02.光る海(2)
めぐみは砂浜に座り、ゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていた。
この場所に来るのは三度目だった。人影もなく静まり返った早春の海。
季節こそ違え、海の色も夕日の美しさも以前と何も変わってはいない。
ただ、隣に寄り添っているはずの健介がいないことを除いては・・・
二年前、健介とはじめて訪れたケープ・コッドは鮮やかな紅色に染まっていた。
夏の喧騒が去った後の穏やかな秋の海に魅せられ、二人で毎年ここに来ることを
約束した。あの美しい秋の海の静寂を夫と二人して愛でる日は、もう二度と
戻ってこないのだろうか・・・
頬に伝わる涙を拭おうともせず、めぐみは一心に足元の砂を小瓶に詰めた。
「やっぱり、ここにいたんだね…」
隣に腰を下ろしたアレックスは、そっとハンカチを差し出した。
「ケンの容体は、相変わらず?」
めぐみは目頭を押さえながら静かに頷いた。
「そうか…(ジューンブライドは幸せになるはずなのに…)」
アレックスは海に向かってふーと大きく息を吐いた。
純白のドレスに身を包み微笑みを湛える美しい花嫁姿が、彼の脳裏に甦る。
『リズの家』の近くの小さな教会で二人は永遠の愛を誓った。
そのわずか半年後、健介は不慮の事故に遭い意識不明のままずっと眠り続けて
いる。事故の日以来一日も欠かさず病室を訪れ、物言わぬ夫に優しく語りかける
新妻の姿は痛々しく、ボスジェネラルの同僚医師も懸命の治療を続けているが、
依然、回復の兆候は見られない。
周囲の誰もが心身ともに限界を超えているめぐみを心配し、休養を勧めたが
彼女は夫の傍を離れることを頑なに拒み続けた。そんなめぐみを実の娘のように
可愛がるリズは、半ば強制的に自分の家に連れてきた。
「そろそろ戻らないと、リズが心配するよ」
アレックスに促され夕日が水平線に沈み薄暗くなった浜辺を後にした。
翌朝すっかり帰り支度を整えためぐみは、窓際の揺り椅子に座り外の景色を
眺めていた。朝露に濡れた常緑樹の葉が春の柔らかい光を浴びてきらきらと
輝いている。窓を開けると、小鳥の囀りとともに清々しい朝の冷気が飛び
込んできた。暖房で少し火照った肌が引き締まるようで、なんとも心地よい。
新鮮な空気を体内に取り込むように大きな深呼吸を一つした。
「もう二、三日ゆっくりしていけばいいのに…」
いつの間にか、焼き立てのクランベリー・マッフィンと香ばしいヘーゼルナッツの
珈琲を盆にのせたリズが立っていた。
どちらもめぐみの大好物である。リズの心遣いが嬉しかった。
「ありがとう、リズ。とってもいい静養になりました。またお邪魔します」
「約束よ。あなたのピアノを何よりも楽しみしている老婆のことを忘れ
ないでね。」
「老婆だなんて、リズったら」
めぐみはくすっと笑った。
「そうそう、メグのその可愛い笑顔、やっと見せてくれたわね。ケンがその素敵な
笑顔を忘れるわけないわ。彼は必ずあなたのところへ戻って来るわよ」
リズは青い瞳を潤ませめぐみの細い身体をぎゅっと抱きしめた。
大きな母の愛情に包まれているようで胸の中は熱いものでいっぱいになった。
いつもそばで見守っていてくれた耕平は、健介との結婚を自分の事のように喜び
安心したように日本に帰国した。家族のように親しかったライアンとモニカも
母親との和解が成立し、健介の事故の直前にワシントンに戻って行った。
わずかな希望と絶望の狭間で押し潰されそうになる今のめぐみにとって、リズや
アレックスの思いやりが身に染みて有難かった。
* * * * * * *
「ミセス・バーミンガハム、ご注文の品をお届けに上がりました!」
めぐみの車が出て行くや否や、プロビンス・タウンの画廊の名が入ったトラックが
ドライブ・ウェイに停止した。中から二人の若者が降りて来た。
「ああ、そうそう、そう言えば今日だったわね… ご苦労様、リビングに運んで
ちょうだいな」
数日前、めぐみと一緒に行った知り合いの画廊で購入した絵の配達日が
今日であることを、リズはすっかり忘れていた。
「やっぱり、彼女の言う通りこっちにして良かったわ」
初老の夫人は、純一たちが取り付けたばかりの50号の大きな油絵を満足気に
眺めながら言った。
自然光が差し込む広くて明るいリビングルームの白い壁に映え、その大きさにも
関わらず存在感を主張することなく以前からずっとそこにあったように、この
部屋の雰囲気に見事に溶け込んでいる。
この絵はボストン在住の若い画家の作品で、モネの影響を受けたアメリカ人の
印象派、フランク・ベンソンの『静かな朝』を彷彿とさせるような鮮やかな光の
世界を描いている。純一は嬉しい気分になった。配達していると、どんなに
素晴らしい絵でも飾られる場所によっては絵の生命が奪われるようなことがあり、
やるせない気持ちになる時がしばしばある。
「ご苦労さまでした。焼きたてのマッフィンがあるのよ。良かったら召し
上がれ。コーヒーよりアイスティーの方がいいわね」
「あざーっす。じゃ遠慮なくいただきまーす!」
少々肥満気味で四六時中キャンディー・バーを口にしているケビンが、間髪を
入れず応えた。
「二人とも、絵描きさん?」
「ええ、まあ… 僕はモダンアート、こいつは油絵をやってます。それにしても
このマッフィン、ホント旨いっすね」
二個目を頬張りながらケビンが言った。
純一もつられてマッフィンを口に入れた。濃厚なバターの風味と甘酸っぱいクラン
ベリーが口の中で溶け合い何とも美味である。
「たくさん召し上がれ… お二人を見てると、ポールの若い頃を思い出すわ…」
「オーナーをご存知なんですか?」
二人は驚いたように夫人の顔を見上げた。
「ええ、亡くなった主人と彼のお父上が親しくしていたの。ポールも夢を追って
パリにまで行ったのに、結局、画家になることを諦めて… 才能だけでは生きて
行けない世界らしいわね」
画商として成功を修めているオーナーが、かつては自分と同じ画家志望であった
ことは意外だった。将来の見えない今の純一にバーミンガハム夫人の言葉は重く
響いた。
「あなた、もしかして日本から?」
会話をケビンに任せ、さっきからずっと黙っている純一に夫人は話を向けた。
「はい、そうです」
少し緊張した面持ちで応えた。
「あら、残念だったわ… 実はね、この絵を選んでくれたのはあなたと同じ
日本人の女性なのよ。あなたたちと一足違いでボストンに帰ちゃったんだけど…
あ、そうだわ、ちょっとごめんなさい」
そう言うと、夫人は急に思い立ったように部屋の隅にある電話を取り上げた。
「もしもしメグ、ごめんなさいね運転中に。でも、どうしても知らせたくて…
実は今、あの絵が届いたの。あなたが言ったようにこのリビングにぴったりで
とっても素敵。早く見せたいわ…。」
夫人は少女のような弾んだ声で電話の相手と会話をしている。
この部屋にあの絵を選んだという女性は絵心があるか、かなりの美的感覚と
感性の持ち主に違いないと、純一は思った。
「あっ、そうそう、忘れるところだったわ…」
電話を終えた夫人は思い出したように切り出した。
「…ポールには話してあるんだけど、今日ついでにあの絵を持って帰って
もらえるかしら?」
修復が必要な古い絵があると言う。
「ええ、かまいませんよ」
ケビンが応えると、夫人は二人を二階のライブラリー兼ファミリールームに
案内した。
泊り客が読書やお茶をする部屋のようで、一階の明るいリビングとは異なり
マホガニーの家具で統一された室内は、英国風の落ち着いた雰囲気がある。
ぎっしりと本が詰まった書棚の横にビクトリアン調の洒落た飾り棚があった。
夫人が常連客と写したとみられるスナップ写真がいくつか飾られている。
何気なく目にしたその中の一枚に純一はあっ、と小さな声を上げた。
そして、金縛りにでもあったように呆然とその場に立ち尽くした。
「ジュン、何ぼやっとしてるんだ。早く手伝えよ!」
暖炉の上の古い絵を取り外しにかかっているケビンの声は、純一の耳には
届かなかった。