09.G.W.それぞれの再会(3)
耕平は成田からニューヨークを経由してボストンに到着した。
自宅を出てから丸一日ががりの長旅は時差もあってさすがに身に堪える。
ホテルに着くと直ぐにベッドに潜り込んだ。仮眠のつもりが朝までぐっすり
眠ってしまった。
ブラインドを開けると朝の眩しい光が飛び込んできた。
眼下に見慣れたダウンタウンの景色が広がる。澄み切った青い空にボストン・
コモンやパブリックガーデンの緑がひときわ目立つ。いたるところに古き良き
アメリカの文化と歴史が残るこの街が耕平は好きだ。
身支度を整えルームサービスで軽い朝食を取った後、ボスジェネラルへと
向かった。立ち寄ったナースステーションで顔見知りのナースたちから一通りの
歓迎を受けた後、健介の病室を訪ねたが彼の姿はなかった。
健介は屋上の隅からとチャールズリバーの方向をじっと見つめていた。
彫りの深い端正な横顔は苦渋に満ち人を寄せ付けないような孤独感に
覆われている。すぐに声をかけるのが躊躇われ耕平も同じ景色に目を遣った。
川面に色とりどりのセーリングボートが浮かび遊覧船がゆっくりと行き交う。
対岸にはハーバード、MITを有する学園都市ケンブリッジを臨む。
絵葉書でよく見かけるボストンを象徴する風景である。
「ケン、しばらくだったね」
「先生!? いつ、こっちに?」
「夕べ遅く… 沢村から聞いて驚いたよ。大変だったな」
「大変だったのはメグの方ですよ。俺は三ヶ月ずっとベッドの上で休眠してた
だけですから…」
健介はさらりと言った。
さっきまでの翳りの色がすっかり消えいつもの明るい表情に戻っている。
その明るさが反って耕平をいたたまれない気持ちにさせた。
「彼女、元気にしてる?」
病室にも健介のそばにも亜希の姿がないのが気になっていた。
「ええ… でも、ちょっと頑張り過ぎてるからリズのところへ休養に行かせ
ました。ああいう性格だから俺には見せないけど、心も身体も相当まいってる
はずです…」
伏し目がちに話す健介の表情が少し曇った。
「どう、リハビリの方は、順調?」
「ええ、明日からADLの訓練に入ります」
「そうか… 君なら、きっとそんなに時間かからないだろうな…」
言葉を選んだつもりだが、耕平は軽薄な事を言ってしまったような気がした。
「彼女、まだ、知らないんです…」
「……」
「一生、車椅子の生活になること」
健介は天を仰ぐように宙を見据えた。
「ケン…」
「分かってます。誰をおいてもまず、妻に真実を告げるべきだってことくらい…
けど、俺たち結婚してまだ一年にもならないんですよ。彼女まだ二十八ですよ。
これから何十年もの長い人生、不能の夫の世話をしながら生きて行くなんて
残酷なこと… 先生なら、言えますか?」
「……」
「たとえ事実を知っても、彼女は感情を露わに泣き叫んだり、半身不随の夫を
見捨てて逃げ出すような女じゃない。悲しみも苦しみも辛さもあの細い身体の
中に閉じ込めて、一生、優しく夫の世話をする女なんです。だから… だから、
言えないんです! 彼女の笑顔や優しさが、たまらないんです…」
健介は絶句した。
耕平は何も言えなかった。かける言葉が見つからなかった。
健介は、障害受容という自らの苦悩だけでなく、患者や同僚の前で醜態を見せられ
ないという医者としての苦悩、愛するが故に妻に真実を告知できない夫としての
苦悩、それらすべての苦悩を身内に封じ込め、これまで悶々と闘病生活を続けて
来たのだろう。
おそらく、人前で初めて見せる男の涙を耕平は黙って見守るしかなかった。
* * * * * * *
ボストン・コモンは、午後のひと時をのんびりと過ごすボスト二アンや観光客で
賑わっていた。初夏のような陽気のせいか、噴水の周りでは上半身裸になった
子供たちが大きな歓声を上げ水遊びに興じている。
亜希はそんな光景をにこやかに眺めていた。
「よう、久しぶり! 待った?」
「ううん…」
少し痩せたようだが表情は明るい。もっとやつれた姿を想像していた耕平は
安堵した。
「今日は亜希、いや、メグの好きなもの何でもご馳走するよ」
「亜希でいいわよ。耕平さんには、いつまでもそう呼ばれていたいもの」
はにかむような笑顔を見せた。
「大変だったな…」
「うん… でも、一番辛いのは本人だから。ケン、人前じゃ絶対弱音吐かない
けれど…」
「そうだな…」
耕平はそれ以上何も言えなかった。
「ロンドンへはお仕事?」
「いや、野暮用だ」
ここへ来るために、仕方なく杏子とヨーロッパへ行くとは言えない。
明日、それぞれロンドンへ発ちホテルで合流することになっている。
耕平は気が重かった。杏子と呑気に新婚旅行をするような気分にはとても
なれない。
「耕平さん、よかったね…」
「?…」
「…子供たちといっしょに暮らせるようになって」
「どうして、知ってるんだ?」
「沢村先生から聞いたの」
「そうか、そうだったのか…。」
耕平は何か納得したような表情を浮かべた。
亜希から堅く口止めされていると、沢村は健介のことを最初は黙っていた。
杏子との結婚を知った、彼女らしい気遣いだったのだ。
「舞、もう三年生になるのね、大きくなったでしょうねぇー
おしゃまな姿が目に浮かぶわ…」
遠く見つめる亜希の口元から微笑が零れる。
「ああ、すっかり生意気になって先が思いやられるよ…」
最近の娘の言動が頭を過ぎり耕平も思わず苦笑した。
二人は暫く無言のまま、水しぶきを上げて元気に遊ぶ子供たちに優しい
眼差しを向けていた。




