12.不倫の代償(1)
「やめて!! 痛いよぉー はなしてぇー!!」
悲痛な叫び声を聞きつけ耕平は慌ててリビングルームに行った。
勇樹がポニーテールにまとめた舞の髪を掴んで放そうとしない。力づくで手を
放させると、思いっきり引っ張っていたのだろう、手のひらに抜け落ちた髪の
毛をしっかりと握っている。
「勇樹、お姉ちゃんにあやまりなさい!」
耕平が思わず声を荒げると、勇樹は部屋の隅に行き何も聞きたくないと言う
ように両手で耳を塞いでしまった。
「大丈夫か、舞? いったい何があったんだ?」
「パパ、この子、変だよ!」
よほど痛かったのか、舞は目に涙を浮かべ怒りを露わにした。
勇樹がいつもミニカーや電車の車輪を回してしか遊ばないのでテーブルの
上に走らせてやると、いきなり髪の毛を掴んで引っ張り出したと言う。
「勇樹は、自分でやりたかったんじゃないのか?」
舞を宥めるように言った。
「いつも寝そべって車輪しか回さないなんて、変だよ! この間もお散歩の
帰りにいつもと違う道を行こうとすると、もの凄い声で泣き出したのよ。
みんなにジロジロ見られた恥ずかしかったわ。こっちの言うことにろくに
返事もしないし… 亮は、二歳になる前からちゃんとわたしの言うこと
聞いてたわ!」
そう一気に話すと舞は自分の部屋に駆け込んだ。
耕平は部屋の隅にいる息子に目を遣った。
床に寝そべりミニカーの車輪を一心に回している勇樹は、ごく普通の二歳児に
見える。確かに、亮と比べれば大人しく言葉や動作すべてにおいて遅れては
いるが、子供の成長には個人差がある。ましてや生まれてた時から両親の愛情
をたっぷり受けて育った亮と比較するのは酷なような気がし、成長の遅れを
さほど気にも留めていなかった。だが、舞が指摘した勇樹の行動はどれもみな
発達障害児のプロファイルと合致する。
分厚い専門書を閉じると耕平は椅子に深くもたれかかり目を瞑った。
自閉症は三歳位までに症状が現れる先天的な脳機能障害で、家庭環境などの
後天的要素とは関係なく社会性・コミュニケーション能力が欠如する発達障害
である。今の医学では生涯完治することはないが、適切な療育や支援、周囲の
正しい理解と対応によって社会の中で生活をしていく事は可能である。
耕平はインターネットの自閉症の子供を持つ母親のブログを開いてみた。
健常児の育児・教育と比べると想像を絶するような苦労がある。
自閉症児の子育てには家族、特に母親の深い愛情が不可欠だ。我が子の障害を
受け入れ伴に生きていく母親像と杏子はどう考えても結びつかない。
事実を知った時の彼女の反応を想像するだけで耕平の心は重く沈んだ。
* * * * * * *
ベッドから起き上がると下腹部に鋭い痛みが走る。
医者から貰った鎮痛剤を口に入れ窓際の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
眼下に見慣れた都心の景色が広がる。ここは、かつて耕平との週末の逢瀬に
利用したホテルである。
杏子はバッグからメンソールの煙草を取り出すと、痛みを紛らわすように
ふかし始めた。
彼女は今朝、都内の産院で中絶手術を受けた。
お腹の子はすでに四か月になっていた。避妊には十分注意していたし普段から
生理が不順なこともあって、妊娠には全く気付かなかった。もう少し遅れたら、
厄介なことになっていたと医者から言われ胸をなでおろした。
杏子は勇樹を生んだことを後悔している。四十近くになってからの高齢出産は
予想以上に身体への負担が大きく産後の回復にも時間がかかった。母乳を与えず
ジムやエステに通いつめて何とか体重は元に戻したものの、躰の線の崩れは
やはりどうすることもできない。
亜希から耕平を略奪するための最後の手段として選んだ苦肉の策も、結局、彼の
心まで奪うことはできなかった。やっと手に入れた結婚だったが、子供の泣き声や
生活臭のする家庭生活にはどうしても馴染めない。耕平が望むような良妻賢母に
なることなど到底無理である。
杏子の心も躰も満たされてはいない。求めれば拒絶はしないが、耕平は決して
自分から杏子の躰を求めようとはしない。その不満の捌け口として三沢との
不倫に走った。
三沢は、耕平がボストンを引き上げた直後MITの客員教授から妻の実家のある
ペンシルベニア大学の教授のポストに就いた。杏子がニューヨークへ行くたびに
ホテルでの逢瀬を重ねている。愛とか恋とかなどというロマンティックな関係では
なく、‘不倫’ の二文字の刺激的な響きのもと、お互い伴侶とでは満たされない
ものを激しいセックスで癒し不満を解消しているだけに過ぎない。
耕平は三沢との関係を薄々感づいているが問い正そうともしない。妻を愛している
なら平然としてはいられないだろう。そんな夫の無関心が杏子には堪らなかった。
それでもなお彼を愛している自分が惨めで許せなかった。
堕した子供の父親は夫ではなく三沢だった。酔った勢いで無防備なセックスを
楽しんだ代償としては少々高くついてしまった。
杏子は薬の効き始めた身体を再びホテルのベッドの中に潜りこませた。




