38.再治療(1)
耕平はワシントンでの学会に出席した後、勇樹の療育施設、舞の小学校の
見学など移住に向けての下準備のためボストンに向かった。
移住後の仕事は、当面は沢村の後任として再びボスジェネラルの脳神経外科に
戻ることが決まっている。杏子は結局、仕事の拠点をニューヨークに移しパート
タイムで仕事を続けることを条件に移住に同意した。母親の責任を自覚したのか
離婚を回避するためなのか、真意は定かではないが勇樹の実の母親である以上
彼女の同行を拒むことはできない。
市内のホテルにチェックインするとその足でボスジェネラルに沢村を訪ねた。
正月休暇で帰国した彼から、健介の社会復帰が決まり年明け早々ワシントンに
戻る話を聞いていた。
ワシントン滞在中、亜希の携帯に何度かけても繋がらず連絡が取れないことが
少し気にかかっていた。
「先輩に知らせようと思っていた矢先でした。AMLだと聞いて僕もほんとに
びっくりしてます…」
沢村もつい最近知ったばかりで詳しい事情は分からないと言う。
耕平は真っ直ぐ内科病棟へ向かった。
ナース・ステーションで亜希の入院を確認したものの、新入りらしい受付の
事務員は、面会謝絶で病室には入れないの一点張りで全く要領を得ない。
仕方なく血液内科の健介のオフィスのあった部屋の前まで行くと、ちょうど
中から彼が出てきた。
「ケン、大変なことになってるようだな」
「ええ、どうやら俺、先生と同じ過ちを犯してしまったようです…」
「…」
即座に健介の言葉の意味は理解できなかった。が、苦渋に満ちたその表情から
事の深刻さを察するのは容易だった。
「二度と顔を見たくないと言われても、全く弁解の余地はありません。
けど、このままだと…」
憔悴しきった様子で健介はうな垂れた。
アパートの部屋で健介はこれまでの経緯を包み隠さず打ち明けた。
最後まで黙って話を聞いていた耕平は、ふーと大きく息を漏らした。
白血病と夫の裏切りという二重苦の中で生きる気力を失い治療を拒む
亜希の心情を思うと不憫でならない。同時に、自分と同じ過ちを犯した
健介の気持ちも理解できるだけに複雑な心境だった。
「とにかく今は、再治療を受けさせることが先決だな。彼女に会って
何とか説得してみるよ」
「お願いします」
健介は深々と頭を下げた。
「あっちの方は、行かなくてもいいのか?」
耕平はさりげなく尋ねた。
最愛の妻ばかりでなく、自分の分身も生命の危機に瀕している現状は健介の
心に重く圧しかかっているだろう。
「今はとてもそんな気分には… 命の重さに差をつけるなと言われても、
メグは俺にとって何ものにも代えられない、かけがえのない存在です。
もし、もしも彼女を失うようなことになれば、俺は…」
健介は絶句した。
耕平が彼の涙を見たのは二度目だった。あの時も健介は愛する妻のために
苦渋の涙を流していた。
* * * * * * *
娯楽室の前まで来るとピアノの音が聞こえてきた。
そっと中を覗くと、車椅子の老人が人差し指で鍵盤を弾じいている。
めぐみに気づくと、老人は入ってくるようにと手招きをした。
「お嬢さん、やっと戻ってきてくれたね…」
「……」
「あんたのピアノが聴けなくてずっと淋しい思いをしていたんだよ。
〝元気” を貰っていたのは、この老いぼれだけじゃないと思うがね…」
深く刻まれた皴だらけの顔に人懐っこい笑みを浮かべた。
老人はさあ、と言うようにめぐみをピアノの前に促した。
健介が意識不明の三ヶ月、ここでピアノを弾くことで彼女自身何度も
凍り付くような絶望の淵から救われていた。めぐみは鍵盤の上に左手を
のせた。左手の指だけで奏でられるピアノ曲『希望』の力強いメロディー
が、しーんと静まり返った娯楽室の中に流れる。
右手の指の麻痺からピアノを断念しそうになった時、崇之が贈ってくれた
オリジナル曲『希望』ーーこの曲でめぐみは左手のピアニストとして見事
復活を遂げた。
十分間の演奏が終わると一斉に拍手が沸き起こった。
振り向くと大勢の入院患者がめぐみのピアノを聴きに集まっていた。
癌、白血病、脳腫瘍、心臓病、原因も治療法もないような難病・・・
皆それぞれに自らの病と闘って懸命に生きようとしている人たちだった。
再治療への不安から不幸を一人で全部背負った悲劇のヒロインのように
振る舞い、愛する人を苦しめていた自分が急に恥ずかしくなった。
「よう! 思ったよりずっと元気そうじゃないか…」
入院患者らに混じって演奏を聴いていた耕平がピアノの傍にやって来た。
「耕平さん?!」
「ケンに泣きつかれて説得役を引き受けたけど、どうやら俺の出番はもう
なさそうだな?」
「そうねぇ… マッフィンと寄せ書きとお爺ちゃんのおかげで、もう少し
生きてみようかな、って気になったの」
「ええ?!」
耕平の困惑する様子にめぐみは可笑しそうにくすっと笑った。
「まあ、なんだか分からないけど、とにかく良かった」
昔からの癖、俯き加減にはにかむような 〝亜希の笑顔” に耕平は
ほっとした表情を浮かべた。
「舞、ママに会える日を指折り数えて待ってるんだ」
「舞、アメリカに来るの?」
めぐみの顔がぱぁーと輝いた。
「うむ……。」
耕平は移住を決めたことを話した。
「そう、じゃあ、春休みまでには頑張って元気にならなくちゃね」
「そうだよ… 再治療のこと、早くケンに知らせてやれよ。
愛妻のことが心配で心配でゾンビみたいにやつれてるぞ」
「うん…」
めぐみの表情が少し曇った。
「やっぱり、許せないか?」
「……」
「俺が、こんなこと言えた筋じゃないけど… 彼が愛している女はこの世に
たった一人しかいない。男ってのは、つい誘惑に負けて取り返しのつかない
ことをしてしまう、どうしようもない馬鹿な生物なんだ。経験者の俺が
言うんだから間違えないよ」
耕平は苦笑した。
「分かってる、愛がなくても子供はできるってことくらい……
でも、生まれて来る子は自分の血を分けたまぎれもない我が子なのよ。
知らんふりできるわけないでしょ… 耕平さんだって勇樹ちゃんのこと
可愛いから、だから、犠牲を払ってでも移住に踏み切れたんでしょ?」
確かにその通りで耕平は返す言葉がなかった。
「我が子が生まれれば顔を見れば腕に抱けば、愛おしくなるに決まってる。
でも私がそばにいる限り、子供の誕生を大っぴらに喜ぶことも、会いに行く
こともできないのよ。現に今だって、私に遠慮してあっちへ行きたくても
行けないでいる。そんなの嫌なの、たまらないの…」
めぐみはピアノ上に顔を埋めた。
「遠慮してるから行けないんじゃない。愛しているから、君のことを誰よりも
何よりも愛しているから行かないんだよ。」
耕平はめぐみの震える肩にそっと手を置いた。




