37.病魔との闘い(3)
めぐみは生気のない虚ろな目で窓の外を眺めていた。
やつれた頬に幾筋もの涙の跡が残る。
健介の面会を拒み電話にも一切応じようとはしない。
病室から一歩も外に出ず、師長のジョイス以外は誰とも口を利かない状態が
何日も続いている。
「メグ、少しは食べないと、せっかく体力が戻りかけているのに…」
全く手つかずの病院食のトレーを下げながらジョイスは溜息混じりに言った。
「あ、そうそう。あなたに渡してほしいって、日本人の青年がこれをナース
ステーションの受付に置いてったそうよ。」
小さな紙袋のような物をめぐみに渡した。
袋を開けると、焼き菓子の香ばしい匂いが漂う。
中には大小様々な形をしたクランベリー・マッフィンが、手書きのメモと伴に
入っていた。
『俺の渾身作、見かけは悪いけど味はバーミンガハム夫人のと
同じはずです』
(純一くん…)
めぐみは一番不格好な一つを掌にのせた。
歪な形のマッフィンを見つめる彼女の口元が緩む。
口の中に入れると甘酸っぱいバターの風味が広がり、胸に熱いものが
こみ上げてきた。
純一と過ごしたアトリエでの時間が躰の中に甦る・・・
自分を慕う一途な想い、純真な若い情熱がめぐみの躰を激しく燃え上がらせた。
健康な若い男の肉体は、生身の女であることを悲しいくらいに思い知らしめ、
夫とは決して享受できない鮮烈な快楽の世界へと誘ってくれた。
あの時、めぐみの中に夫を裏切ったという罪の意識はまるでなかった。
自分が愛しているのは健介だけで純一に心まで許したわけではない。
そんな身勝手な理屈が夫に対する不貞行為を正当化していた。
めぐみはふと、健介も同じ思いを抱いたのかもしれないと思った。
そう考えると、胸の痞えが取れたように気持ちがスーと軽くなった。
「そのマッフィンの中には魔法の妙薬でも入っているかしら?…」
ジョイスは悪戯っぽく微笑む。
ベテランの師長は自分の患者が穏やかな落ち着きを取り戻したことを
見逃さなかった。
「ごめんなさい、ジョイス。どうしようもない患者で…」
めぐみは恥じらうような笑みを浮かべた。
「やっと、その素敵な笑顔を見せてくれたわね。はい、子供たちがこれを
あなたにって」
師長は白衣のポケットの中から四つ折りの紙を取り出した。
それは、めぐみの病気を知った小児科病棟の子供たちが書いた寄せ書き
だった。
「あなたも知ってるでしょ、この中には生まれた時から辛い手術を
何度も繰り返したり、治療を受けたくても治療法もないような難病と
闘っている子供たちがいることを。あの子たちは皆あなたが元気に
なって、またピアノを弾いてくれるのを楽しみに待っているのよ」
寄せ書きには、子供たちの可愛らしいイラストや愉快なメッセージが
拙い字で綴られている。彼らは病気と真っ直ぐに向き合い限りある命を
懸命に生きようとしている。めぐみの目に涙が光った。
再治療に対する不安、苛立ち、死への恐怖、夫に対する怒り、悲しみ、
女への嫉妬、憎しみ・・・
めぐみは自分の中で渦巻いているありとあるゆる醜い感情が、穢れを
知らない純真な心によって徐々に浄化されていくような気がした。




