34.忍び寄る影(4)
一人になると、これまで身内に抑えていた不安と恐怖が一気にめぐみを襲い
涙が溢れ出た。
いくら不治の病ではないと言われても癌を宣告された当人のショックは大きい。
はじめてボランティア活動をしたメリーランドの病院で、癌や白血病で死んで
逝った小児科病棟の子供たちの顔が次々と脳裏に浮かぶ。
(私も、最後はあの子たちのように……)
凍り付くような絶望感に苛まれ、暗闇の中に吸い込まれていくような恐怖で
身体が震える・・・
突然、静かな部屋の中に携帯の着信音が鳴り響く。
めぐみははっと我に返った。
「めぐみさん、純一です…」
普段ははにかむような彼の声がいつになく弾んでいる。
引っ越したばかりの高台のアトリエからだった。
ベイ・ウィンドーから見下ろす海の様子を嬉しそうに語る純一の声に
めぐみは何かほっとするものを感じた。
「今から、純一くんの新居にお邪魔してもいい?」
目映いばかりに健康な青年の笑顔に急に逢いたくなった。
* * * * * * *
「わぁ、ほんとに素敵! ここならきっと次々と大作が生まれそうね」
眼下に広がる海の景色にめぐみは声を弾ませた。
「プロビンスのボロアパートとは雲泥の差、まるで天国と地獄!」
純一は可笑しそうに笑った。口元から綺麗な白い歯が零れる。
「実はね… 今日は純一くんにお別れを言いに来たの」
めぐみは静かに切り出した。
さっきまでの明るい笑顔が消えている。
「ごめんなさい。あなたとの約束、守れそうにないの…」
「?……」
純一には彼女の言葉の意味が解らなった。
「私ね、白血病なの… 来週から抗がん剤や化学療法の治療がはじまるんだ。
知ってるでしょ、あの、髪の毛が抜けて骸骨のようなひどい姿になるヤツ?
だから…〝仁科画伯” の絵のモデルなんて、とても無理みたい」
めぐみは微笑を浮かべさらりと言った。
「うそだ! そんなのうそだ。 イヤだ、そんなの絶対イヤだ!」
〝白血病” という言葉は純一に即 ”死” を連想させ頭の中が真っ白に
なった。
「ずっと好きだった。ギャラリーではじめて見かけた時からずうっと…
俺なんかに手の届かないことわかっていながら、胸が張り裂けそうなくらい、
どうしていいかわからないくらい、好きになってしまった。好きで好きで
たまらない、あなたが死ぬほど好きだ!!」
まるで駄々っ子のように叫ぶと、いきなりめぐみの躰を抱きしめた。
胸の奥に封じ込めていた激しい恋情が一気に溢れ出た。
目からはらはらと涙が零れ純一の顔はくしゃくしゃになった。
切ないまでに一途な想い、若い情熱がめぐみの躰にもひしひしと伝わってくる。
「純一くん、私を抱いて…」
めぐみは純一の腕の中で囁いた。
「…今の私を、病魔に蝕まれ醜く崩れていく前の私の躰を、あなたの記憶の
中に留めておいて。そしていつの日か、あなたの中に残した私を、あなたの
この手でキャンバスに蘇らせて…」
純一の右手をぎゅっと握りしめた。
めぐみは一糸纏わぬ綺麗な裸体を純一の前に差し出した。
均整の取れたしなやかな姿態、形の良い乳房の膨らみ、恥じらうように
桜色に染まる瑞々しい素肌、そこはかとなく漂う上品な色香・・・
純一は思わず息を呑んだ。
これまで、いや、おそらくこれからも、こんな美しい生身の女の裸体を
目にするすることはないだろう・・・
震える手でめぐみの全身を愛撫する。掌に伝わってくる柔らかな肌の
感触、耳元に心地良く響く甘美な息遣い、頬を伝わる涙のほろ苦さ、
やさしい髪の匂い・・・
純一は五感のすべてにその美しい容姿を記憶させるかのように、全身全霊で
愛しい人の躰を愛した。




