19.人妻
「純ちゃん、コーヒー入ったよ。クッキーもあるし一休みしたら?」
「いらん!」
純一は素っ気なく言った。
(ギャラリーに展示されるといいわね……)
めぐみの放った一言が、身内に潜んでいた創作意欲を完全に復活させた。
あの日以来、純一はまるで何かに憑りつかれたようにキャンバスに向かい
一心に絵筆を走らせている。
「なんか食べへんかったら身体こわすよ。そや、お好み焼き作ったげよか?
好きやったやろ?」
直美はキッチンのカウンター越しに声をかけてきた。
「たのむから、自分の部屋に居てくれへんかな… ここは一応、俺の部屋やし
お互い干渉せえへん約束やったやろ!」
純一は声を荒げた。
同居から半月、何かと世話を焼きたがる直美に少々うんざりしていた。
アパートは1LDK,ベッドルームを彼女に譲り純一は狭いリビング・ダイ
ニングを自分の部屋にしている。
「そんな怖い顔せんでもええやん。せっかくいい話、聞かせてあげよかなぁー
と思ったのに…」
もったいぶるような言い方をした。
「…きのうな、病院で、めぐみさん見たんよ」
純一の手の動きが急に止まった。
直美は昨日、語学スクールのインストラクターが入院しているボストンの
病院に見舞いに行った。
「純ちゃん、やっぱりあの人のこと好きやったんやね?」
「……」
「図星やろ? 隠しても顔に書いてあるわ。スケッチブックのデッサンの人、
誰かに似てるってずっと思ってたけど、きのう彼女見た時はっきりそうやと
分かったわ。けど、あの人はゼッタイあかんよ!」
「なんでや?」
あまりにもはっきりと断言する直美に思わず聞き返した。
「めぐみさん、結婚してるんよ。つまり、彼女は “ヒ・ト・ヅ・マ” 」
「人妻?」
めぐみの私生活は何も知らない。年上であることは漠然とわかっていたが、
そんなことはどうでもよかった。だが、直美が口にした “人妻” という
言葉には驚いた。彼女が既婚者であることは純一にとって全く予想もしていない
ことだった。
「そう、ダンナさんはエリート・ドクターで超イケメン。それに、二人の間には
すっごい “ラブ・ストーリー” があるんよ……。」
直美は病院で耳にしたことを話はじめた。
画廊に展示された絵を悲しげに見つめていた綺麗な横顔、純一の心を一瞬にして
捕えたあの憂いのある美しさは、病床の夫を抱え苦悩する妻の姿だったのか・・・
純一はこれまで恋愛と呼べるような恋をしたことがない。昔からどちらかと言えば
奥手の方だった。十八で日本を飛び出しアメリカに来た時はまだ女を知らなかった。
四年半のニューヨーク生活の中でそれなりの経験は積んだが、どれも本気で女を
好きになるような恋愛ではなかった。
めぐみを一目見た瞬間、純一の心は奪われた。どこの誰とも知らぬ相手に一方的な
恋心を抱き、まるで思春期の少年のような悶々とした想いを募らせている。
幸運な偶然が重なり彼女との再会を果たして以来、雲を掴むような存在だった
めぐみは、確実に一歩づつ純一に近づいている。そして今、彼女のために彼女に
見せたいがために、この一枚の絵に全魂を注ぎ込んでいる。
「今のうちにきっぱり諦めたほうがええよ。あたしが言うのもなんやけど、
不倫はあかん!」
「不倫?」
その言葉の響きに純一は一瞬たじろいだ。
「他人の奥さんを好きになるのは立派な不倫やろ。絶対やめといた方がええよ。
自分も相手も苦しめて、結局、最後に一番傷つくのは自分自身やもん… 」
直美は神妙な顔つきをした。
苦い経験をした彼女の言葉には妙に説得力がある。が、めぐみとの関係は不倫など
とはほど遠い。純一がただ一方的に熱い想いを寄せているだけであって、相手は
彼の恋心など知る由もない。
この絵が完成した時に自分の気持ちを伝えるつもりでいた。
めぐみが人妻であり叶わぬ相手である以上、この切ない想いは胸の奥に秘め封印
してしまわなければならないのか・・・
純一は厳しい表情でキャンバスに向かった。




