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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
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40.再治療(3)

先週まで降り続いた雪がすっかり止んだ。

ボストン市内はどんよりした灰色の空から一転し、久しぶりに冬の晴天と

なった。無菌室の小さな窓からも綺麗な青空が顔を覗かせている。


「あと二日の辛抱よ。よくここまで頑張ったわね」

「…」

ベッドに横たわったまま空を見つめているめぐみはジョイスの言葉に力なく

頷いた。

予想通り今回の抗癌剤の威力はすさまじく白血病細胞を強力に死滅させると

同時に、正常な白血球にもかなりの打撃を与えている。赤血球の減少に伴い

貧血状態が悪化しトイレへの移動中に何度か倒れそうになった。その時に

打ちつけた個所が紫斑となって白い肌にくっきりと浮かんでいる。

ここ数日、息切れや動機が激しくなり酸素マスクが外せなくなっている。

何とか気力は保っているが五日間の治療でめぐみの体力は限界に近づいていた。


「もうすぐ 〝ドクター・T” のお出ましよ」

ジョイスは腕時計を見た。

〝ドクター・T” とは、毎日時計のように正確に面会時間に姿を現す耕平の

ことである。アメリカ人にはタカムラの発音が難しいらしく、彼はナースや

職員の間で ”ドクター・T” と呼ばれていた。


「ケンはあなたのことが心配で心配で毎日何度も私の携帯に電話かけてくるし、

メグは本当に幸せ者よ。あんなに優しくて素敵な 〝旦那さまたち” に

愛されて…」

師長はこの病院の中で、めぐみと耕平が元夫婦であることを知っている数少ない

一人だった。そして今回、健介が面会に現れない本当の理由を知っている唯一の

人物でもあった。



主治医のオフィスに立ち寄った耕平はいつもより少し遅れて無菌室に入った。

居合わせた師長に挨拶すると、彼女は慌てて人差し指を口に当てた。

激しい嘔吐を繰り返し昨夜はほとんど眠っていなかっためぐみが、やっと

微睡ろみ始めたこところだった。


「彼女ほんとうに良く頑張っているわ。相当まいっているはずなのに泣き言

ひとつ言わないで、どんなに辛くても夜中は決してナース・コールをしない

のよ。ケンのことにしてもそう、私たちアメリカ人の女にはとてもじゃない

けど考えられないわ…」

信じられないと言うようにジョイスは首を左右に振った。

「ねえ、ドクター・T,日本人の女性って、みんな彼女みたいなの?」

「いや、彼女は特別だよ」

「でしょうね…」

納得したような表情を浮かべ師長は静かに無菌室を出て行った。


枕元にそっと腰を下ろしめぐみの細い手を握った。

点滴と注射針の跡が両腕のいたるところで赤紫色に腫れ上がっている。

血の気のない小さな顔が時おり苦しそうに歪む。白く濁った酸素マスクの

内側から荒い呼吸が洩れてくる・・・

〝元妻” の痛々しい姿に耕平の胸に熱いものがこみ上げてきた。


「耕平、さん…」

酸素マスクに手をやり、めぐみはか細い声で彼の名を呼んだ。

「ごめん、起してしまったな」

「ううん… 今、何時?」

「十時半だから… あと半時間で日本は日付が変わるな」

「覚えててくれたんだ…」

「忘れるわけないだろ、大事な高村家の長男誕生の時間を」

めぐみは嬉しそうに微笑んだ。

六年前の今日、それは亮の生まれた日だった。

あの日、激しい陣痛と産みの苦しみに耐える新妻の手を握りしめ朝からずっと

出産に立ち会っていた。誕生の瞬間の感動を耕平は今でもはっきりと覚えて

いる。

「あの時も、こんな風に私の手、ずっと握っててくれたね」

「ああ、あんまり凄まじい力なんで、俺の 〝神の手” が握りつぶされるか

と思ったよ」

右手を掲げ笑った。

「耕平さん…」

「ん、どうした?」

「私、もう一人でも大丈夫だから、早く日本に戻ってあげて…」

「おいおい、俺を追い帰す気か?」

「だって、子供たち… きっと、パパの帰り、首を長くして、待ってるよ…」

めぐみは苦しそうな息遣いをしながら言った。

「そんな心配しなくて大丈夫。舞がな、ママのそばにちゃんと付いててあげて

くれって。春休み、一緒にいろんなことがしたいから早く元気になって

もらわないと困るって、言ってたぞ」

「舞が、そんなことを…」

めぐみの瞳が潤んだ。

「さあ、少し眠ったほうがいい。ずっとここにいるから」

「ありがと・・・」

か弱い力で耕平の手を握り返すとめぐみは安心したように目を閉じた。



* * * * * * * 



健介は慌ただしく帰り支度をはじめた。

ボストンを離れてからの七日間がとてつもなく長く感じられた。

今日でめぐみの無菌室治療が完了する。合併症を発症することもなく何とか

無事に乗り切った。が、正常な血液細胞、特に白血球の減少が著しく免疫力が

かなり低下していることを主治医は懸念していた。結局、致命的な感染症を

防ぐため最後の二日間は抗癌剤の投与が中止された。


健介はニュー・ハンプシャーに来たことを後悔している。

ジェニーの妊娠中毒症は経度で、大事を取って入院したまでで切迫したものでは

なかった。担当医は母体の年齢と多胎妊娠を考慮し帝王切開による出産を勧めて

いるが、彼女はあくまで父親の立ち会いのもとでの自然分娩を強く主張して

いる。


「ケン、行かないで! 私の中にはあなたの血を分けた子供が二人もいるのよ。

とっても不安なの… この子たちが無事に産まれるまでずっと私のそばにいて。

ハニー、お願いだから一人にしないで!」

大きな腹を擦りながらジェニーは甘えるような声を出した。

「君の血圧も胎児の心音も安定している。たとえ低体重で生まれてもNICU

チームがが万全の医療体制でケアしてくれるんだから何も心配はいらないよ」

健介は諭すように言った。

「この一週間、あなたはここにいるだけで、あなたの心はまるでここには

なかった。奥さんのことがそんなに大事なの? 私やお腹の子はどうなっても

いいって言うの?!」

猫撫で声から一変しヒステリックに声を荒げた。


「いい加減にしてくれないか! 妻がどんな思いをして俺をここによこして

くれたか、彼女の気持ちが君に解るか!? はっきり言わせてもらう、俺が

ここへ来たのは君のことを愛しているからじゃない。君とあんなことになって

しまったことを心底後悔している。ただ、経緯はどうあれ生まれてくる子供には

責任を感じている。だから、出産には立ち会う。けど、子供を武器に俺たち

夫婦の間に割って入ってくるような真似だけは絶対に許さない!」

心の中で鬱積していた感情を一気に吐露した。

子供を盾に男の心を繋ぎ止めようとする女の態度にうんざりしていた。


この一週間めぐみのことしか頭になかった。辛い治療を一人で耐えている

妻に一刻も早く逢いたい、抱きしめてやりたい、褒めてやりたい・・・

健介は逸心を抑えボストンへの帰路を急いだ。










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