第7話 逃げた影と、哀しき天才
「……血生臭ぇ、ドブみたいな《《呪い》》の匂いがプンプンしやがる」
宿の窓から夜の街を睨みつけるリルの言葉に、私は立ち上がりマントを羽織った。
「行きましょう、リル。もしその魔獣が、ただの獣じゃなくて呪いで人を襲っているなら……放ってはおけないわ」
夜の帳が下りた職人の街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。リルの鋭い嗅覚を頼りに、石畳の路地裏を進んでいく。やがて、冷たい夜気の中に、ツンとした鉄の匂いと、ドロドロとした重い瘴気が漂い始めた。
『ひぃぃっ……! 助けてくれ……ッ!』
暗がりから、人間の悲痛な叫び声が聞こえた。駆けつけると、そこには一人の若い細工師が尻餅をつき、恐怖に顔を歪めていた。その目の前に、巨大なヘドロのような黒い影の魔獣が立ち塞がり、鋭い爪を振り上げている。
「リル、お願い!」
「言われなくても、あんなドブの匂い、俺の鼻が曲がる前に消し飛ばしてやる」
リルが地を蹴り、人間離れした速度で魔獣の懐へと飛び込む。そして、鋭い獣の爪で黒い影の胴体を真横に切り裂いた。
——しかし。
「……あ?」
ザシュッ、という《《手応えはなかった》》。リルの爪は、まるで泥水を掻き回したように、黒い影の体をズルリとすり抜けてしまったのだ。
『ギィィィィ……ッ!』
「チッ、物理攻撃が効かねぇのかよ!」
魔獣は耳障りな鳴き声を上げると、ドロドロの体を液状に崩し、石畳の隙間や下水道の暗がりへと、文字通り《《影》》のように溶けて逃げ去ってしまった。
「逃げ足の速い泥水め……追うか、アニエス?」
「待って、リル。まずは彼の手当てが先よ」
私は舌打ちをするリルを制止し、腰を抜かしている若い細工師の元へ駆け寄った。怪我はないようだが、彼はガタガタと震えながら、魔獣が消えた暗がりを虚ろな目で見つめていた。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
「あ、あぁ……ありがとう。だが、あいつは……あの魔獣は……」
「何か、心当たりがあるの?」
私が優しく問いかけると、細工師は顔を覆って、ボロボロと涙をこぼし始めた。
「……あいつに、食われちまったんだ。あの魔獣の首元に、ひと月前に失踪した私の弟弟子がいつも身につけていたガラスのペンダントが下がっていたんです……! きっと森を彷徨っている間に、あんなバケモノに襲われて……っ」
悲痛な叫びに、私は息を呑んだ。
身内を魔獣に食われた悲しみ。かける言葉が見つからず、私が唇を噛み締めた、その時だった。
「……おい。勘違いして泣いてんじゃねぇぞ、人間」
「リル……?」
リルが夜の闇を睨みつけながら、ひどく冷たい、けれど確信に満ちた声で言い放った。
「あのドブ泥からは、人間を食った獣の匂いなんて微塵もしなかった。あれは外から来た魔獣なんかじゃねぇ。人間の生々しい感情に呪いが取り憑いて腐り落ちた、人間自身の成れの果てだ」
「それじゃあ、まさか……」
「あぁ。さっきのお前を襲ったあの影が、その弟弟子ってやつの正体だよ」
リルの残酷なまでの種明かしに、細工師は「そんな……嘘だ……!」と絶望に顔を歪め、その場に崩れ落ちてしまった。
これ以上、彼から事情を聞き出すのは難しそうだ。
ただの野生の魔獣ではない。ひと月前に姿を消した人間の青年が、なぜあのような恐ろしい呪いの影に成り果て、かつての兄弟子を襲ったのか。
「リル」
私は立ち上がり、魔獣が消えた夜の闇を見据えた。
「彼を、ただ討伐するだけじゃダメ。彼を捕まえて、何があったのか真実を確かめましょう。そして……できることなら、彼をあの呪いから救い出したい」
「……ハッ。お前は本当に、甘くてお人好しだな。あんなドブ泥、一思いに殺してやった方がラクだろ」
「お願い、リル」
私がまっすぐに彼を見上げると、最強の厄災であるはずの獣は、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに私の頭にポンと大きな手を乗せた。
「……まぁ、俺の主がそう言うなら仕方ねぇな。明日の夜、俺の鼻であの泥水を完璧に追い詰めてやるよ」
不器用な番犬の約束に、私は力強く頷いた。
姿を変えてしまった彼を救うため。私たちは翌日の夜に向け、決戦の準備を始めた。




