第四話:日奈子じゃなきゃ、駄目なんだ…
駅の改札で、根岸を見送る。
「元気だしなよ。とりあえず、笑って」
ばんばんと腕を叩かれて、俺はとりあえず笑う。引きつってるのが自分でもわかる。
あの後、精神的に再起不能になった俺を、根岸は懸命に慰めてくれた。それを素直に嬉しいと思いながら、俺はどうしても、ヒナの笑顔を振り払うことができなかった。
「はー、なんで私、あんたを励ましてんだろ。あんた、覚えてる? あんたが好きなのに、私ってばお人好しだわー」
根岸にそう言われて、俺は力なく笑った。
「……ごめん」
自分でも、何に謝ったか解らないまま謝ると、根岸はけらけらと笑った。
「いーよもう。ていうか、あんたの落ち込んだ顔でチャラね、チャラ」
一体俺を何だと思ってるんだ。などとは言えるはずもない。
俺の気持ちはぶくぶくと深海へ沈んでいくようだ。
というか。俺は今まで何も考えてなかったけど。もしかして、俺が何も考えずに振ってきた女の子に、いつもこんな思いをさせてたのか?
いや、俺はまだ振られてない! ……と思うけど。うん、まだ振られた訳じゃない。アレが彼氏だと決まった訳じゃない。うん、大丈夫だ!
だけど。
振られてないのにこんなに落ち込んでる俺って。弱すぎて情けない。情けなくて切ない。あーもう、なんだって言うんだ。元気出せ俺!
そうは思っても沈んでいく思考。見上げた空のように暗い場所。
なんで俺、ヒナが好きなんだろう。こんなにも愛おしい? ヒナ以外、目に入らないんだろうか。根岸を好きになっていれば、きっとこんな苦しみはなかったのに。
だって仕方ない。
俺が好きなのはヒナで、ヒナ以外どうしても好きになれなくて。
ヒナが大切で。ヒナが大好きで。
俺ってばモテるから、今までこんなに長い間好きだった子は、一人もいない。いつも向こうから言い寄ってきて、適当に好きになって適当に付きあって。そして最後は向こうから離れていく。
「私のことなんて、好きじゃないんでしょ!」
そう捨て台詞を吐いていく子だっていた。
「あなたが私を好きなのかわからなくて、不安でしょうがなかった」
そう泣きながら訴える子だっていた。
でも俺には。彼女たちの気持ちがわからなかった。
だって俺はそれなりに好きだよ。それだけじゃ、駄目? 一体なにが不満なの?
きっと俺は、相手の気持ちなんて一つも考えずに来たんだと思う。真剣に誰かの事を考えた事なんて、きっとヒナ以外、ない。
仕方ない?
違う、仕方なくない。
相手の気持ちがわからなくて、こんなに不安になるなんて、昔の俺なら笑い飛ばしてるところだろう。
「好きでもない子と付きあうわけないじゃん」
なんて笑い飛ばして。
そんなことを考えて、俺はずるっとへたり込んだ。
「最低だ、俺……」
頭を抱えるようにしゃがみ込む。二十六歳、赤峰純。家の近くの三丁目、住宅地の路上の端っこで。なんて情けない図なんだろう。
「やだっ!」
そんな俺の耳に飛び込んできた声。可愛くて、鈴のようで、澄んでいる声。
「……ヒナ?」
俺は立ち上がって、声のした方へ歩き出した。
俺が座り込んでいた三丁目の路上からさほど離れていない、四丁目の一角、児童公園。どうやら声はそこから聞こえてきたらしい。道路からは木の陰になって見えないが、ヒナともう一人、女の声がする。
「根岸?」
良く聞くと、どうやらそのもう一人は根岸の声に聞こえる。しかし根岸のことはさっき駅で見送ったというのに。どうして根岸がいるんだろうか。
二人に気がつかれないように、俺は木陰から覗いた。
公園の中には思った通り、ヒナと根岸。ヒナは困った顔で根岸を見て、根岸は不機嫌な顔でヒナを見ていた。
「説明してよ、なんで?」
根岸がヒナに言う。
「だから、なんであなたに理由を言わなきゃいけないんです?」
ヒナが困った声で答える。
一体、なんの話をしているんだろうか。
「あんたね、赤峰を悲しませてるんだよ! わからないの?」
俺の話かよ!? 思わずこけそうになる。ちょ、ま、えー?
「……純ちゃんのこと、好きなんですか?」
混乱する俺をよそに、ヒナが根岸に冷静に問う。根岸は一瞬詰まった後、大きく頷いた。
「そうよ。赤峰が好きよ? 悪い?」
「悪くはないです。……だからそんなに一生懸命なんですか?」
相変わらず、冷静に言葉を発するヒナ。いつの間にかヒナの顔から表情が消えて、美少女だから余計に無表情が怖い。そんなヒナに根岸は一瞬間をおきながらヒナに答える。
「だったらなんだって言うの?」
「私に言うより、純ちゃんにそれを伝えた方が早いんじゃないですか?」
俺の心臓が、一際大きく脈を打った。たぶん、根岸も一緒だったんじゃないかと思う。根岸が俯いて、公園には重い沈黙が降りて。
「……そんなの」
ぽつん、と小さな何かを落とすように。根岸が声を出した。
「そんなの、もうとっくに伝えて、とっくに振られてるわよ!」
強がっているのかいないのか、根岸の声はところどころ揺れていて、泣いているようにも聞こえた。
「赤峰はね……あいつはね!? あなたが好きなんだよ。だからあなたの行動一つであれだけ……!」
ヤバイ。と思った。
ヒナは俺の気持ちを知らない。伝えてない。こんな、こんな風に伝えたかったんじゃない。ちゃんと自分の口から。ほんの少しばかり根岸を恨んだ。人の気もしらないで、そんな軽々しく言って欲しくなかった。
根岸のバカ野郎!
そうは思っても、もう伝わってしまったことは取り消せない。ヒナに知られてしまった。ヒナはどんな反応をするんだろうか。
ヒナを伺い見ると、どうにも言葉にできない複雑な表情をしている。
「……ヒナ?」
俺の呟きなんて、もちろん二人には聞こえない。ヒナは反応することなく、ただ笑って良いのか、それとも怒ったら良いのか、その間で揺れる顔で根岸を見ている。
「純ちゃんは、優しいだけだよ」
ヒナが、俯いた。
「純ちゃんはね、優しいから私の傍にいるだけなの」
「そんなことは」
「それだけ、なの」
根岸の声を振り切って、ヒナが顔を上げてきっぱりと言った。その顔には何の表情も読み取れなくて、根岸も声を詰まらせたまま。
ほんの数秒なのか、それとも数分は経っていたのか、公園には妙な沈黙が落ちて、部外者であるはずの俺までいたたまれなくなった頃。ヒナが泣き出しそうな顔をした途端、急に踵を返して走り出した。
「ちょ、日奈子ちゃん!」
根岸は追うことなくヒナの後ろ姿を見たままで。
俺は。
ヒナの後ろ姿を、今度こそ見失わないように、追いかけた。
「ヒナ! ……ヒナ!!」
ようやくヒナに追いついて、走りながら手を取ると、ヒナは怯えた顔で俺を見返してきた。街道の横、歩道の端っこ。
「なに、逃げてんだ、よ……」
二人とも息があがって、道行く人々は不思議そうな顔で俺らを見ているけど、そんなことには構っちゃいられない。
「なんで、純ちゃんが、追いかけて、来るの」
そりゃごもっとも。ヒナは俺が掴んだ左手が気になるのか、ちらちらと見ている。
「ごめん、二人の会話、聞いてて」
言うと、パッと顔を上げた。
「……人を振る理由に、私を勝手に使わないでよ」
「そりゃ誤解だって」
うん、本当に誤解だ。俺は 一言だって好きな子がいるから付きあえない、なんて言葉で誰かを振った事なんて、ない。これは絶対。ヒナに誓って絶対ない。
「あの人、純ちゃんは私を好きなんだって言ってた」
「あー……」
「それは本当? それとも、振る理由に使ってるだけ?」
いつになく興奮した様子のヒナに、俺は何も答えられない。ヒナの気持ちだけが、ヒートアップしていく。
「純ちゃんは、ただ優しいから傍にいるのかもしれないけど。私っ、私はっ! 純ちゃんの傍にいる理由なんて、一つしかないんだよっ!?」
ばっと手に衝撃が走って、ヒナが思いがけない力で俺の手を振り払った。
「……純ちゃんの、バカッ!!」
ヒナは大声で言うと、急に走り出した。しかも車道に向かって。
「ちょ、ヒナ!」
バカはお前だー! と叫ぶ暇もなく、ヒナは車道に飛び出して、そこにクラクションを鳴らした車が猛スピードで走り込んでくる。
「ヒナーー!!」
無我夢中、とでも言うのか、火事場の馬鹿力なのか。俺は自分でもわからないけれど、人生で一番早く走った気がする。
迫る車の前に飛び出し、両手でヒナを突き飛ばし。ヒナを飛ばしたその感触は確かに覚えているのに。その衝撃に、俺は満足感さえ覚えたというのに。
次の瞬間の事は、全く覚えていない。