44.短くも美しく燃え
「あら、今日はひとり? やさしい旦那様は一緒じゃないの?」
「ええ、急に大事な用ができちゃって…」
「へぇ、ドクター・アリーガにも愛妻より大切なものがあるんだあ~」
抗癌剤のセットをしながら顔見知りのナースが冷やかすように言った。
今朝めぐみを病院まで送ると健介はそのままニュー・ハンプシャーへ向かった。
寒気団がニューイングランド地方を南下し北部の州ではすでに昨夜から雪が
降りはじめていた。ボストンも朝から小雪が舞い昼過ぎからは吹雪になる予報
が出されている。治療に付き添いアパートまで一緒に戻ると言い張る健介を
説得し病院前で別れた。
「メグ、一人で本当に大丈夫か? 吐き気は? 熱、ちゃんと計ってるか?」
妻を心配する夫は繁茂に電話をかけてくる。
「大丈夫! 吐き気も頭痛もなくて、前回よりずっと楽だから」
「なら、いいけど… 雪は? そっちもだいぶひどくなってきただろ?
部屋の温度が下がったらヒーターをマックスにするんだぞ。それと…」
「ケン、そんなに心配しないで。それよりそっちはどうなの?」
「帝王切開になるかもしれない…」
「そう、大変ね… こっちは本当に大丈夫だから、もうそんなに電話かけて
くれなくてもいいよ」
二重の心労を重ねる夫を気遣った。
「オペ室に入ったら電話できないから、調子悪くなったり変わったことが
あったら、すぐジョイスに知らせるんだぞ」
「わかってる。 ケン…」
「ん?」
「無事に生まれること、祈ってるね」
「メグ… 愛してるよ」
「わ、た、し、も」
窓際の揺り椅子にもたれ吹雪きはじめた灰色の空を眺めた。
妻の体調を気づかい何度も電話をよこす夫のやさしさが嬉しかった。
微熱のため熱っぽさと倦怠感はあるものの苦痛はまるで感じない。
この躰の火照りは熱のせいばかりではないかもしれない・・・
昨夜のことがふと頭を過ぎりめぐみの口元から恥じらうような微笑が零れる。
健介と再び一つに結ばれた悦びが身も心も温かく満たしてくれる。
心地良い眠気に誘われ、めぐみはそのまま深い眠りに落ちていった。
* * * * * * *
「ジョイス、こんなに朝早くからすまない。メグの携帯が繋がらないんだ。
ずっと電源切れの状態になってて…」
「え? 昨夜の吹雪でボストン市内の一部の地域で夜中に停電になった所が
あるらしいわ…」
「停電?」
「ええ、まさかとは思うけど… とにかくこれからアパートに行ってみるわ」
「じゃ、悪いけど、たのむよ」
電話を切ると急に胸騒ぎがした。
もし停電にでもなればアパート内のヒーティングシステムは遮断される。
停電の長さにもよるが、暖房なしでは室温は零度近くに下がる可能性がある。
抗癌剤で免疫力の低下している時に風邪でも引けば直ぐに肺炎を併発する。
もう間もなく帝王切開のオペが始まる。だが、彼の心はもはやここには
なかった。師長からの連絡を待ちきれず健介はジェニーの病室を飛び出した。
ジョイスがアパートの管理人にマスター・キーでドアを開けてもらうと、
携帯電話を握りしめためぐみが床に倒れていた。血圧低下が著しくほとんど
意識のない状態でボスジェネラルのERへ搬送された。
健介の胸騒ぎが現実のものとなった。
暖房の切れた部屋で眠ってしまっためぐみはウィルス性の肺炎を発症した。
免疫力の低下した体内でウィルスは猛威を振るい急激な敗血症を引き起こした。
敗血症は細菌感染症が全身に波及したもので、進行すると心不全、呼吸器不全、
腎不全など多臓器不全を合併し致命的になる。
* * * * * * *
「ケン、残念だがすでにDICを合併している」
「開胸オペは?」
「心臓外科とも話し合ったが、もう、とても…」
主治医のゴードンは、為す術がないと言うように静かに首を横に振った。
感染症に対して有効な抗生物質が投与されためぐみは集中治療室に移され
何とか意識を取り戻した。が、心機能の低下が激しく危篤状態にあった。
健介がICUに駆けつけた時には苦痛を和らげるため、すでにモルヒネが
投与されていた。
わずか二日前、この病院のエントランスで元気に手を振っていた妻は
瀕死の状態でICUのベッドに横たわっていた。モルヒネによって
苦痛からは解放されているが、意識が混濁した状態がずっと続いている。
あまりにも変わり果てためぐみの姿に健介は愕然となった。
「ケン?…」
枕元の夫に気づいためぐみは、何か言いたげに酸素マスクに手をやった。
「ごめんよ、メグ、一人で心細かったろ。もうどこへも行かない、ずうっと
そばにいるからな」
マスクを外してやり妻の髪を愛おしむように撫でた。
「胸、苦しくないか?」
「ううん… 雲の中にいるみたいに、ふわふわしてる… 夢、見てた…」
「どんな夢、見てたんだ?」
「ケープの砂浜を、二人で、手をつないで、歩いてるの… ケンはちゃんと、
自分の足で、歩いてるの…」
めぐみの表情が穏やかに和らぐ。
「そうか、約束したもんな。俺は自分の足で歩いて、メグは元気になって、
二人で秋の海を見に行こうって…」
健介は妻の手を握りしめ自分の頬にあてた。
めぐみは安心したようにまたスーと眠りに落ちていった。
「ケン…」
「ん、どうした?」
「ごめんね… げんきに、なれなくて…」
か細い声で言うと苦しそうに喘ぐような息を洩らした。
「しっかりするんだ、メグ! 元気になれる、絶対元気になるんだ!
元気になって、秋のケープへ一緒に行く約束だろ!」
めぐみは力なく首を左右に動かした。
「ごめん… やくそく、まもれそうに、ない… もっと、もっとずうっと、
あなたと、いたかった… でも、もう… ムリ、みたい…」
めぐみの頬に幾筋もの涙が伝わる。
「ダメだ、メグ! 頑張るんだ、俺を一人にする気か! そんなの、
そんなの絶対、許さないぞ…」
健介の目からも涙が溢れた。
「生まれ、かわったら… また、奥さんに…して、くれる? こんどは…
げんきな、からだで… ケンの、赤ちゃん、産める… じょうぶな、から、
だ、で…」
力尽きたようにめぐみは静かに目を閉じた。
「メグ!メグ! メグっ!!……」
健介は妻の名を必死で叫んだ。
夫の懸命な呼びかけに応えるようにめぐみの唇が最後の力を振り絞り、
「あ、い、し、て、る…」と動いた。
モニターの波形が一直線を描き、心肺停止を告げる無機質な電子音だけが
しーんと静まり返った集中治療室の中に流れた。
ー了-
Samsara ~愛の輪廻~Ⅴ につづく・・・




