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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
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08.G.W.それぞれの再会(2)

新緑の季節を迎えたケープ・コッドの街は、白い家並みに鮮やかな木々の緑が

映え生き生きとした表情を見せている。三月にはまだ硬く蕾を閉じていたリズの

庭の薔薇たちも、辺り一面に芳香を漂わせ大輪の花を咲かせている。


「本当によかったわね。一時はもう、どうなることかと心配で心配で…

本当によかったわ…」

健介の意識回復を喜び、リズは目頭を押さえながら何度も『良かった』を繰り

返しめぐみを出迎えてくれた。

二か月前、早春のケープはまだ肌寒く冬枯れの季節を引き摺っていた。

先の見えない不安から彼女の心にも暗雲が立ち込めていた。だが今は、雲の

切れ目から少しづつ希望の光が零れている。

健介はセラピストが驚くほどのスピードでリハビリのメニューをこなし、順調な

回復を続けている。この分だと車椅子から歩行訓練、そして退院にもそう時間が

かからないかもしれない。めぐみの心は、この爽やかな五月の空のように晴れ

晴れとしていた。


「さあさあ、今日は二人でゆっくりアフタヌーン・ティーを楽しみましょう」

リズはめぐみをリビングルームの中に促した。


「わぁ、ほんとに素敵! ギャラリーで見た時よりも色が生き生きとしてるわ」

50号の油絵に思わず感嘆の声を上げた。

「でしょう、この部屋の雰囲気にぴったりだって、ゲストにもとても好評なのよ。

メグには、もしかしたらピアノだけじゃなくて絵の方の才能もあるんじゃないか

しらね」

「そんなこと…」

めぐみは否定したが、リズの褒め言葉は嬉しかった。

自分に絵の才能があるとはとても思えないが、絵を見る事は昔から好きだった。

小さい頃、父に連れられてよく上野の森に行ったせいかもしれない。

父は幼い娘を動物園でも遊園地でもなく美術館に連れ出し、絵の前に立たせ

一つ一つ詳しく解説した。子供心に変な父親だと思っていたが、今ではそれが、

早逝した父との数少ない想い出の一つになっている。


「素敵な絵を鑑賞しながら、ゆったりと味わう午後の紅茶、あとは…

音楽があれば、まさしく至福の時ね…。」

そう言いながら片目を瞑って見せた。

リズのリクエストに応じるようにめぐみは窓際のピアノに向かった。右手の

指の麻痺はスローテンポの曲ならば以前のように弾けるまでに回復している。

清く澄み切ったハ長調の美しいメロディーが『リズの家』の中に静かに流れた。



「ミセス・バーミンガハム、取り付け完了しました。ここにサイン

お願いします!」

曲が終わると同時に、額に汗をした青年が二階から降りてきた。

「ご苦労さま、今日は一人で大変だったわね」

リズは青年に冷たいコーラーを手渡した。彼は旨そうに一気に飲み干すと

帰り支度をはじめた。

「あ、ちょっと待って。マッフィンが今焼き上がったところなの。よかったら

また持って行く?」

「うわっ、うれしいなあ~ あざーっす!」

青年は本当に嬉しそうな表情を浮かべた。

「お礼なら、メグに言ってちょうだい。彼女の大好物だから、こんなにたくさん

作ったのよ」

青年は笑顔でピアノの方に向かってぺこりと頭を下げた。

めぐみは「とんでもない」と言うように手を振り、彼に微笑み返した。



* * * * * * * 



「ケン、明日からいよいよADLの訓練に入るわよ」

「お手柔らかにたのむよ、ジェニー」

健介は笑顔で応えた。


ADL(日常生活活動)の訓練は、食事・入浴・更衣・排泄など日常生活の

自立を目指すものである。障害者が車椅子を自由自在に操作し基本的な

日常生活が介助なしで自力でできる事を目的としている。

ADLの自立には、個人差はあるが、おおよそ対麻痺で三ヶ月、四肢麻痺で

六か月の訓練期間が必要とされている。


セラピストに見せた笑顔とは裏腹に、健介の心は重く沈んでいた。

リハビリを続ければきっと歩けるようになると信じ、励ましてくれるめぐみに

どうしても真実を言い出せないでいる。

感覚知覚機能を失ったとは言え、全く何も感じないわけではない。

時には痺れなどの異常知覚や、肢体切断の場合と同様に本来感じるはずのない

痛み、ファントムペイン(幻肢痛)を感じることがある。また、痺性と呼ばれ

動かせないはずの筋肉が本人の意思とは関係なく、突然強張ったり、痙攣を

起こすこともある。

それらの現象を機能回復の兆しかもしれないと一喜一憂する妻に、夫は生涯

不具の身だという事実を突きつけるのはあまりに残酷過ぎる。




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