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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
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36.病魔との闘い(2)

無菌室での化学療法の治療から三週間が経過した。

抗癌剤から解放されためぐみの体力は順調に回復している。


「麻酔が完全に切れるまで、もう暫く安静にしていてね。朝一だったから

疲れたでしょ? 少し眠るといいわ。」

若いナースはそう言い残すと検査室を出て行った。

今朝から治療後の骨髄の中の白血病細胞の状態を見るため骨髄穿刺の検査を

受けていた。この結果如何によって退院か再治療かが決まる。

不安と緊張から昨夜はほとんど一睡もしていないにも拘わらず、なかなか

寝付けなかった。ベッドの上にじっと横たわっているめぐみの耳に仕切り

カーテンの向こうから突然 〝ジェニー” の名が飛び込んできた。


「きのうね、今度務める病院に面接に行ったの。そこで誰に会ったと思う?」

「だれ?」

「ここでセラピストをしていたジェニーよ。もう今にも産み落としそうな

大きなお腹抱えて、見間違えるところだった。」

「そんなはずないわ、予定日は確か四月のはずよ。」

「どうやら双子らしいの。それで妊娠中毒症が酷くて来週から入院になるとか

言ってたわ。」

「そう、高齢出産の多胎妊娠じゃ、大変だわね…」

「でも、彼女とっても幸せそうだった。命をかけてでも子供が産みたいと

思えるような男に、わたしも早くめぐり逢いたいわぁ~」


いつか、カフェテリアで聞いた噂話、今耳にした会話、それにめぐみが

魘された夢の中身ーー その三つのエピソードが頭の中で渦を巻くように

交錯する。何度打ち消そうとしても、それは一つの確かなストーリーに

組立てられていく・・・



気がつくと、検査室ではなく病室のベッドの上に横たわっていた。

窓際に健介の姿があった。夕日を浴びた横顔に苦悩の色が浮かぶ。

憂いに満ちたその表情は、白血病の妻の検査結果を案ずるためか、それとも

妊娠中の愛人の体調を気遣うためか・・・

静まりかえった病室に携帯のバイブレーターの振動が響く。

発信先を確認すると携帯を握りしめたまま健介は目を閉じた。


「ドクター・ゴードンがオフィスでお話があるそうです。」

「ありがとう、すぐ行くと伝えてください。」

ナースに礼を言うと健介はめぐみの傍らに来た。

「じゃ、行ってくるよ。心配しなくても絶対大丈夫だから。」

黙って頷くめぐみの額にそっと口づけすると慌ただしく病室をあとにした。


めぐみは窓辺の椅子に腰を下ろした。目の前のテーブルの上に健介が

置き忘れた携帯がある。恐る恐る手を伸ばした。掌にのせたまましばらく

じっと見つめていたが、思い直したようにまたテーブルの上に戻した。

妻の躰を抱けない夫に何の不満もない。

ただ傍に居てくれるだけでよかった。大きな腕の中で伴に朝を迎えられる

だけで幸せだった。それなのに・・・

再び携帯を取り上げた。そして、意を決したように着信記録を開いた。



* * * * * * * 



めぐみは窓際に佇み虚ろな眼差しで冬の夕暮れを眺めていた。

壮絶な副作用との闘いで、もともと華奢な身体がひとまわり小さくなった。


「メグ…」

健介は呼吸を整えると背後から声を掛けた。

無理に作ろうとする笑顔が強張るのが自分でもわかる。

「再治療、なのね?」

夫の表情を見て取っためぐは悲しそうな目をした。


「うむ… 白血病細胞が骨髄の中にまだ少し残っているんだ。もう一度、

もう一回やれば完全に絶滅させることができる。だから…」

「再治療を受けなければ、どうなるの?」

「放っておいたら、癌細胞がどんどん増殖して、脳や脊髄にも広がって

しまう…」

「死ぬってこと、そうなのね?」

「メグ、治療が辛いのは良く分かるよ、けど…」

「何がわかるの!?」

健介の言葉を鋭く遮った。


「あなたに、いったい何がわかるの? あんな刑務所の独房みたいな所に

閉じ込められて、点滴と薬漬けにされる苦しみがわかるって言うの?

来る日も来る日も吐き気と頭痛と高熱にうなされて、髪の毛が抜けて幽霊の

ようにがりがりにやせ細っていく苦しみがわかるって言うの?

あんなのもうたくさん、死んだ方がよっぽどマシよ!」

声を荒げ一気に言うと枕の上に泣き伏した。

こんな風に感情を露わに取り乱しためぐみを健介は初めて見た。


「メグの言う通りだ。抗癌剤の副作用の苦しみを体感したことのない俺には

分からない。だけど、君を失う苦しみは分かる。君のいない人生なんて考え

られない… だから、頼む、再治療を受けてくれるね。

ラリーと話し合って、副作用はなるだけ軽減できるようにする。

髪だってもとに戻るまで、今は本物と見分けがつかないような医療用の

かつらもあるんだ…」

健介は必死で説得を続けた。


「じゃ、金髪のふさふさとしたかつらを買って来て。あなた好みのブロンドの

ヤツを! ついでに、胸に入れるEカップのシリコンも!」

めぐみは涙をいっぱい溜めた目で健介を睨みつけた。


「メグ…」

「彼女と寝たの? あなたが父親なの?」

「……」

「どうなの? イエスかノーか、はっきり答えて!」

健介はうな垂れるように頷いた。

「だけど、これだけは信じてくれ…」

「聞きたくない、何も聞きたくない!」

めぐみは両手で耳を塞いだ。


「どうせ私は死ぬんでしょ、私のことなんかにかまわずニューハンプシャー

でもどこでも行けばいいわ! あなたの顔なんか二度と見たくない!

出て行って、今すぐここから出て行って!」

めぐみはベッドの上に泣き崩れた。



検温のために病室に来た師長のジョイスは、めぐみの只ならぬ様子を見て

健介を部屋の外へと促した。

「いったい何があったの? 再治療のことだけでメグがあんなに取り乱す

わけないわよね。プライベートな問題に口を挟むつもりはないけど…

一部のナースのたちの噂話は私の耳にも入っているわ。もしそのことが

原因しているなら、今の彼女には残酷過ぎるわよ、ケン」


ベテラン師長は冷ややかな目で健介を一瞥すると病室の中に戻って行った。






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