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Samsara~愛の輪廻~Ⅳ  作者: 二条順子
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10.愛の試練(1)

健介がADLの訓練を開始してから二週間が過ぎたある日、その事件は起きた。

朝、めぐみがいつものように病室に着くとトイレの中から大きな物音がした。


「ケン、どうしたの!? 大丈夫なの!? 開けるわよ!」

「開けるな! うっっ…」

中から呻き声がした。慌ててドアを開けると、健介がトイレの床の上に横向きに

倒れている。

「来るんじゃない、メグ!! ジェニー、ジェニーを呼んでくれ!」

凄い剣幕でそばに駆け寄ろうとするめぐみを制した。

健介は、車椅子から便器への移動中バランスを崩し床に投げ出された。

幸い、左手首の捻挫と軽い打撲で事なきを得たが、ADLの訓練が始まって

以来、他を寄せ付けないような気迫でセラピストとの一対一の訓練に集中して

いる。そんな夫の様子にどこか淋しいものを感じていためぐみは、妻よりも

セラピストを信頼しているような健介の態度に大きなショックを受けた。

そして翌日、さらに追い打ちをかけるような事を健介から告げられた。



「メグ、きのうは悪かった。実は… 」

ベッドから身体を起し静かに切り出した。

「…君に話さなければならないことが二つあるんだ。一つは… 

ずっと黙っていたけど、俺はもう二度と自分の足で歩くことはできない。

つまり、一生車椅子の生活ってことだ」

健介は辛そうに視線を落とした。


「もう一つは… 俺と、別れてほしい」

「?……」

めぐみは一瞬、健介の言葉の意味が理解できなかった。

ADLの訓練がどういう障害者を対象にしているかを知った時から、彼の

下半身の麻痺が永久的なものだと薄々感づいていた。それを妻に言い

そびれている夫の苦悩も解っていた。だから何も聞かず彼の口から、一緒に

生きて行って欲しいという言葉が出るまで、ひたすら待ち続けるつもりでいた。


「ケン、いったい何言ってるの? なぜ、私たちが別れなければいけないの?

ワシントンからここへ来る時、言ったよね、俺について来て欲しい、一生、

そばにいて欲しいって。あれは嘘だったの? 私、あの時、本当に嬉しかった。

どんなことがあっても生涯、この人について行こうと思った。それなのに、

一方的に別れて欲しいだなんて……」

涙であとは言葉にならない。


「嘘なわけないだろ! 俺だって… けど、事情が変わったんだ。きのうの

俺の無様な姿を見たろ。一人で便所にも行けないんだ。これから先、愛する

女を抱いてやることもできない。君はまだ二十八だ、そんな男のために長い

残りの人生を棒に振るような真似、させられない。

幸い俺たちには子供もいないし、今なら君もまだやり直せる。俺にできる

ことは君を自由にしてやることぐらいしかない。

愛してるんだ、メグ。頼むからわかってくれ、俺の気持ち」

健介も目を潤ませた。


「そんな勝手な気持ちわからない、分かりたくもないわ! 私たちの関係って

そんな薄っぺらいものだったの? なぜ一言、俺について来いって言ってくれ

ないの? 子供がいたら、私があなたの子供を産める身体だったら… 別れる

なんて言い出さなかったってこと? そんなの、そんなのあんまりよ!」

「そうじゃないよ、メグ! 聞いてくれ… 」

健介の言葉を振り切るようにめぐみは病室を飛び出した。

無性に悲しかった。夫の放った一言が心に突き刺さった。

子供のいない夫婦の絆とはこんなにも脆いものなのか・・・

事故以来、彼女の中でピンと張りつめていた何かが、プツンと切れてしまった。

支柱を失ったように全身から力が抜け、めぐみはその場に崩れるように倒れた。



血液検査の結果、赤血球・白血球・血小板の細胞が減る『汎血球減少』が見られた。

健介が恐れていたAA(再生不良性貧血)の再発だった。骨髄移植とは異なり、

免疫抑制療法などによる造血機能回復では完全に血液細胞の数を正常化させるのは

困難で、ほとんどの場合ある程度の血球減少は残る。そして約35%位の割合で

再発する。さっそくATGの再投与が開始された。一日12時間の点滴静注を

5日間続ける。副作用の伴う辛い治療である。


「ごめん、メグ。またこんな辛い思いをさせてしまって…」

副作用による高熱のため苦しそうな息遣いをする妻の枕元にそっと語りかけた。

同僚から見せられためぐみの検査結果の数値に愕然となった。自覚症状はあった

はずなのに、無理を押して夫の看病に当たっていたに違いない。体調に気づいて

やれなかったばかりか、彼女の心を踏み躙るような一方的な別れ話を突きつけて

しまった。思うように進まないADLの訓練に苛立ち、将来の不安と焦りから

自分でもどうして良いのか判らなくなっていた。

再び病に倒れためぐみを目の前にして、健介はどんなに彼女を愛しているか、

必要としているか、そしてこの先何があっても決して彼女を失いたくないと

いう想いを強くした。







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