桑樹の陰
時は今を遡ること二千七百年近くなろうか。
所は中国、当時天下として考えられていた地域の北西部に位置する国、晋で内乱が起こった。
晋の君主であった献公が驪戎と呼ばれる異民族との戦に勝利し、戦利品として連れ帰った驪姫という女性こそ、その発端である。
驪姫は献公の寵愛をうけるうち、自らの生んだ子を次代の君主にと望むようになり、献公の太子である申生、及び献公の子の中で有力な公子である重耳・夷吾を排除しようと考えた。
彼女は献公に進言して三人を都から遠ざけた挙句、申生が献公に献じた祭祀の肉と酒に毒を混ぜ、あたかも申生が献公を暗殺しようとしたかのように仕組んだのである。
そうして、太子申生は自殺し、重耳と夷吾は別々に国外に逃亡することとなった。
これは、その公子重耳が、流亡の中で立ち寄った斉の国での話である。
斉の国は東方にあり、折しも春秋時代初期に最初の覇権を唱えた桓公が未だ健在であった。
その斉に、亡命の後、実に十二年を異族の地で過ごした公子重耳と従者達一行は足を踏み入れたのである。
そこまでの旅は、惨憺たるものであった。
途中通過した衛の国は亡命公子である重耳に冷たく、彼らは飢えかけた。
やむを得ず野人に食べ物を恵んでもらいたいと頼んだところ、土塊を差し出されたことすらあるという有様だった。
その苦難の旅を超えて斉に到達した彼らを、桓公は優遇した。
重耳に自らの娘を嫁がせ、八十頭もの馬を与えた。
この処遇に、重耳は感激する。
「なんと良い暮らしだろう」
とりわけ、辛酸を舐めた旅の後である。
斉での生活はまるで極楽浄土に等しかった。
「人生、苦労も無くこうして穏やかに暮らせるのなら、それ以上望むことなど何もないよ。私はこの斉の地に骨を埋められれば満足さ」
ぬくぬくとした暮らしに幸せいっぱいという顔でそう言う重耳を、複雑な表情で見ている人が居た。重耳の妻となった桓公の娘、姜氏である。
――この人は、これでいいのかしら。
勿論、姜氏とて今の生活に不満があるわけではない。夫とともに苦労なく暮らせる今は、確かに幸せではあった。
しかし、こうして今の幸せに満足しきっている重耳を見ると、一抹の不安に襲われるのである。
重耳は亡命中とはいえ、れっきとした晋の公子である。
晋の内乱は献公の死後、驪姫とその子が臣下の手で殺されるという結末を迎え、今は重耳の弟、夷吾が君主の位についたとはいえ、即位以降、夷吾には良い噂が無く、国は安定していない。
そんな故国の状況に目をつぶり、ここで安穏と暮らしていることが、本当にこの人の為なのだろうか。
姜氏の懊悩は深まるばかりだった。
重耳が斉を訪れて一年、桓公が亡くなった。
覇者桓公を喪った斉は覇権を弱め、天下が再び荒れ始める。
そんなある日、姜氏の許へ一人の下女が駆けこんできた。
「大変でございます」
慌てふためくその下女は、手に桑の葉を詰めた籠を携えている。
「先程、私が桑の木に登って葉を摘んでおりましたところ、木の下で公子の従者様達が密談を始めたのでございます」
どうやら、重耳の従者達は木の上に下女がいることに気づかずに内密の話をしてしまったらしい。下女は声を潜めた。
「従者様達は、公子をこっそり連れだしておしまいになるつもりですよ!」
まるで恐ろしい企みでも聞いたかのように、下女は言う。
姜氏は重耳の従者達を思い浮かべた。
最近、斉での生活に甘んじている重耳を見て、彼らは良い顔をしていない。
桓公が亡くなり斉の覇権が弱まったのを見て、重耳の帰国の為には斉を出た方が良いと考え始めているのには、姜氏も気付いていた。どうやら何度か、重耳本人にも斉を出るように言っているようではあるのだが。
――当の本人が、あれでは。
平穏な暮らしに安穏としている重耳を思い浮かべて、姜氏は溜息を吐いた。
「奥様?」
下女が怪訝そうに姜氏の顔を覗きこむ。姜氏ははっと意識を戻した。
「ああ……わかりました。どうすべきかは私が考えます。下がっていいわ」
「はい」
下女が出ていく。暫く考え込んでいた姜氏は、側仕えの腹心を呼んだ。
「あの下女を殺しなさい」
そっと命令する。
「従者達の話が君公のお耳に入れば、公子の足止めをしようとなさるかも知れないわ。誰にも漏れないうちに、口を封じてしまうのです」
「畏まりました」
姜氏は決意していた。
桓公亡き後の斉にはもう、重耳の帰国を助けるほどの力は無い。今のうちに斉を出るのが、重耳の為である。
姜氏は重耳の元へ行き、告げた。
「従者達は、あなたを斉から出そうとしています。それを聞いていた者は、私が消しました」
目を見開く重耳に、はっきりと言う。
「従者達に従うべきです。あなたが乱を逃れて国を出てからというもの、晋の国には一年として安寧な歳は無く、安定した君主もおりません。天はまだ晋を滅ぼしていないのに、晋の公子はあなたしか残っていないのですよ。晋を保つのはあなたでなくて誰だというのです?お行きなさい。天命に叛けば災いを被ることになりますよ」
重耳は渋い顔をした。彼は心底、斉での生活が気に入っているのである。
「私は動かない。ここに骨を埋めると決めたのだ」
姜氏は苛立ちを覚えた。
安穏とした生活ができればそれでいいなど、まるっきり庶民の生き方である。何人もの従者達を抱える公子が帰国の志を忘れて自分一人の安寧を選ぶなど、許されることではない。
姜氏は深く息を吐くと、諭すように言った。
「いけません。斉の国にはもう力がなく、晋の国の乱れはもう長く続いています。従者達の謀は忠義です。あなたが帰国できる日が近づいているという事ですよ。君主となって民草を安んじる機会があるのにそれを捨てれば人でなしですわ」
知らず、姜氏の語気は強くなる。
「弱ったこの国に居てはいけません。時を失ってはいけません。従者達の忠誠をないがしろにしてはいけません。目先の平穏に甘んじてはいけません。早くお行きなさい。晋の公子はもうあなたしかいないのですから、あなたが晋を元に戻すのです。こんなところで安穏としていてはなりません」
切々と語る姜氏に、重耳は苦い顔をしたままである。
彼にしてみれば、理由はどうあれ、妻に出て行けと言われているに等しい。彼は斉での生活を気に入るのと同様、姜氏のこともちゃんと愛していた。その相手にこうまで言われては、面白くないのが人情である。
重耳は横を向いた。
「私は出て行かない」
それだけ言い捨てて、会話を打ち切る。
姜氏は唇をかみしめた。
あまりぐずぐずしてはいられない。従者達の動きが斉公の耳に入れば、重耳は斉から出る機会を逃してしまうのだ。
再び考え込んだ姜氏は、密かに重耳の従者である狐偃を呼んだ。
それから間もなく、姜氏は酒宴を設けた。自ら酒器を持ち、重耳に酌をする。
「さあ、もう一杯。今宵は思うさま飲んでくださいませ」
勧められるままに、重耳は杯を重ねる。
「なんだ姜氏、今日は随分機嫌が良いな」
「ふふ、やはりあなたと一緒に居るのが一番の幸せですわ」
にこにこと笑って酒を注ぐ姜氏に、重耳の気分も上向く。
上機嫌に酒を呷る重耳は、姜氏の瞳の奥に湛えられた悲哀に気づくことは無かった。
やがて、しこたま酒を飲んだ重耳は酔い潰れた。姜氏の報せを受けた従者達がやってきて、重耳を担ぎ出し、車に乗せる。
振り向いた狐偃が、姜氏に深々と頭を下げた。
姜氏は口を開こうとしたが、結局何も言えずに、去ってゆく車を見送った。
「行ってしまった……」
一人になり、呟くと、頬を微かに温かい雫が伝った。
目を覚ませば、重耳は怒るだろう。きっと、狐偃を叱りつけ、姜氏を怨むに違いない。
けれども、その後、帰国へ向かって歩き出してくれれば、それでいい。
自分のこの行動が、重耳の、そして晋の国の為になるなら、それでいいのだ。
夜の闇を見詰めながら、きっと二度と会う事はできないだろう夫の姿を思い描いて、姜氏は静かに涙していた。
斉の国を出ようとひた走る集団の背を白んだ空が淡く照らす頃、重耳は目を覚ました。
一瞬、自分が何処に居るのかわからなかった。
昨夜、自分は姜氏とともに酒を飲んでいた筈だ。どうやら酔い潰れてしまったようだが――
未だはっきりしない頭でそこまで考えた重耳は、漸く全身に伝わる振動を認識した。
車に乗っているのだ。
そう判明した瞬間、重耳は飛び起きた。
車を囲むように、従者達が走っている。周囲の風景は、既に斉都のそれではなく、郊外の野であった。
「舅犯(※狐偃のこと)――」
重耳は叫んだ。
謀られたのだ。酔い潰れた重耳を斉から連れ出した首謀者は、狐偃に違いない。
重耳の声に反応して、車が停まる。重耳は傍にあった戈を掴むと、車から飛び降りた。
「舅犯!」
喚きながら、狐偃目掛けて走る。狐偃は重耳の手にある戈を目にすると、迷わず逃げ出した。
「待て!」
重耳は戈を持ったまま狐偃を追う。
奇妙な追いかけっこになった。しかし当人たちは至って真剣である。
「勝手になんということを――」
怒りの冷めやらぬ様子で狐偃を追いかけながら、重耳は叫んだ。
「これでもしも成功しなかったら、私はお前の肉を喰っても飽き足らないぞ!」
叫びながらなおも追うが、狐偃の足は意外と速い。軽々と逃げながら、飄々と答えた。
「もしも公子が成功なさらなければ、私はどこで野垂れ死ぬかわかったものではありません。野の獣たちと争って私の肉を喰うおつもりではありますまい」
ひょいと野の石など跳び越えて、言葉を紡ぐ。
「またもしも成功なさったなら、公子は晋の旨いものをいくらでも召しあがれるようになるではありませんか。私の肉など生臭くて、喰えたものではありませんぞ」
ふっと、重耳の頭が冷えた。
狐偃はなにも、重耳が憎くて、或いは斉での生活に不満があって重耳を連れ出したわけではないのだ。彼は重耳が故国で君主の位につけることを望み、失敗すれば諸共に野垂れ死ぬことを覚悟の上で、今ここにこうしている。
そしてそれは、他の従者達も。
重耳は足を止めた。
白々と明け始めた空を仰ぎ、溜息を吐く。手に持っていた戈を投げ出し、座り込んだ。それを見た狐偃が、逃げるのをやめて歩み寄って来る。
「気はお済みになりましたか」
穏やかに言う狐偃に、重耳は小さく頷いた。空を見上げたまま、呟くように言う。
「……姜氏も、一枚噛んでいたのか」
昨夜、やけに上機嫌で酒を勧めてきた妻の顔が脳裏に浮かぶ。
「はい」
狐偃は簡潔に答えた。多くの言葉を費やす必要は無いと思えた。
重耳は、そうか、と呟くと、寸時目を閉じた。まるで斉での生活を偲んでいるようでもあり、姜氏との訣別を傷んでいるようでもあった。
目を開いた時、重耳はもはや東を見てはいなかった。
「行こう」
立ちあがり、狐偃の顔を見ずに言う。
「晋まで、まだ道は遠い」
「はい」
狐偃は静かに答えた。
東の空から、太陽が昇る。それに背を向けて、一行は再び流浪の旅へと身を投じた。
数年の後、重耳は晋の隣国、秦の力を借りて国に帰り、即位した。
あの日姜氏が断腸の思いで送り出した彼こそ、周王室の内紛を収束させ、南方の大国楚を破り斉の桓公に続く覇者となった、晋の文公である。