第三話:日奈子の隣は俺だけだ!
やっぱ定期ないと金もかかるし時間もかかる。昨日はうっかりヒナに会って定期なくしたことすら、どうでもよくなっちゃったけど。よくよく考えたら俺の家から会社まで、片道千円かかるってどういうことだ。おいおい、こりゃ早急に定期買わないとまずい。でも給料日前で金ない俺。なにこれ。すっげー情けない。
なんて思って会社につくと、根岸が笑顔で近づいてきた。昨日の今日でタフなヤツ。お陰で俺まで普通の対応。
「おはよう!」
「おう、おはよー」
「なに? 元気ないわねー」
「んー。ちょっとね」
ものっすごい明るい声で私のせい? なんて聞いてくるから、思わず吹き出す。
「明るく自虐すんなよ」
「違う違う。本当に私のせいかも、と思って」
そう言って、根岸は俺の目線に、四角いものを出した。
「あ!」
「あ、やっぱりこれ、あんたの定期入れだったんだ」
なに飄々と言ってるんだ。おい、お前、俺の定期入れ見たことあるだろうが! とは思っても、叫べないのが俺。
「ど、どこで拾ったんだよ」
しどろもどろ。
「昨日の食堂。あんたが行った後に気がついたの」
「おま、早く言えよ!」
お陰で昨日今日で二千円の出費だっつの!
が、根岸は相変わらず飄々としている。あまつさえにやりと笑いやがったし。くそー、なんか負けてる気がするのはなんでだ。
「な、なんだよ」
「良い物、見ちゃった」
なんだ、その天国にでもいるかのような弾んだ声は。思わず心でつっこんで、根岸の顔を伺い見る。
「良い物?」
根岸はにやりとした嫌な笑みを濃くして、定期入れをぱかっと開いた。
「あ、あーー!」
そこには一枚の、ヒナの写真。思わず声を出すと、根岸はすまし顔でぱたんと定期入れを閉じた。
「好きな子?」
顔を引きつらせながらも、嫌々頷く俺。
「彼女?」
もっと顔を引きつらせて、首を振る俺。
「ふーん、片思いなんだ?」
「悪いかよっ!」
定期入れを取り戻そうと手を伸ばすと、ひょいとかわされた。
「ただで返すと思う?」
「思わない。悪いがお前はそういう女だ。うん」
「そう正直に言われると、ちょっとむかつくわー」
俺にどうしろと?
「いや、ごめん。本当、ごめん。だから、返して?」
「嫌」
手を合わせて我ながら情けない声で言ったことは、呆気なく却下された――。
「ごめん! 本当にごめんな」
ヒナの家の前。ヒナの帰宅を待ち伏せて、俺はヒナにぱん、と目の前で手を合わせる。ヒナは一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに首を振った。
「純ちゃん、仕事なんでしょ? 仕方ないよ」
ああ、せっかくのデートだったのに。ヒナと二人きりで出かけられる、しかもヒナが誕生日なんて絶好の告白日和になるはずだったのに!
くそー、根岸のヤツ。
「定期返す代わりに、日曜日遊んで」
だなんて。ヒナの写真を人質に取るなんて、なんて卑怯なんだ!
などと心の中でわめいても、断り切れなかった俺。なんで強く言えなかったんだ、俺。ふがいない自分が情けない。
そんな俺に、ヒナはにっこりと笑いかける。
「そんな泣きそうな顔しないでよ。私の方なら大丈夫だからさ」
なんて優しいんだヒナは! 思わず抱きしめそうになって、俺はすんでの所で止まる。くっ、ここで抱きしめたら今までの苦労が! いや、なんの苦労かわからないけど! とにかく駄目だ。落ち着け、俺。
「本当に、気にしないで? クラスの子に遊ぼうって誘われてるし」
きゃらっと笑うヒナに、俺も笑顔を返す。
「そうか……でも本当にごめんな」
そんな気にしなくて良いってば。ヒナはそう笑って言うと、家に戻っていった。
そんなこんなで日曜日。良くも悪くも天気は晴天。悪くはないか。しかし俺の心はどんより曇り空。とはいえ、根岸と一緒にいるのは楽しい。それがただ恋やら愛やらでないだけで。
待ち合わせ場所に現れた根岸は、普段パンツスーツが多いためか、フレアスカートが嫌に可愛らしかった。これで俺が根岸を好きなら、ときめきを覚えるんだろうと思うくらいには。ただやっぱり俺はヒナが好きで、このスカート、ヒナが着たら可愛いんだろうなどと根岸にひどく申し訳ないことを考えていた。
「もー、そんなくっらーい顔しないでくれる? 今日は普通の友達として遊ぶんだからさ!」
着た早々、俺の背中をバシバシ叩きながら根岸が言う。それにようやく俺も笑顔になって。
「そうだな」
遊ぶなら思いっきり。そう思って笑うと、根岸も笑った。
正直に言うと、根岸と遊ぶのは楽しかった。手を繋いだりはしなかったが、根岸の歩くテンポは俺が合わせなくても平気なくらいだったし――つまり根岸はスカートなのに大股で歩く女なのだ――俺の馬鹿話にも大声で笑ってくれる。一緒になってバカなほど笑いあえる。
根岸となら、自分の気持ちを抑えなくても良いのかもしれない。
そんなバカなことを考え始めたのが、きっといけなかったんだと思う。たぶん。いや。きっと。
「ちょっと疲れたー」
なんて根岸が言うので、俺らが今いる場所は洒落たオープンカフェ。と言っても、直接道に面しているわけではなく、テラスは道よりも一番高くなり木の柵もあるので、こちらからは道行く人を見られるが、道からこちらを覗くことは難しい。
「ほい、お待たせー」
俺が根岸と自分のコーヒーを持って席に着くと、根岸はふくらはぎを軽くマッサージしていた。
「足、痛い?」
「うーん、このパンプス慣れないから、ちょっと疲れちゃったみたい」
強がっているのか、笑っていても少しだけ眉が寄っている。
「なんだよ、ムリしてたのかよ」
「そういうわけじゃないんだけどさー」
往来に目を向けながら話す。人の波が激しい。さすが日曜日。
「あたた……ちゃー、やっぱり靴擦れしちゃったか」
根岸が自分の足を覗き込んでる間、俺はやることもなく、かといって根岸の足を見るのも失礼というか気まずい気がして、流れていく人を見ている。これでヒナが靴擦れしたー、とかなら、きっと俺は血相変えておろおろしてるんだろう。え? 差別? しょうがないじゃん。だって俺の愛しい愛しいヒナなんだからさ。
なんて思いながら通りの見ていた俺の瞳に映ったもの。
「あ」
「赤峰?」
根岸の声に気を取られることなく、俺は席を立ち上がりカフェの入り口まで走る。
「ちょっと、赤峰?」
ひょこひょことついてきた根岸が、不審そうな顔で俺を見て、俺の見つめる方を見る。
「なに? 誰か知りあいでもいたの?」
「……ヒナ」
「どうしたのよ、赤峰」
俺の瞳に映ったもの。
楽しそうに笑う、ヒナ。
ヒナの隣を歩く、ヒナと同い年くらいの、男。
「ちょっと、赤峰?」
根岸に手を揺すられて、はっとする。人混みを見つめても、ヒナの姿はもう見えない。
――気にしないで? クラスの子に遊ぼうって誘われてるし。
ヒナの言葉が頭をよぎる。クラスの子。それだけで俺は、クラスの女友達と遊ぶのかと思ってたけど。
「そ、そうか……男だったのか……」
俺はよろよろと傍の柱に吸い寄せられるように抱きつき。
ヒナが消えていった方向を、呆然と見ていた。