王位継承権は正式には破棄されず、アルフィーナが王都を遠く離れたこの寒村に移り住んでからしばらくの間は、自らの子の王位継承を狙う異母弟の母エーファが、頻繁に刺客を差しむけてきた。
王にはアルフィーナを含め二人の息子がいるが、まだ立太子はされていない。立太子するにも王一人の言だけではできない。運命を司る月の女神のこの世における代理人である巫王の承認が必要だ。
巫王がアルフィーナを王都に呼びもどそうとする意図が、アルフィーナの立太子にあるなら、アルフィーナの異母弟ディーデリヒの立太子を確実にしようと、その生みの母であるエーファが、アルフィーナを亡き者にしようと再び画策をはじめたとしてもおかしくない。
「おれは知らない。ただ、アンタを王都に連れ戻すように、兄上に頼まれただけだ」
少年は苦々しげに吐き捨てると、漆黒の瞳でアルフィーナのことを睨みつけ、それは本意ではないのだと主張してきた。
「厄介なことだ」
アルフィーナは他人事のようにつぶやいて、首だけをめぐらし、あたりを見まわした。途中、自らの血潮でつくった血溜まりの中に、首を横にしてうつ伏せに突っ伏した男と目があう。かっと見開いた目は、光を失い、焦点をさだめず、どこかの虚空を見つめていた。
「俺のことなど捨ておいておけば良いものを」
そうすれば、この男たちも死なずにすんだだろうに。
続く言葉は胸にしまい、アルフイーナは少年のことを見た。
「それでお前はどうするんだ?」
「どうするとは?」
「アイゼンフート家の跡取りはユストゥスだ。ユストゥスがいる限り、お前は家を継げまい。エーファはディーデリヒが王座に就くことを望んでいる。お前がここで俺を殺せば、エーファの願いは叶う。今、俺を殺し、俺の命とひきかえにエーファに取り入れば、彼女の得た権力を頼り、ユストゥスを排除することも簡単だ。そうすれば、お前はアイゼンフート家を継げる」
「オレに兄貴を裏切れというのかっ⁉︎」
「裏切れとは言っていない。巫王に従って生きるというのは、ユストゥスが選んだ生き方だ。今、お前の目の前には、アイゼンフート家の跡継ぎとなる道がある。父と兄に従順な弟として一生過ごすか、家名を継ぐことに生きる価値を見出すか、それはお前次第だと言っている。裏切ったかどうか決めるのは相手であって、お前ではない。自分が選んだ人生なら、他人になんと言われようが、気にしてもしかたない」
「お前っ」
少年が歯を剥き出しにして唸る。何かを堪えるように、腰にさげた剣の柄の横で、手を握ったり開いたりしている。
「だがユストゥスのことだ、お前が翻意した場合のことも考えているだろう。その場合は、お前がエーファの下に行く前にお前を殺して、俺を葬り去った手柄を自分のものとするだろうな。俺に対する復讐も果たせ、自分の地位を狙う可能性のあるお前のことも排除できる。やつにとっては願ったり叶ったりだ」
「兄貴はそんな人間じゃない、勝手なことを言うなッ‼︎」
少年は剣を抜き、アルフイーナに斬りかかってきた。
剣を頭上にふり上げた少年の胴はがら空きだ。冷静さが足りていないと、アルフィーナは瞬時に理解する。頭に血が上った少年は、アルフィーナのことしか見ていない。少年が剣を振り下ろす寸前、アルフイーナは長身を少しかがめ、そのまま横にさけた。
突然視界からアルフィーナがきえて少年は驚く。
少年は慌てて首をひねって周囲にアルフイーナを探そうとしたが、それまでの勢いは殺しきれず数歩たたらを踏み、そのまま床に転がる刺客の一人に蹴つまずく。倒れる体をささえるために、剣を放して手を前にだし、死体をまたぐ格好で四つんばいになった。
その隙を逃すアルフイーナではなかった。少年の横に立ち、右手に提げたままになっていた剣を、少年の首筋にあてた。軽く力をこめれば、少年の若く張りのある肌に剣身が沈み、血珠が盛り上がった。
「手がすべる。動くなよ」
「――殺せ……」
少年が低い声で言う。
アルフイーナは、少年の緊張し、皮膚の上からもそうと分かるほど筋肉の盛り上がっている首筋に、さらに深く剣身を食いこませた。流れ出した血が剣身を伝って落ちていき、すでに剣身を汚していた刺客の血とまじわった。
「お前はユストゥスの弟だ。俺がお前を殺せば、アイツが苦しむ」
「だったらどうして、七年まえにフィネを殺したッ⁉︎ あの後兄貴はッ」
少年がふりかえって叫ぶ。
「お前には関係ない。俺とユストゥスの問題だ」
アルフイーナは剣をひくと、用のなくなった剣を放り投げ、部屋を後にした。