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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
35/44

35.病魔との闘い(1)

年が明け無菌室でのめぐみの治療がはじまった。

無菌治療室は患者をあらゆる病原体から守るため特殊なフィルターを使った

空調システムが完備されている。入室できる医療スタッフも主治医や担当の

ナースとごく数名に限られ、入室時には前室での手洗いアルコール消毒、

白衣の着替えマスク着用等が徹底されている。

家族などの面会者は面会用の廊下からガラス越しに備え付けのインターホンで

患者と面会できる。


「ケン、上と掛け合ったが、『規則だから』の一点張りで… すまん」

主治医のラリー・ゴードンは済まなそうに健介に頭を下げた。

「仕方ないさ、俺はもうここの職員じゃないし、それにこの車椅子を

いちいちアルコール消毒するわけにはいかないからな」

相手の気持ちを思い苦笑を浮かべたが、できれば治療期間中ずっと傍に

付いててやりたかった。

短期間とは言え、日常生活から隔離された特殊な空間での治療は患者に不安

やストレスを与える。それに今回めぐみに投与される抗癌剤の種類と量から

かなり激しい副作用が予想される。



面会者用の廊下まで来ると、めぐみはすでにガラス窓の向こうで健介を

待っていた。

「メグ、ごめんな。そっちに行けなくて…」

「大丈夫、ゲロゲロのカエル状態になるとこなんか、愛するダンナさまに

見られたくないもん!」

悪戯っぽくウィンクした。

「ねぇ、これって、こっちのテレビや映画によく出て来る刑務所の受刑者と

家族の面会みたいだと、思わない?」

ガラス越しのめぐみの顔が可笑しそうに笑った。

未知の治療を前に心の中は不安でいっぱいのはずなのに夫に心配をかけまい

と、明るく振る舞う妻の姿がいじらしく切なかった。


治療開始二日目、面会者用のガラス窓の外で待つ健介の前に、移動用の点滴

器具を引き摺りめぐみはゆっくりとした足取りで現れた。

「どう、初日を終えた感想は?」

「やっぱり、二日酔いのカエル状態になっちゃった」

疲れた様子が顔に少し出ているが、インターホン越しに聞こえて来る声は

明るかった。

「その調子なら、まだまだ大丈夫のようだな」

「うん、ケンは一人でちゃんと食べてる? ファーストフードばかりだと

身体こわしちゃうよ」

「心配しなくてもちゃんとクックしてるよ。レパートリーの数ふやして

メグに本格的なフレンチ、食べさせてやるよ!」

「ほんと? 楽しみぃー! あ、〝看守さん” が来たわ、戻らなくちゃ」

「じゃ、また明日くるからな。ガンバレよ!」

健介のエールに親指を高々と掲げると面会時間終了を告げに来たナースに

促され、めぐみは無菌室の中に消えて行った。


治療開始三日目、ナースに車椅子を押されながらめぐみは姿を見せた。

昨日に比べると明らかに顔色が冴えず、一見して体調の悪さが窺える。

食事が喉を通らず嘔吐を繰り返していると、ここへ来る前担当のナース

から聞かされた。

「大丈夫? 何か食べられそうなもの差し入れしようか?」

「ううん…」

めぐみは首を大きく左右に振った。

「覚えてる、カペーリ家のフォース・ジュライのパーティーの翌朝、

私が何か食べたいって聞いたら、すご~く怒ったこと? あの時の

あなたの気持ち今、よ~くわかった」

そう言うとめぐみは無理に笑顔を作った。

「そうだったな、ごめん」

健介は思わず苦笑した。

三年前の独立記念日の夜、ライアンの家で酔いつぶれ次の日ひどい

二日酔いで苦しんだことを思い出した。



* * * * * * *    



「ケンと私の 〝愛の結晶” がここにいるのよ…」

大きく迫り出した腹部を誇らしげに両手で擦ると、ジェニーは勝ち誇った

ような笑みを浮かべた。


(やめて!! 嘘よ、そんなの嘘よ!!)

めぐみは耳を塞ぎ大声で叫んだ。

「メグ、どうしたの?! しっかりして!」

ナースの声ではっと目が醒めた。

身体中が汗でぐっしょりと濡れ、頭の中は靄がかかったように朦朧として

いる。

「大丈夫? ひどく魘されていたわよ。よっぽど怖い夢を見たようね」

「夢、だったの…」


寛解導入療法の治療が始まって予定期間の半分が過ぎた。

昨日あたりからさらに強い副作用が現れめぐみの体調は最悪の状態を

呈している。激しい嘔吐頭痛のため食事摂取が不可能になり高カロリー

栄養と電解質の補充が点滴に加えられた。

枕カバーに付く髪の毛の量の増加はめぐみにかなりのショックを与えた

ようで、ベッドから起き上がる体力も気力も失い、昨日はついに健介との

面会も自分の方から断った。

無菌室の中はベッドとシャワー付きのトイレ、それにTVやDVD、電話の

設備もある。とは言え、外の世界と遮断された狭い空間にいるとどうしても

気持ちが落ち込んでしまう。ポジティブな思考能力が低下し物事を悪い方に

考えてしまう。身体だけでなくめぐみの心も悲鳴を上げはじめていた。



「ケン、今回の『髄注』はキャンセルしようと思うんだ…」

主治医のゴードンは言い辛そうに切り出した。

静脈から血液に入った抗癌剤も脳や脊髄には行きにくいため、白血病が

脳や脊髄などの中枢神経に及んでいる場合、また及んでなくても予防の

ために髄腔内注入(髄注)といって、腰の中心部より細い針を入れ

脳脊髄液に抗癌剤を入れることがある。

めぐみの場合、幸い中枢神経への浸潤は見られなかったが、徹底的に

白血病細胞の芽を根絶するため、健介は当初から『髄注』を強く主張

していた。


「身体がかなり衰弱している。体力的な事を考えると、これ以上は…」

「ラリー、初回の治療結果が予後を決定することは君も承知だろ!?

この際、徹底的に叩いておかなければ、」

「ドクター・アリーガ! 私もドクター・ゴードンの意見に賛成です」

ベテランの看護師長ジョイスは、興奮気味に声を荒げる健介の言葉を

厳しい口調で遮った。

「ケン、メグは本当に良く頑張っているのよ。辛い副作用にも愚痴や

弱音を吐かず必死で耐えているわ。そばで見ててこっちの方が辛くなる

くらい。でも、体力も精神力も限界に近づいているのかもしれない…

きのう、彼女がなぜ面会を拒んだのかわかる?」

「……」

「担当のナースがきのう初めてメグの涙を見たと私に報告してくれたわ。

脱毛がはじまったの。男の人には理解しがたいでしょうけど、女にとって

髪は命。朝ヘヤースタイルが決まらないだけでもその日一日が憂鬱になる

ものなのよ。激しい嘔吐や頭痛に耐えることはできても、髪を失うことは

女にとって耐えがたいことなの」

師長の話を俯いたまま黙って聞いていた健介はふーと大きな息を吐いた。


「ケン、君の気持ちはよくわかる。俺だって君の立場ならどんな無理を

してでも妻を治してやりたいと思う。でも、ジョイスの言うように、今

メグにこれ以上精神的苦痛を与えるのは避けるべきだと思う。

彼女の主治医として今回の『髄注』は中止するよ。とにかく、あと五日で

完全寛解になることを祈ろうじゃないか」

ゴードンの言葉に健介は静かに頷いた。


めぐみが肉体的、精神的に限界に達していると聞かされ大きなショックを

受けた。妻を想うあまり医者としての冷静さを完全に失っていたのかも

しれない。主治医として傍に付いていれば妻の苦痛も苦悩も見逃すことは

なかっただろう。

健介が身体の自由を奪われたことをこれほど恨めしく感じることは、

事故以来この時が初めてだった。








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