エピローグ
ポーランドの騒動から、一週間後、モスクワの、ある、政府関連のオフィスで、
FSB要員のキルレンコは直立不動の姿勢で、目の前の、上司の言葉を聞いていた。
「Mが正体を知られ、逮捕に至ったのは、君のシミュレート通りだったな。
金と時間は少しかかったが、、、」。
上司の男はそう呟いてから、しばらく黙った。男のデスクには、英国の有力新聞が1紙あった。
(マーク スキナー SIS副長官 国家機密漏洩罪で、終身刑が検討中?)。
タイトルのそれを、ちらりと一瞥して、彼は会話を再開した。
「これで英国情報部をパニック状態にし、情報部のイメージダウンを実現できた。ゴロディエフは余命が短く、
英国に住んでいる、一人娘に会いたがっていた。娘は病床についていたな、
確か、、、」。
「はい」。
キルレンコは返答した。
「彼に暗殺の危険が迫っていると思わせ、手元の機密資料を手土産に、
亡命をけしかける。ポーランド当局と、SOFCの工作員が扱いやすかったのが幸いでした」。
ゴロディエフが死んだのは予定にない好都合の産物だったな、
とキルレンコは内心で、思った。先の短い、あの男には、痕跡を残さないためにも、その方がよかった。
それに、娘の危篤状態を目にせずに済み、いずれ、あの世で再会が叶う。
そして、こちらのSIS内の資産であった、スキナーには母なるロシアが大ソビエト連邦であった頃から世話になった。
しかし、それで恩を返すような我々ではない。キルレンコにとって、諜報作戦は、慈善行為ではなかったからだ。
FSBの高官は回転イスから、立ち上がり、オフィスの窓に歩み寄った。
「ゴロディエフ大佐とは、KGB時代からの同期だった。家族思いで、いいやつだったよ。ロシアの国益のためとはいえ、彼に悪いことをしたかな、、、」。
窓の外の空を見上げ、エヴゲニー マリク少将は悲しげにため息をついた。やがて、自分の部下に向き直ると、ポケットから、煙草とライターを出し、一服し出した。
少しの間があってから、キルレンコは声のトーンを少し低めにした。
「この一件でイギリス政府は情報機関への信用を渋るでしょう。
CIAにも潜伏していた、こちら側の協力者の正体も露見し、同様の現象が、アメリカでも、起こることになれば、
尚、よしです」。
キルレンコはつづけた。
「こちらの資産を失うというデメリットはありますが、そういう人間はいくらでも補充できます。
こちらはいざとなれば、関与を否定し、損害のレベルは相手の方が上回ります。あなたの指導の賜物です。
マリク将軍」。
部下の賛美を耳にしても、マリクは石のように、固く、無表情であった。煙草を灰皿にいれ、潰すと、再び、イスに座った。
「切なくも美しい、この物語の真相は私と私と君で墓まで、持っていく事になる。ユーリィは何だったのかな?、冷戦の生き証人。あの懐かしきクレムリンからの亡霊だったのか?、、、私が神の元へ旅立ったら、聞いてみるよ。行きたまえ、大佐」。
それを受け、うなずくと、キルレンコはきびすを返し、退出していった。秘書に挨拶し、警衛にも、敬礼を返すと、
FSB大佐はやや、長い通路に出た。その通路を歩いていて、キルレンコは、今後の構想を思い描いた。
ゴロディエフの件はハリウッドにでも、持ち込めば、傑作扱いされるだろう。
だが、それが、構想の中核ではないし、
先程のマリク将軍との、誓約もある。
あの老いぼれ少将の後釜には、いずれ、誰かがつく。特に規律と意欲に富んだ、愛国者がふさわしい。
それが今、ここを歩いている、男だと、FSB情報部員はロシアの神のイコン以上に信じていた。
やがて、ビルの出入り口に着き、ニコライ キルレンコは嬉々として、
駐車場のセダンで帰宅の途についた。