41.退院(1)
二月最後の週をむかえた。
二度目の寛解導入法の治療から三週間が経過し、いよいよ今日『完全寛解』か
否かの結果が出る。
「なんだか、入試の合格発表を待ってるような、イヤ~な気分…」
朝一で骨髄穿刺の検査を受けためぐみは、落ち着かない様子で病室の中を
うろうろしている。
「大丈夫、あんなに辛い受験勉強をしたんだから、絶対に合格してるさ。
でもな、もし、もしダメでも…」
「ケン、心配しないで、もう前みたいにはならないから。たとえ三浪、四浪
しても絶対合格してみせる! その覚悟はできてるから」
めぐりはきっぱりと言った。
生への意欲を取り戻した彼女の精神力は健介が驚くほど強くなった。
一般病棟に戻ってからは体力の方もめきめきと回復し体重が増え血色も良く
なっている。今回の抗癌剤では脱毛の副作用は全く現れず、彼女の髪は
元通りになっていた。
「おめでとう、メグ! みごと 〝CR” だよ!」
主治医のラリー・ゴードンが親指を高々と掲げ病室に入って来た。
「当然の結果よね。あんなに頑張ったんですもの」
背後に控えた師長のジョイスは満面に笑みを湛えた。
「ありがとう、皆さんのおかげです…」
めぐみの目から涙が溢れた。
無言で妻の身体を抱きしめる健介の目にも光るものがあった。
完全寛解(CR)になると正常な血液細胞が回復し白血病による症状は
ほとんど見られなくなる。だが、骨髄や血液中に白血病細胞が認められ
なくても体内には一億以上が残存しているとされている。
白血病は完全寛解の状態が三年以上続けば再発の可能性は少なく、五年
以上で治癒したとみなされる。そのため残存白血病の根絶には寛解後に
も更なる治療が必要となる。
寛解後治療法には、導入法と同程度の強さの治療をする地固め療法と
退院後に外来で行う維持・強化両方の二つがある。
「狭いだろ?」
「でも、やっぱり病室より生活感があってずっといいわ」
めぐみはアパートの狭いキッチンの中を嬉しそうに見回した。
退院後の寛解後療法について、すぐにワシントンへ引越し向こうの病院で
治療を受けるか三月中はボストンに残りここでの治療を続けるか、めぐみは
最後まで迷っていた。だが結局ボスジェネラルでの外来通院による治療を
選んだ。三月いっぱいボストンに残ることは夫への配慮でもあった。
三十五週を迎えたジェニーは、いつ出産がはじまっても良い状態になっている。
彼女は帝王切開を頑なに拒み父親立ち会いによる自然分娩を望んでいる。
生まれてくる子供に対して責任を感じている健介の気持ちを思い、めぐみは
ワシントン行きを延期した。
「今日は、ケンの好きなものいっぱい作るね。何が食べたい?」
「ダメ、ダメ! 完全寛解は完治じゃないんだ、無理は絶対ダメだからな」
「分かってる。でも、明日から二、三日はまたゾンビみたいになっちゃうん
でしょ。今日くらい何か美味しいもの食べとかないと…」
めぐみは冷蔵庫を開け食材を物色した。
通院による抗癌剤投与は隔週でおこなわれる。月曜の午前中外来で二時間ほど
の点滴による治療を受けた後、持ち運び可能なCDケースのようなサイズの
ボックスにセットされた抗癌剤を鎖骨の下に留置された中心静脈カテーテル
から入れ、そのまま帰宅し二日後に再び来院して取り外してもらう。
自宅での二日間は個人差はあるが、吐き気や発熱などの副作用が伴うため
安静にベッドに横たわることになる。
「じゃあ、俺が腕をふるうよ。フレンチのフルコースってのは、どう?」
「う~ん… やっぱ、マックのバーガーセットでいいや」
「こいつ、言ったな!」
狭いアパートの中に二人の楽しそうな笑い声が響いた。
* * * * * * * *
携帯を握りしめた純一はまるで悩めるハムレットのようにアトリエの中を
行ったり来たりしている。
パリのコンクールに出展した『春の海辺』ーー 彼女を想い彼女のために
描いたあの絵が新人賞に入賞した。
この喜びをどうしても彼女に伝えたい。だがあの日、逢うことが叶わない
ならせめて声だけでも聞きたいという純一にめぐみは静かに首を横に振った。
--「純一くん、私、あなたのことが好きよ。でも…
主人を愛しているの。だから、あなたとはもう逢えない。
二度と逢ってはいけないのよ…。」--
別れ際に残しためぐみの言葉が耳元から離れない。
人妻でありながら夫を愛していながら、自分の想いに応えてくれた彼女を、
愛する人を、これ以上苦しめるようなことはすべきではない・・・
窓際に立ち眼下に広がるケープの海に目を遣った。荒々しい白波が海岸を
打ちつけている。静かな秋の海の静寂と長閑な春の海の平穏の狭間にある
冬の海の厳格な姿がそこにある。
純一は静かに目を閉じた。
暗闇の中にあの美しい立ち姿が現れ彼の名を呼び優しく微笑みかける。
甘い声の響き、柔らかな肌のぬくもり、髪の匂い、息遣い・・・
愛おしい人のすべてが五感の中に鮮やかに甦る。
人は人をこんなにも愛せるものなのか、人を愛することはこんなにも
苦しいものなのか・・・
いったいどうすれば、この狂おしいほどに切ない想いを断ち切ることが
できるのか・・・




