31.忍び寄る影(1)
肺炎を免れためぐみは二日後に無事退院することができた。
今年は二人で静かなクリスマスを迎えられると喜ぶめぐみとは対照的に、健介の
表情は苦悩の色を隠しきれない。それは単にジェニーの妊娠の事実を知ったため
だけではなかった。
今回の入院で採取された血液検査の結果に異常がみられると再発以来、健介に
代わって主治医となったボスジェネラルの同僚医師から連絡が入った。
AA(再生不良性貧血)の再発時に見られる血液細胞の数の減少だけでなく、
白血球の中に芽球と呼ばれる異型性のある幼若細胞の出現が認められるという。
肺炎になりかけたのも正常な白血球の減少により抵抗力が低下し感染症に
かかりやすくなっていたからだ。
詳しい病状、診断は骨髄検査の結果を待たなければならないが、考えられる
病名は二つである。
MDS(骨髄異型性症候群)あるいは、AL(急性白血病)・・・
「ケン、どうかしたの、そんな難しい顔をして? 明日は楽しいクリスマス・
イブよ」
めぐみは夫の暗い顔を覗き込んだ。
さっきからジングルベルを口ずさみクリスマスツリーに何やら短冊のような
ものを飾り付けている。
「それって、七夕の時にやるヤツじゃないのか?」
「そう、短冊に願い事を書いて笹の葉につるすとその願いは叶うのよ。
子供の頃によくやったの… 樅ノ木でもきっと効果は変わらないでしょ。
ケンもやってみる?」
「俺はいいよ。で、いったい何を書いたの?」
「ひ・み・つ! クリスマスの朝まで絶対見ないでよ!」
めぐみは少女のような屈託のない笑顔を浮かべる。
そんな姿を見ていると検査のことをなかなか言い出せなかった。
「さっき、ラリーから電話があったんだ…」
「ドクター・ゴードンから?」
「うむ、今度の結果、前よりちょっと数値が下がってるから念のために
『骨髄穿刺』やることになった」
なるべく何でもないような調子で切り出した。
『骨髄穿刺』は局所麻酔をした背中から胸骨に太い針を刺して取り出した
骨髄液を顕微鏡で詳しく調べる検査である。AAの発症以来めぐみは何度か
この検査を経験している。
「ワシントンに引っ越してからじゃ、ダメなの?… そんなに、ひどいの?」
不安そうに夫の顔を覗った。
「そうじゃないよ。ちょうどクリスマス明けの朝一のアポにキャンセルが
入ったとかで、急だけど嫌な検査はなるべく早く済ませておいた方がいいだろ?
大丈夫、何も心配することはないよ」
不安を与えないよう努めて何でもないように言ったが、健介自身、心の中は
不安で押し潰されそうになっていた。
現代医学では白血病はもはや不治の病ではない。
移植や化学療法などの治療法が確立され完全治癒率も以前に比べるとぐっと
高くなっている。だが、他の癌に比べ経過が急激なため進行が急速で致命的に
なる場合がある。骨髄検査で診断が確定すれば直ぐに入院し大量の抗癌剤に
よる治療を即、開始しなければならない。
めぐみの華奢の身体に何本もの針を刺し壮絶な副作用との戦いを強いることを
想像しただけで胸が痛む。
健介はもはや血液疾患の専門医ではなく、一人の夫として神にでも仏にでも
縋り、愛する妻が白血病でない事を大声で祈りたいような心境だった。
* * * * * * *
純一は画廊のオーナー、ポール・ビショップに連れられ高台にある小さな
キャビンに来ていた。めぐみの住む海の家からそう遠くない場所にある。
「どうだ、ガラクタを片付ければ人間一人くらい住めるだろ?」
「俺にはもったないくらです」
純一は恐縮しながら応えた。
ここは、ポールが若い頃アトリエとして使っていたらしいが、今は物置小屋の
ようになっている。小さなキッチンとバスルームがあり部屋の隅にはソファ・
ベッド置かれている。
大きなベイ・ウィンドーからはケープの海が一望でき、純一の安アパートとは
比べものにならない。
『食うために絵を描くようなことを続けていれば、いつかはダメになって
しまう』純一の才能を見抜いたポールは、週末の似顔絵かきと深夜のレスト
ランでのアルバイトを辞めさせ絵に集中できるようにと、無償でここを
提供してくれた。
「オーナー、本当にありがとうございます」
純一は心の底から礼を言った。
今月いっぱいで帰国する直美に代わるルームメイト探しが行き詰っていた
だけに、天から降って湧いたような話だった。
「気にするな。私はこれでも実業家のつもりだ、慈善事業はやらないよ。
将来見込みのないものに決して投資はしないさ」
「期待に応えられるよう、がんばります!」
「まあ、そう気負わずしばらくここで思いっきり描いてみろ」
オーナーの温かい言葉に純一は深々と頭を下げた。
恩返しができるよう、そして何よりめぐみとの約束が果たせるよう、将来
個展の開けるような絵描きに絶対なってみせる・・・
純一は彼女と絡ませた小指をぎゅっと握りしめた。