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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
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20.真夏の約束

「わぁー 海が目の前! ここならきっとケンも気に入ると思うわ」

めぐみは窓の外に広がる景色に感嘆の声を上げた。

健介の退院が二週間後に決まった。七月で賃貸契約の切れたボストンのコンド

ミニアムを引き払いワシントンに戻るまでの三ヶ月間、二人はケープ・コッドで

一軒家を借りることにした。


「ええ、来月になれば夏も終わり、この辺りはうーんと静かになるわ。

それに、ここならうちからも近いし… メグ、ここに決めれば?」

「そうね… じゃあ、ここにしようかしら」

「オーケー、さっそく契約を済ませて引越しの手配をしないといけないわね。

二週間なんて、あっという間よ。これから忙しくなるわよ」

知り合いの不動産屋を紹介してくれたリズが嬉しそうに言った。

「ええ、準備万端に整えてケンを迎えてあげたい… 」

めぐみの顔に穏やかな微笑が浮かぶ。

その表情には長かったリハビリ生活からやっと解放される夫と再び一緒に

暮らせる喜びに溢れている。


静養と社会復帰の準備を兼ねてここで暮らすことは健介からの提案だった。

ケープ・コッドが一番美しい姿を見せる季節、静かな秋の海を愛でながら二人で

ゆっくり過ごす時間・・・

それは事故以来、心労を重ね体調を崩してまでも夫を支えてくれた愛する妻に

対する健介からの心からの贈り物だった。



* * * * * * * 



「このへんでいいですか?」

「もう少し右… そう、そう、そこがいいわ」

リズはさっきから二人の若者に細かな指示を与えている。


「どう? 私の選んだこの絵?」

取り付けられたばかりのリビングルームの油絵をリズは満足気に見上げた。

二人の新居のためにニューイングランドの紅葉を描いた風景画をめぐみに

プレゼントしてくれた。

「とっても素敵。でも、こんな高価なもの頂いて本当にいいのかしら…」

「ケンの快気祝いよ、いいに決まってるじゃない。それに、ポールったら、

この絵の購入代金には、二人分の若い労働力も含まれているからって、

ケビンとジュンを引越しの手伝いによこしてくれたのよ。得しちゃったわ」

子供のようにぺろっと舌を出した。

「さあ、ケビン、もう一往復したらランチにしましょう」

「イエス、マム!」

二人はトラックに乗り込み『リズの家』へ引き返した。



「ごめんなさいね、引っ越しの手伝いなんかさせちゃって」

めぐみは済まなそうに言うと冷たい飲み物を手渡した。

左手の薬指に光る指輪が純一の眼を捉えた。人妻という事実を眼前に突きつけ

られたようで堪らない気持になった。

「平気です。配達よりずっと楽だから…」

感情を振り払うようにアイス・ティーを一気に飲み干した。

画廊のオーナーの依頼でバーミンガハム夫人を手伝うことになった純一は

思いもよらずめぐみと再会する機会を得た。

直美の話を聞いて以来、忘れなければ諦めなければと自分に言い聞かせてきたが

そう思えば思うほど、逆に彼女への想いは募り自分の心を偽っていることが段々

辛く苦しくなっている。


「こっちの方が涼しくて気持ちいいわよ」

めぐみに促されベランダのデッキチェアーに腰を下ろした。

目の前にケープの青い海が広がる。シーズンを終えた白い砂浜は人の数も疎らで

ひっそりとしている。直美と来た真夏の海の喧騒はすっかり消え、すでに秋の

気配が漂っている。


「海の絵、うまく進んでる?」

傍らに座るめぐみは静かな海に視線を向けたまま言った。

彼女が自分の絵のことを覚えててくれたことに少し驚いた。と同時に無性に

嬉しかった。

「もうすぐ完成します。けど、ギャラリーに展示されるかどうかは… 」

「大丈夫よ、才能あるんだもの」

伏し目がちに応える純一に向かってきっぱりと言った。

「……」

「直美ちゃん、いろいろ教えてくれたのよ、純一くんのこと。凄いコンクールで

金賞を取ったことや、美大をトップの成績で入ったことやなんか…」

(直美のヤツ!)

純一は心の中で舌打ちをした。直美はおそらく例の調子で、あることないこと

ぺらぺらと喋ったにちがいない。


「美大に入るには入ったけど、半年でやめたから…」

「じゃあ、私と同じ “中退組” ってわけね」

可笑しそうにくすっと笑った。

「え、めぐみさんも大学、中退したんですか?」

「ええ、そして、日本を脱出してこの国へ来たの」

「じゃ、それも俺と同じだ」

純一も笑った。


「そうねえ… でも、私は自分のピアノに失望して逃げ出して来た “負け組” 

だけど、あなたは自分の才能を信じてこの国に来た “勝ち組” なのよ。

それって、凄いことだと思う。だから、もっと自信を持っていいと思うな。」

自嘲気味にさりげなく言うめぐみの言葉が純一の心に温かく響いた。

五年間の貧乏生活は純一にすっかり自信を失くさせていた。

生活に追われ似顔絵や売らんがための絵を描いているうちに、この国へ来た

当初の情熱も意欲も失い心が空っぽになっていた。純一が本来持つ豊かな

個性も鋭い感性もない、つまらない絵しか描けなくなっていた。


「俺、俺の絵、絶対ギャラリーに飾って見せます。だから… 

約束してくれますか、絶対、見に来てくれるって?」

純一は自分でも驚くほどきっぱりと言い放った。

「指切り!」

めぐみは頷くと小指を立て差し出した。

純一は自分の小指を恐る恐る彼女の指に絡ませた。

「~指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます、指切った!~」


無邪気に歌いながらめぐみは少女のような屈託のない笑顔を浮かべた。

指先から伝わってくる暖かいものが純一の渇いた心を優しく満たしていく

ような気がした。





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