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『女騎士は捨て石で十分だ』と砦を捨てた団長へ――ええ、あなたなしで勝ちました

作者: 灯野ましろ
掲載日:2026/07/25

敵軍の投石が北門を揺らしたとき、騎士団長グレゴールは、すでに馬上の人となっていた。


「団長。どちらへ向かわれるのですか」


私が問いかけると、グレゴールは磨き上げられた銀色の兜をかぶりながら、面倒そうにこちらを見た。


「援軍を呼びに行く」


再び轟音が響いた。


北門脇の城壁から石片が飛び散り、警鐘が激しく鳴り続ける。


レグナ砦は、兵舎だけでなく職人街や倉庫、礼拝堂までを城壁内に抱えた国境城塞だった。東西は切り立った崖、南は馬が二列で進むのがやっとの山道に守られ、大軍と投石機を展開できるのは北側の平地しかない。


北門から城内へ入ると、低地の酒蔵通りと染物通りに分かれる。二本の通りは中央広場へ上る石段の下で合流し、その地下には、山手の貯水池へつながる、十年前に閉鎖された旧水路が残されていた。


砦を包囲する敵兵は、およそ千二百。


団長を除き、砦に詰める正規騎士は百二十八名。


城壁内へ避難してきた住民は、五百人を超えている。


「伝令ではなく、団長ご自身が向かわれるのですか」


「この状況を正確に説明できるのは、指揮官である私だけだ」


中庭には、グレゴール直属の男性騎士三十二名が並んでいた。


いずれも新しい甲冑を身につけ、状態のよい軍馬に跨がっている。荷馬車には、保存食、矢、治療薬まで積み込まれていた。


「三十二名全員を連れていかれるのですか」


「道中で敵の斥候に襲われる可能性がある」


「砦の防衛にも必要です」


「副団長」


グレゴールは、子供に言い聞かせるような声で言った。


「君は自分の立場を忘れている」


「忘れてはおりません」


「ならば、団長である私の決定に従え」


彼の背後で、直属の騎士たちが薄く笑った。


王国騎士団の上層部は、男によって占められている。


私は十八歳で入団し、十五年かけて、女性として初めてレグナ砦の副団長まで上り詰めた。


一方、グレゴールが団長になったのは三年前。先代団長の甥だったからだ。


訓練計画も、哨戒路も、防衛設備も把握していない。それでも王都から視察が来れば、私の作った報告書を読み上げ、自分の功績として語っていた。


北門から、血まみれの騎士が駆け込んできた。


砦で私に次ぐ指揮権を持つ騎士隊長、ミレイユだった。


「団長! 北門脇の外壁が崩れました! 次の投石で門が破られます!」


グレゴールは彼女を一瞥しただけだった。


「聞いたな、副団長。二刻ほど持たせろ」


「どこの部隊へ援軍を要請されるのですか」


「状況を見て決める」


「帰還予定は」


「援軍を確保し次第だ」


「正式な指揮権の移譲をお願いします」


「そんなものは必要ない」


グレゴールは苛立ったように手綱を引いた。


「私は援軍を呼びに行くだけだ。団長は私のまま。君は私の命令に従って、ここを守ればいい」


「兵糧と治療薬を置いていってください」


「道中で必要になる」


「矢だけでも」


「敵に追われた場合の備えだ」


つまり、砦に残る者を守るためではなく、自分たちが安全に逃げるために使うということだ。


側近のバルドが鼻を鳴らした。


「副団長殿。ここは女騎士たちに任せておけばよいでしょう。男の精鋭まで、勝ち目のない戦いに残す必要はありません」


ミレイユの血に濡れた指が、剣の鞘を強く握った。傷ついた肩が、怒りに震えている。


グレゴールはバルドを咎めなかった。


むしろ当然の理屈であるかのように頷いた。


「そういうことだ」


そして、私を見下ろした。


「女騎士は捨て石で十分だ。君たちが二刻持たせれば、私は援軍を連れて戻れる」


北門へ、三度目の投石が命中した。


太い横木の折れる音が響く。


「副団長とは、そのための役職だろう」


私は腰の剣を抜いた。


「承知しました」


グレゴールの表情が緩んだ。


「話が分かるではないか」


「ただいまより、この砦の全指揮を私が執ります」


「何?」


「団長が指揮を放棄される以上、残された最高位の騎士は私です」


「放棄ではない。援軍要請だ」


「要請先も帰還予定も決めず、正式な命令書すら残さない援軍要請ですか」


グレゴールが強く手綱を引き、白馬が苛立ったように首を振った。


「女が、団長に口答えをするな!」


「時間がありません」


私は彼に背を向けた。


「お急ぎください。北門が破られる前に逃げなければ、皆さまの大切な軍馬が傷つきます」


背後で男たちが騒めいた。


彼らを力ずくで止めることはできたかもしれない。


だが南門を閉ざせば、三十二名の武装騎士と味方同士で斬り合うことになる。北門が崩れる寸前に、守備兵をそちらへ割く余裕はなかった。


物資を持ち去らせるしかない。


腹立たしいほど、それが最も多くの命を守る判断だった。


私は振り返らず、北門へ走った。


やがて南門が開き、三十余頭の蹄音と、荷車の車輪が軋む音が砦から遠ざかっていった。



     *



北門は、すでに半分崩れていた。


敵兵が壊れた門扉を押し退け、狭い隙間から次々に入り込んでくる。守備に残った騎士たちが、槍を並べて押し返していた。


「副団長!」


額から血を流したミレイユが叫ぶ。


「団長は?」


「援軍要請へ向かった」


私は答えた。


「直属の三十二名と、軍馬、矢、食料、薬を連れて」


騎士たちの顔に、怒りと絶望が浮かんだ。


「私たちを置いて?」


「戻ってくるのですか」


「逃げたのではありませんか」


私は答えなかった。


戻るかもしれない。


戦いが終わり、自分が英雄として迎えられると判断したときに。


「いま必要なのは、団長の話ではない」


私は折れかけた門を見た。


「第一隊は後退。北門を捨てる」


「城内へ敵が入ります!」


「入れさせる」


ミレイユが目を見開いた。


「正面で戦えば、数に押し潰される。酒蔵通りと染物通りへ誘い込み、敵を分断する」


「中央広場は?」


「そこまで行かせない」


団長たちが去った後、砦に残った正規騎士は九十六名。


女性六十一名、男性三十五名。


王都で昇進の道を閉ざされた女騎士や、上官に疎まれた兵は、危険な国境勤務へ回されることが多い。そのためレグナ砦には、ほかの部隊より多くの女性騎士が集められていた。


古い装備しか与えられなかった者。家柄がないため昇進できなかった者。団長の酒宴へ参加せず、冷遇されてきた者。


それでも、全員が持ち場に残っていた。


騎士団付き衛生兵のトーマスが、負傷者を背負って走ってきた。彼は正規騎士ではないが、この砦で誰より多くの命をつないできた男だ。


「副団長、治療薬がほとんど残っていません」


「布を煮沸してください。酒蔵の蒸留酒も使います」


「承知しました」


「歩ける負傷者には矢を運ばせる。ただし無理はさせないで」


老騎士のガストンが弩を抱えて現れた。


「北塔の弩は使えます」


「弦が古いはずです」


「三日前に、女房が物干し綱を編むために買っていた麻糸で、予備弦を撚りました」


「なぜ奥方の麻糸を」


「団長が申請を通してくれなかったので」


こんな状況でなければ、笑っていたかもしれない。


「北塔を任せます。それから、すぐに赤い狼煙を三度上げてください。東部駐屯地の監視塔から見えれば、敵襲と援軍要請が伝わります」


「弩も狼煙も、承知しました」


私はミレイユを呼び止めた。


「石工と鍛冶職人を一人ずつ連れて、水門室へ向かってください」


「旧水路を使うのですか」


「まだ分かりません。ですが、動かない切り札は切り札になりません」


旧水路は、かつて酒蔵と染物工房へ水を送るために造られた。通常の通水は十年前に廃止されたが、火災時に二つの通りへ水を回す非常給水路として、水門と巻き上げ機だけは残されている。


グレゴールが点検費用を削ろうとするたび、私は防火設備だと言い張り、年に一度の作動確認だけは続けさせてきた。


「水路の石積みは石工に。鎖と巻き上げ機は鍛冶職人に確認させてください」


「承知しました」


「確認が終わったら、すぐに戻って」


ミレイユが部下と職人を連れて走り去る。


私は剣を掲げた。


「聞いてください!」


騎士だけでなく、避難してきた住民たちもこちらを見た。


「敵は多い。援軍が来る保証もありません」


不安そうな声が重なった。


嘘をついて安心させるつもりはなかった。


「ですが、敵はこの城塞の構造を知らない。私たちは知っています」


城壁も、路地も、倉庫も、井戸も、地下水路も。


私はこの砦のすべてを、十五年間歩いてきた。


「剣を持てる者だけが戦うのではありません。石工は崩せる壁を選んでください。鍛冶職人は杭と鎖を。猟師は屋根へ。力のある者は荷車を運んで」


人々が動き始める。


「幼い子供と、歩くことのできない老人は高台の礼拝堂へ。年長の子供たちは、井戸と治療所の水運びを手伝ってください」


私は騎士たちへ向き直った。


「女も男も関係ありません」


これは、逃げた団長への反論ではない。


ここに残った全員への命令だった。


「生きて朝を迎えたい者は、私に従ってください」


沈黙の後、ミレイユの代わりに第一隊を預かっていた女性騎士が剣を掲げた。


「副団長に従います!」


ガストンも弩を持ち上げる。


「俺もだ」


トーマスも声を上げた。


「負傷者は一人も置いていきません」


騎士たちが次々に剣を掲げた。


住民たちも、それぞれの持ち場へ走り出す。


誰一人として、役に立たない者はいなかった。



     *



敵兵を北門から引き入れ、低地の酒蔵通りと染物通りへ誘導した。


二本の通りは、中央広場へ上る石段の下で一つになる。四人並ぶのがやっとの狭路へ敵を分けてしまえば、千を超える兵も同時には戦えない。


荷車を横倒しにして道幅をさらに狭め、風上の屋根から炉灰と細砂を落とした。


敵兵たちは目と口を覆い、盾の列を乱す。


「第一列、支えて!」


敵の盾が槍にぶつかった。


新兵たちの腕が震える。


「押し返そうとしないで! 三呼吸だけ受け止めなさい!」


一つ。


盾に押された槍が軋む。


二つ。


一人の新兵が膝をつき、隣にいた男性騎士がすぐに穴を埋める。


三つ。


屋根から、再び炉灰と細砂が降り注いだ。


「後退!」


私たちは一斉に下がった。


次の瞬間、石工たちが支柱を外す。


古い倉庫の側壁が崩れ、瓦礫が通りの半分を塞いだ。先頭の敵兵と後続との間が開き、長い隊列が二つに分断される。


歓声が上がったが、敵はまだ門の外に数百人いる。


鍛冶職人たちは石畳へ太い杭を打ち込み、その間へ鎖を張っていた。壊れた木箱や布をかぶせれば、薄暗い通りでは見分けにくい。


さらに石段脇の鉄環へ、荷車を固定するための鎖を通す。


勢いよく踏み込んだ敵兵が足を取られ、後続を巻き込んで倒れた。そこへ屋根から石と矢が降る。


正面から押し返すのではない。


進ませ、分け、止める。


私たちは通り一本ずつを、防壁へ変えていった。


日が沈む頃には、味方の半数近くが傷を負っていた。


ミレイユは水門室から戻っていたが、北門で負った左肩の傷が悪化し、左腕が上がらなくなっていた。


「水門は動きます」


「状態は」


「石積みに大きな崩れはありません。巻き上げ機は錆びていますが、軸に油を差せば使えるそうです。ただ、開くまで少しかかります」


「開放の準備だけ進めてください。鎖の遊びを取り、安全栓は一本だけ残すように」


「水門そのものは動かさずに?」


「ええ。合図が鳴ったら、最後の安全栓を抜いて全員で巻き上げます」


ミレイユが頷く。


「水門室は城壁上の連絡路へつながっています。開いた後は、北門側の階段へ回れます」


「では、第三隊を連れて水門室へ。開放後は連絡路を通り、北門側から敵の後方へ回ってください」


「承知しました」


トーマスの治療所には、横たわる場所すら残っていなかった。


矢が私の左上腕をかすめる。


裂けた袖の上から布を巻き、剣を握り直した。


「副団長」


男性新兵のルカが、血に濡れた槍を握っていた。十七歳になったばかりだ。


「団長は、戻ってきますか」


「分かりません」


「戻ってきたら、助かりますか」


私は南の空を見た。


援軍の松明は、まだ見えない。


「いま戻ってきても、団長一人では何も変わりません」


ルカの顔が曇る。


「ですが、私たち一人一人も、単独では何も変えられません」


周囲を示す。


屋根へ上がる猟師。


槍を握る騎士たち。


負傷者を運ぶトーマス。


井戸から水を運ぶ年長の子供たち。


「だから、一緒に戦っています」


ルカは頷き、槍を握り直した。


「はい」


日が落ちきる前に、私は低地にある二本の通りから、住民と負傷者を高台の礼拝堂へ移すよう命じた。


敵の攻撃を避けるためだけではない。


旧水路を開けば、水は低地の酒蔵通りと染物通りを通り、二本の通りが合流する石段下へ集まる。


水そのものに敵を押し流すほどの力はない。


だが、水に隠れた鎖や瓦礫に足を取られれば、密集した隊列は立て直せなくなる。


「槍隊は石段の上へ。弓兵と猟師は屋根に残ってください。住民、負傷者、衛生兵は礼拝堂へ」


私は鐘楼の見張りを呼んだ。


「総攻撃が始まったら、警鐘を止めてください」


「止めるのですか」


「作戦の合図に使います」


北塔から上げた狼煙は、敵からも見えているはずだ。援軍が来る前に決着をつけようとすれば、敵将本人が前へ出てくる可能性がある。


「敵将の白い羽飾りと、松明に照らされた指揮官旗を見てください。二つ目の荷車を越えたら、大鐘を短く一度。その十呼吸後に、もう一度鳴らすように」


「一度目で退避、二度目で水門ですね」


「そのとおりです」


私は周囲の騎士たちへ告げた。


「最初の鐘が鳴ったら、低地の全隊は石段より上へ退避。屋根の者は、そのまま援護を。二度目の鐘が鳴るまで、低地に残ってはいけません」


最後に、ミレイユを見た。


「二度目の鐘を合図に、安全栓を抜いて水門を開いてください」


「分かりました」


「開放後、城壁上の連絡路から北門側へ回り、敵の後方を塞いで」


「副団長は」


「誘導隊の最後尾に残ります」


ミレイユは歯を食いしばった。


「団長と同じことを言わないでください」


胸を突かれた。


確かに、言葉だけなら似ている。


私は腰から副団長章を外した。


「これを預けます」


ミレイユの手に置く。


「私が倒れた場合は、あなたが全指揮を引き継いでください」


「……はい」


「私は逃げません」


彼女の目をまっすぐに見る。


「ですが、死なないと約束することもできません。だから、後を託します」


ミレイユは副団長章を握りしめた。


「必ず返しに来ます」


「待っています」



     *



夜半、敵軍が最後の総攻撃を始めた。


通常の警鐘が止み、城塞を武器と怒号の音だけが満たす。


重装兵が先頭に立ち、荷車の障害物を押し退けてきた。炉灰も矢も残り少ない。張り巡らせた鎖も、一本ずつ切断されていく。


やがて北門の奥から、数十本の松明が近づいてきた。


黒い甲冑。


白い羽飾り。


松明に照らされた黒い指揮官旗。


敵将が親衛隊を率い、自ら城内へ入ってきたのだ。


「北塔の狼煙は見えた!」


敵将が剣を掲げる。


「援軍が来る前に広場を奪え! 夜明けまでに、この城を落とす!」


親衛隊が、二つの通りの合流地点へ雪崩れ込んだ。


「女を指揮官にするとは。この国も終わりだな」


敵将が私を見て笑う。


「そうかもしれません」


私は剣を構えた。


「ですが、あなたはその終わりかけの国に、一晩止められています」


敵将の笑みが消えた。


彼の白い羽飾りが、二つ目の荷車を越える。


大鐘が短く鳴った。


一度目。


「退避!」


誘導隊が石段へ走る。


私は最後の騎士の背を押した。


「上へ!」


全員が石段を駆け上がる。


私も続こうとしたとき、敵将と数名の親衛兵が石段への道を塞いだ。


敵将の剣が振り下ろされる。


受け止めた腕が痺れた。


二撃目をかわし、横へ回る。敵将を倒す必要はない。二度目の鐘が鳴るまで、ここに留めればよい。


親衛兵の槍を剣で逸らす。


屋根から放たれた矢が、別の親衛兵の足元へ突き立つ。


石段上では、味方の槍隊が穂先を並べている。


敵将が再び剣を振り上げた。


私は石段脇の鉄環へつながれた鎖を掴んだ。


大鐘が、もう一度鳴る。


二度目。


遠くで安全栓の外れる金属音がした。


続いて、巻き上げ機の軋む音が響く。


すぐには何も起こらない。


敵将が踏み込んだ。


「その鐘が合図か? 何も起きぬぞ!」


私は剣を受けながら答えた。


「少々、古い設備なもので」


数呼吸遅れて、地下の奥から低い轟音が近づいてきた。


旧水路から噴き出した濁流が、低地の二本の通りを走る。


水は浅い。


だが石畳を洗う勢いは強く、鎖も杭も、崩れた瓦礫も水の下へ隠れた。


先頭の親衛兵が、見えなくなった鎖へ足を取られる。


一人が倒れ、その背へ後続が折り重なった。倒れた兵と荷車が新たな障害物となり、密集していた隊列が前から崩れていく。


水そのものが、敵を押し流したのではない。


足場と隊形を奪ったのだ。


私は石段へ片足をかけ、鉄環へ固定された鎖を掴んで身体を支えた。


敵将も倒れかけた親衛兵に進路を塞がれ、石段下へ取り残されている。


石段の上では槍隊が正面を塞ぎ、屋根の弓兵が一斉に弦を引いた。


そのとき、北門側から声が上がる。


水門を開いたミレイユ隊が、城壁上の連絡路を走り、北門側の階段から降りてきたのだ。


ミレイユたちが、敵将の背後を塞ぐ。


親衛隊は水と瓦礫で前後に分断され、もはや一つの部隊として動けない。


私は剣先を敵将へ向けた。


「降伏してください」


敵将は周囲を見渡した。


正面には槍隊。


頭上には弓兵。


背後にはミレイユ隊。


残った親衛兵たちも、次々に剣を下げ始めている。


「城外には、まだ我が軍がいる」


「ええ」


私は答えた。


「ですが、あなたが撤退を命じなければ、あなたはここで死に、低地に入った親衛隊も帰れません」


「断れば?」


「残った兵は指揮官を失ったまま、援軍と戦うことになります」


敵将は、倒れた部下たちを見た。


しばらくして、握っていた剣を石畳へ落とす。


「角笛を」


敵将は腰に下げていた角笛を手に取り、低く長い音を三度響かせた。


松明に照らされていた黒い指揮官旗が降ろされる。


北門の外でも進撃が止まった。


低地に取り残された敵兵の一部は武器を捨て、まだ動ける者は負傷者を支えながら北門へ戻っていく。


やがて城外の部隊も隊列を組み直し、負傷者を回収しながら北の平地へ退き始めた。


夜明け前。


敵軍は包囲を解いた。


捕らえた敵将の武装を解き、捕虜として拘束した。


鐘楼から、今度こそ勝利を告げる鐘が鳴った。


私は石段へ座り込んだ。


ミレイユが近づき、副団長章を差し出す。


「お返しします」


「ありがとう」


「団長は、戻りませんでしたね」


「そうですね」


「私たちは、団長なしで勝ったのですね」


私は答えず、朝日の中へ目を向けた。


ルカは血に濡れた槍を抱え、ガストンは弩を肩にかけている。トーマスは休む間もなく、次の負傷者のもとへ走っていた。


ミレイユも上がらない左腕をかばいながら、私の手へ戻った副団長章に一度だけ目を落とした。


誰一人、捨て石ではなかった。



     *



援軍が到着したのは、その日の午後だった。


先頭を走ってきたのは、東部方面軍を率いるローデリック将軍だった。


捕虜となった敵将の身柄と、押収した指揮官旗を引き渡した後、将軍の後方にいる男へ目を向ける。


二人の騎士に挟まれていたのは、グレゴールだった。


鎧には傷一つない。


白い外套にも、泥すらついていなかった。


後に聞いたところによれば、グレゴールたちは王家の狩猟館で発見されたという。


狩猟館の管理人が、軍需物資を積んだ騎士の一団が昼間から酒蔵を開けているのを不審に思い、近くの見張り所へ知らせた。その報せを受けたローデリック将軍が、進軍の途中で彼らを確保したのだという。


グレゴールは、自分の撤退は作戦であり、砦の防衛もすべて計画どおりだと言い張った。そのため将軍は、現地で事実を確認する目的で彼を連れてきたらしい。


馬を下りたグレゴールは、監視する騎士を振り切るように私へ近づいてきた。


「エレナ!」


そして、住民や兵士たちへ聞かせるように声を張った。


「よくぞ、私の命令どおり砦を守った!」


城門前にいた者たちが、一斉に黙った。


私は負傷者の搬送を指揮していた。


「命令どおり、ですか」


「ああ。私が援軍を呼びに出て、君が籠城する。すべて計画どおりだ」


「援軍要請は、どなたがなさったのですか」


「当然、私だ」


ローデリック将軍が馬上から告げた。


「嘘をつくな」


グレゴールの笑顔が固まった。


「将軍?」


「昨日の昼過ぎ、東部駐屯地の監視塔が、北塔から上がった三度の赤い狼煙を確認した。我々は直ちに出発した」


将軍は私を見た。


「レグナ砦からの緊急援軍要請として共有されている信号だ」


「私は、その狼煙を上げるよう命じていたのです」


グレゴールの笑顔が、わずかに引きつった。


「あなたからの要請は届いていない」


ローデリック将軍の声が冷える。


「あなたを発見したのは、東部駐屯地ではなく、王家の狩猟館だった。保存食を酒宴で食い散らかし、寝室で眠っていたそうだな」


「いったん安全な場所で、戦況を整理していたのです!」


「軍馬三十二頭と軍需物資を持ち出してか」


「誤解です!」


グレゴールは私へ向き直った。


「エレナ、説明しろ。私が援軍を呼びに出たと」


「戦時特別軍法会議で、見たままを証言いたします」


「私は団長だぞ」


「でしたら、団長として責任をお取りください」


彼の声が、そこで初めて途切れた。



     *



戦時特別軍法会議は、十日後に王都で開かれた。


グレゴールと、逃亡に加担した三十二名の騎士が被告席へ並んでいる。


彼らは口を揃えて主張した。


自分たちの行動は戦略的撤退だった。


精鋭部隊を温存するためだった。


砦の防衛は副団長へ命じていた。


団長は援軍を呼ぶつもりだった。


だが、砦に残った者たちの証言は一致していた。


正式な指揮権移譲はなかった。


援軍の要請先も、帰還予定も示されなかった。


軍馬、食料、矢、治療薬を持ち去った。


負傷者を置き去りにした。


狩猟館で酒を飲み、眠っていた。


防衛作戦を立てたのは私。


赤い狼煙を上げるよう命じたのも私。


砦を守ったのは、そこに残った騎士と住民たちだった。


王国元帥がグレゴールへ尋ねた。


「なぜ、正式な指揮権移譲を行わなかった」


「緊急事態だったのです」


「なぜ、最寄りの東部駐屯地ではなく、狩猟館へ向かった」


「敵の斥候を避けるためです」


「なぜ、軍需物資を持ち出した」


「精鋭を温存するためです!」


グレゴールは声を荒らげた。


「結果的に砦は守られたではありませんか!」


「だから何だ」


元帥の声には、冷たい響きがあった。


「私まで砦に残って、何ができたというのです!」


審問室に、グレゴールの声が響く。


あの夜と同じ理屈だった。


元帥が私を見た。


「副団長エレナ。述べることはあるか」


私は立ち上がった。


「グレゴール団長の言葉どおりです」


彼の顔に、安堵が浮かんだ。


「エレナ。やはり君なら分かって――」


「団長が砦に残っても、できることはなかったのでしょう」


グレゴールの口元が引きつった。


「何を」


「私たちは、団長なしで北門を守りました」


一歩進む。


「団長なしで、住民を避難させました」


もう一歩。


「団長なしで、敵将を捕らえました」


グレゴールの拳が震えている。


「そして、団長なしで勝ちました」


「私がいなかったから、自由に指揮できたのだ!」


「ええ」


私は頷いた。


「あなたがいなかったから、誰も女騎士を捨て石とは呼びませんでした」


被告席のバルドが顔を伏せる。


「あなたがいなかったから、古い装備しか持たない騎士も、新兵も、衛生兵も、住民も、全員が必要な戦力として扱われました」


「副団長の分際で!」


「その副団長へ、すべてを押しつけて逃げたのはあなたです」


グレゴールは兵士に押さえられながら、なおも叫んだ。


「私は団長だ! 男の精鋭を守る責任があった!」


「砦に残った男性騎士もいます」


私は証言席を見た。


ガストン。


ルカ。


そして二人を含む、最後まで戦った三十五名の男性騎士たち。


その傍らには、騎士団付き衛生兵のトーマスも立っていた。


「逃げたのは、男ではありません」


私は被告席に並ぶ者たちを見渡した。


「あなた方です」


審問室が静まり返った。


王国元帥が判決書を開いた。


「グレゴール・バルハルト」


「お待ちください!」


「敵前逃亡、指揮放棄、軍需物資の不正持ち出し、虚偽報告。以上により、騎士団長職を解任する」


「軍籍および全勲章を剥奪。禁錮十五年に処する」


「そんな……!」


「逃亡を主導したバルド以下五名は禁錮八年。残る二十七名は軍籍を剥奪し、三年間の労役刑に処する。監視下で、レグナ砦外郭および周辺街道の復旧に従事させる」


証言席で、ルカが初めて深く息を吐いた。


隣にいたトーマスが、その肩へ一度だけ手を置く。


グレゴールの膝が崩れた。


「私は、王国騎士団の団長だぞ」


「もう違う」


元帥が告げる。


グレゴールは、縋るような目を私へ向けた。


「エレナ。私がいなくても勝てたのなら、結果として私の判断は正しかったではないか」


最後まで、この人は理解しない。


私は静かに答えた。


「ええ。あなたがいなくても、私たちは勝ちました」


グレゴールの肩から力が抜ける。


「だから――」


「ですから、今後もあなたは必要ありません」


開きかけた口が、そのまま閉じた。


「女騎士は捨て石で十分だと、仰いましたね」


私はグレゴールを見据えた。


「私たちは、砦を守るためにいました」


一歩だけ近づく。


「では、部下を見捨てて逃げる団長は、何のために置かれていたのでしょう」


グレゴールは答えなかった。


答えられるはずがなかった。



     *



軍法会議の翌日。


私は王国元帥から、一枚の任命書を渡された。


レグナ砦騎士団長。


そこには、私の名が記されていた。


「決定が早いのですね」


「軍法会議までの十日間で、必要な手続きは進めていた」


元帥は書類の束を机へ置いた。


「砦に残った騎士全員から、あなたを団長へ推す推薦状が届いている。住民の署名も、別紙で十七枚だ」


「女性を団長へ任命することに、反対する者も多いはずです」


「いる」


元帥は即答した。


「だが、反対している者の中に、あの砦で戦った者は一人もいない」


任命書には、すでに国王の印が押されていた。


「肩書というものは、実態の後からついてくるべきだ」


元帥は言った。


「遅すぎたくらいだ」


私は任命書を受け取った。


紙は軽い。


だが、あの夜に残ったすべての者の名が載っているような重みを感じた。


レグナ砦へ戻ると、修復中の北門前に騎士たちが並んでいた。


女騎士もいる。


男性騎士もいる。


新兵も、老兵も、衛生兵もいる。


城壁内の住民たちまで集まっていた。


ミレイユが号令をかける。


「新団長へ、敬礼!」


一斉に剣が掲げられた。


私は彼らの前へ立った。


「最初に、一つだけ約束します」


全員がこちらを見る。


「援軍が必要なら、まず伝令を送ります。私自身が砦を離れる必要がある場合は、正式に指揮権を渡し、行き先と帰還予定を残します」


どこかで、小さな笑いが起きた。


「そして」


私は修復中の北門を振り返った。


「この砦に残る者を、二度と捨て石とは呼ばせません」


ミレイユが剣を高く掲げる。


「騎士団長エレナ!」


騎士たちの声が重なった。


城壁の上で、新しい旗が風を受ける。


それは男の旗でも、女の旗でもない。


逃げた者の旗でもない。


あの夜、最後まで残った者たちの旗だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
騎士は体力勝負だから男性の方が有利だと思うんですが、冷遇されたのにこの結果だと考えると、ここの女性騎士たちはとても優秀なんだと思います。もちろん砦に残った男性騎士たちもです。
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