04.愛の奇跡(2)
健介が深い眠りから目覚めて半月が過ぎた。
長かったボストンの冬もようやく終わりを告げ、季節は日に日に春めいている。
復活祭が近づき、受付やナースステーション、病室など病院中のいたるところに
パステルカラーに染められたイースターエッグやカラフルなキャンディーの
入ったイースターバスケットが飾られている。
「食欲も出てきて、調子いいようだな」
「ああ、早くリハビリをはじめないとブクブク太ってしまいそうだよ」
ベッドに起き上がり、朝食に出されたグレープフルーツをスプーンで器用に
掬って口に運んでいる。
健介の体調は周囲が驚くほど順調に回復していた。言葉や上半身の機能には全く
後遺症は残っていない。
「本当に良かったな、ケン。けど、忘れるな、ミラクルの陰には
愛妻の献身的な看護があったことを。メグには全く頭が下がるよ。
彼女、本当に一生懸命だった」
主治医の言葉に健介は大きく頷いた。
ナースや同僚、病院関係者の誰もが口々に同じことを彼に言った。
「メグから聞いたよ。君をはじめ、みんなには心から感謝しているよ」
「なに言ってるんだ、当然のことじゃないか」
仲間のために献身的にあらゆる治療を試みてくれた同僚に深々と頭を下げた。
「エリック… ひとつ、頼みがあるんだ…」
「……」
「これからのことだけど、何もかも正直に言ってほしいんだ」
「も、もちろんさ」
それまで笑顔だった主治医の顔が、一瞬曇ったのを健介は見逃さなかった。
「カルテと写真、見せてくれないか?」
「……」
「俺も医者の端くれだ、“脊損” はとっくに覚悟してるよ。ただ、どの程度
やられているのか、早く知りたい。まっ、こうして物は食えるし両手も使える
から “Th12” より上は助かったようだが…」
無理やり笑顔を作った。
「…それと、このこと、妻には俺の口から話したい」
健介の顔からすぅーと笑みが消えた。
「分かった、これからもできる限りのことはするよ」
エリックは肩に手をやると険しい表情で病室を出て行った。
健介はベッドに身を沈めた。
同僚の前では努めて冷静を装ったが、内心かなり動揺している。
主治医の反応から、今まで半信半疑だった “脊髄損傷” がはっきり現実の
ものとなった。
脊髄のような中枢神経系は末梢神経と異なり、一度損傷すると修復・再生は不可能
である。ヒトの脊柱は上から順に頸椎(C1-7)胸椎(Th1-12)腰椎(L1-5)
仙椎(S1-5)尾椎(1)に分けられる。損傷個所が上に行くほど障害のレベルが
高くなり、損傷の度合いによって神経機能が完全に断たれる『完全型』と一部
機能が残存する『不完全型』に分かれる。健介の場合、幸いなことに上部胸椎以上
に損傷はなかったが、下部胸椎以下の損傷の程度によっては一生、車椅子の生活を
強いられることになる。
* * * * * * *
娯楽室の中に軽やかなピアノの調べが流れていた。
来週、患者や職員のためにイースターのミニ・コンサートが催される。
午前中のリハビリのセッションを終えた健介は、そっと部屋の中を窺った。
ピアノに向かうめぐみは、いつ見ても眩しいくらいに輝いている。
健介の事故以来、入院患者からの要望で彼らのために時々演奏しているらしい。
音楽は病んだ身体や疲れた心を癒してくれる。彼女自身、ここでピアノを弾く
ことで、凍り付くような絶望の淵から救われていたのだろう。
去年の今頃、ステージの上でスポットライトを浴びてピアノに向かうめぐみの
姿が脳裏に浮かぶ。あの日、会場には不治の病に侵された子供たち、車椅子の
生活を強いられた身体障害者が招かれていた。一年後、健介が彼らと同じ立場に
なる事を、あの時いったい誰が予想しただろう・・・
健介の脊髄損傷による機能障害のレベルは『L1~L3の完全型』と診断された。
下半身の運動機能と感覚知覚機能を完全に失ってしまったのである。
リハビリと訓練によって、ADL(日常生活活動)の自立は可能になるとは言え、
生涯、自分の足で歩くことはできない。この事実をめぐみにはまだ伝えていない。
医者の立場から半身不随を宣告された患者とその家族をの苦悩を、これまで何度と
なく見てきた。どんな強靭な心の持ち主でも、いざ、目の前にその事実を突きつけ
られると、それを冷静に受け止め前向きに対処することなど不可能に近い。
健介の中でも壮絶な心の葛藤が続いている。
「あ、もうこんな時間だったの。ごめんね、迎えに行けなくて」
「大丈夫、ほら、この方が腕の筋トレになっていいよ」
健介に気づいて中から出てきためぐみの前で車椅子をクルクルと回転させて
見せた。
「ダメよ、そんな無茶しちゃ!」
慌てて健介を制止した。
「大丈夫だって、言ったろ!!」
車椅子を押して病室に戻ろうとするめぐみの手を振り払い思わず声を荒げた。
「ごめん、怒鳴ったりして…」
「ううん、私の方こそ… “過保護” はリハビリには良くないんもんね。」
妻に感情をもろにぶつけてしまい、がっくりとうな垂れる夫を気づかうように
そっと車椅子から手を離した。
めぐみの優しい気遣いが健介にはかえって辛かった。
どれだけリハビリを続けても、いったん損傷を受けた神経を再生・修復させる
ことはできない。今のリハビリは残存する機能や筋力・体力を維持・継続させる
ことが目的で、どんなに頑張ってみても奪われた感覚・運動能力を甦らせる
ことはできない・・・
黙々とリハビリを続ける姿は、傍目には自らの障害を完全に受容しているように
見える。が、健介の心の中は、怒り、悲しみ、不安、焦燥、絶望・・・
ありとあらゆるネガティブな感情が鬱積し今にも炸裂しそになっている。
恥も外聞もなくわぁーと、大声を上げて泣き叫びたい衝動に駆られる時がある。
かろうじてそれを抑えさせているのは医者としてのプライドと意地、そして、
最愛の人をこれ以上悲しませたくないというめぐみへの愛情だった。