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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
19/44

19.人妻

「純ちゃん、コーヒー入ったよ。クッキーもあるし一休みしたら?」

「いらん!」

純一は素っ気なく言った。


(ギャラリーに展示されるといいわね……)

めぐみの放った一言が、身内に潜んでいた創作意欲を完全に復活させた。

あの日以来、純一はまるで何かに憑りつかれたようにキャンバスに向かい

一心に絵筆を走らせている。


「なんか食べへんかったら身体こわすよ。そや、お好み焼き作ったげよか?

好きやったやろ?」

直美はキッチンのカウンター越しに声をかけてきた。

「たのむから、自分の部屋に居てくれへんかな… ここは一応、俺の部屋やし

お互い干渉せえへん約束やったやろ!」

純一は声を荒げた。

同居から半月、何かと世話を焼きたがる直美に少々うんざりしていた。

アパートは1LDK,ベッドルームを彼女に譲り純一は狭いリビング・ダイ

ニングを自分の部屋にしている。


「そんな怖い顔せんでもええやん。せっかくいい話、聞かせてあげよかなぁー

と思ったのに…」

もったいぶるような言い方をした。

「…きのうな、病院で、めぐみさん見たんよ」

純一の手の動きが急に止まった。

直美は昨日、語学スクールのインストラクターが入院しているボストンの

病院に見舞いに行った。


「純ちゃん、やっぱりあの人のこと好きやったんやね?」

「……」

「図星やろ? 隠しても顔に書いてあるわ。スケッチブックのデッサンの人、

誰かに似てるってずっと思ってたけど、きのう彼女見た時はっきりそうやと

分かったわ。けど、あの人はゼッタイあかんよ!」

「なんでや?」

あまりにもはっきりと断言する直美に思わず聞き返した。


「めぐみさん、結婚してるんよ。つまり、彼女は “ヒ・ト・ヅ・マ” 」

「人妻?」

めぐみの私生活は何も知らない。年上であることは漠然とわかっていたが、

そんなことはどうでもよかった。だが、直美が口にした “人妻” という

言葉には驚いた。彼女が既婚者であることは純一にとって全く予想もしていない

ことだった。

「そう、ダンナさんはエリート・ドクターで超イケメン。それに、二人の間には

すっごい “ラブ・ストーリー” があるんよ……。」

直美は病院で耳にしたことを話はじめた。


画廊に展示された絵を悲しげに見つめていた綺麗な横顔、純一の心を一瞬にして

捕えたあの憂いのある美しさは、病床の夫を抱え苦悩する妻の姿だったのか・・・

純一はこれまで恋愛と呼べるような恋をしたことがない。昔からどちらかと言えば

奥手の方だった。十八で日本を飛び出しアメリカに来た時はまだ女を知らなかった。

四年半のニューヨーク生活の中でそれなりの経験は積んだが、どれも本気で女を

好きになるような恋愛ではなかった。

めぐみを一目見た瞬間、純一の心は奪われた。どこの誰とも知らぬ相手に一方的な

恋心を抱き、まるで思春期の少年のような悶々とした想いを募らせている。

幸運な偶然が重なり彼女との再会を果たして以来、雲を掴むような存在だった

めぐみは、確実に一歩づつ純一に近づいている。そして今、彼女のために彼女に

見せたいがために、この一枚の絵に全魂を注ぎ込んでいる。


「今のうちにきっぱり諦めたほうがええよ。あたしが言うのもなんやけど、

不倫はあかん!」

「不倫?」

その言葉の響きに純一は一瞬たじろいだ。

「他人の奥さんを好きになるのは立派な不倫やろ。絶対やめといた方がええよ。

自分も相手も苦しめて、結局、最後に一番傷つくのは自分自身やもん… 」

直美は神妙な顔つきをした。

苦い経験をした彼女の言葉には妙に説得力がある。が、めぐみとの関係は不倫など

とはほど遠い。純一がただ一方的に熱い想いを寄せているだけであって、相手は

彼の恋心など知る由もない。

この絵が完成した時に自分の気持ちを伝えるつもりでいた。

めぐみが人妻であり叶わぬ相手である以上、この切ない想いは胸の奥に秘め封印

してしまわなければならないのか・・・


純一は厳しい表情でキャンバスに向かった。

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