06.別れてもなお(2)
沢村と新宿の駅で別れた後、耕平は代々木公園に足を延ばした。
ついこの間まで満開だった桜も、今はすっかり葉桜になっている。
絶好の行楽日和とあって園内は家族連れで賑わっていた。このベンチに座り、
五分咲きの桜を眺めていたのが、つい昨日のことのような気もするし、遠い
昔のような気もする。耕平は静かに目を閉じた。
憂いを含んだあの綺麗な横顔が、今もはっきりと瞼の裏に焼き付いている。
いったい、いつになったら亜希に本当の春は訪れるのだろう・・・
沢村の話す健介の事故の一部始終には思わず耳を塞ぎたくなった。
三十路前の女が、半世紀以上もある残りの人生を半身不随の夫とともに
生きていく・・・ それを運命という一言で片づけるには、余りにも非情で
残酷過ぎる。
耕平がボスジェネラルを辞め、帰国を決心したのは亜希との決別のためでも
あった。愛する伴侶と新たな人生を歩み始めた彼女に、元亭主は無用の長物で
しかない。二度と彼女とは会わないつもりで日本に戻ってきた。たが、亜希の
近況を知った今、彼の心は大きく揺らいでいる。
アメリカは身体障害者に対する社会の制度も意識も日本に比べ、はるかに
先進国である。社会復帰への道も開かれ多種多様な職場で健常者とともに働く
障害者の姿を目にする。公共施設はもちろん商業施設にも必ず障害者用の設備が
完備されている。耕平はアメリカ生活を通して、日本が障害者に対していかに
後進国であるかを痛感させられた。
健介の医者としての社会復帰は十分可能だろう。が、問題はそこに至るまでの
プロセスにある。身体の自由を奪われた患者がまず直面するのが『障害受容』
である。つまり、現実を直視し『自分はこの身体とともにこれから生きていく』
という事実を完全に受け入れること。これがなければ前には進めない。
だが、そこに至るまでの道のりは並大抵ではない。
本人はもちろん家族は、絶望・希望・失望…という心のローラーコースター
に乗りながらいくつもの難関を突破しなければならない。
亜希は夫とともにこの難関を乗り越えて行くことができるのだろうか・・・
心と体にのしかかる重圧に押しつぶされはしないだろうか・・・
* * * * * * *
「勇樹こっちへおいで、お土産だぞ」
リビングの隅で一人遊びをしている息子に声をかけた。
とことこと歩み寄ってきた勇樹は父親からデパートの包みを受け取ると、また
すぐ元の場所に戻って行った。
赤ん坊の時に両親に放っておかれたせいか、二歳を過ぎても言葉数が少なく、
表情もあまり豊かではない。パパ、パパと、いつも耕平に纏わりついていた
亮と、つい比べてしまい何か物足りないような淋しさを感じる時がある。
「舞は?」
「お友達の誕生会のプレゼントを買いに出かけたみたい」
杏子はカウチに寝そべりながらファッション雑誌を捲っていた。
「これ、君から舞に渡してやってくれ」
耕平は紙袋から大きな包みを取り出した。
デパートを駆け巡ってやっと見つけたピンクのクマだった。
「こんなの良くみつけてきてわね。でも、私からだと、あの子絶対に
受け取らないわよ… まっ、やってみるけど」
面倒くさそうにぬいぐるみを受け取ると、またカウチに寝そべった。
「なぁ、きのう言ってた話だけど…」
耕平は本題に入った。
「…思い切ってヨーロッパ、行ってみるか?」
「えっ? ほんとに?」
杏子は信じられないと言うようにカウチから飛び起きた。
「沢村、奥さんの出産で今月いっぱいこっちにいるらしい。それで、
代わりにボストンの学会に出席することにしたんだ。俺が二、三日早く
成田を発って、ロンドンで落ち合うってのはどうだ?」
帰りの電車の中で考えて口実だった。
「それ、いいわね。私もニューヨークで片づけておきたい仕事があるから、
ちょうどいいわ。ロンドンで待ち合わせなんて、耕平にしては、ずいぶん
ロマンティクな発想じゃないの」
耕平の思惑とは違うが、夫とのゴージャスなハネムーンを期待しているのか、
杏子は満足げに彼の提案を受け入れた。