第4話 小さな村と、初めての光
手配書が回っているのなら、顔を晒したまま歩くのは危険だ。倒した野盗から剥ぎ取った(リルが容赦なく引っぺがした)マントを深く被り、私たちは街道沿いの小さな村にたどり着いた。
「……ひどい有様ね」
村の入り口を見て、私は思わず息を呑んだ。柵はなぎ倒され、いくつかの家屋が半壊している。広場では、疲れ切った顔の村人たちが、ぬかるみにはまって動かなくなった重そうな荷車を、必死に引き上げようとしていた。
「王都の方から嫌な空気が流れてくるせいで、獣たちがパニックを起こしてやがる。それにやられたのかもな」
リルの野性的な嗅覚が、村に残る微かな魔獣の匂いを嗅ぎ取って言った。魔導士の放った、あの禍々しい紫色の雷。あれが森の生態系にまで影響を与えているのだ。
「誰か、手の空いている若い衆はいないか! このままじゃ、冬を越すための麦が全部泥に沈んじまう!」
村長の悲痛な声が響く。しかし、怪我人が多いのか、集まった数人のお年寄りや子供たちの力では、車輪はピクリとも動かない。私は気づけば、駆け出していた。
「おい、アニエス! 顔がバレたら——」
リルの制止を振り切り、私はマントのフードを深く被り直して泥水の中に飛び込んだ。
「私も手伝います! せーのっ!」
「た、旅人さん!? いかん、そんな泥の中に入ったら服が……!」
「服なんて気にしないでください! ほら、皆さんも一緒に!」
私はぬかるみに足を取られながらも、泥だらけになって荷車を押した。王宮のダンスのステップより、今の私にはこの泥の中の踏ん張りの方がずっと価値がある。しかし、びくともしない。悔しさに唇を噛んだその時、私の隣に、巨大な黒い影がヌッと並んだ。
「……ったく。俺の主は、なんでこう面倒見がいいんだか」
ボロマントを被ったリルが、呆れたようにため息をつく。そして、彼が荷車の底に太い腕(元・前足)を差し込み、「ふんっ」と軽く持ち上げた瞬間——
「うおおおっ!?」
「あ、上がった! 車輪が泥から抜けたぞ!」
十人がかりでも動かなかった荷車が、宙に浮くようにして見事ぬかるみから脱出したのだ。 ドサリと尻餅をついた私を見下ろし、リルは「泥だらけじゃねぇか。ほら、立て」と、不器用な手つきで私を引き上げてくれた。
「見ず知らずの旅人さんに、こんな泥まみれになってもらって……。本当にありがとうございました」
村の長老であるお婆さんが、私たちを小さな家に招き入れてくれた。そして、泥だらけの私を見て、村の共同のお風呂——大きな木桶に沸かしたお湯——を貸してくれたのだ。
(温かい……生き返るわ……)
王宮の薔薇を浮かべた大浴場とは比べ物にならない、少し煙の匂いがする素朴なお湯。でも、冷え切った体と、クーデターからの恐怖で張り詰めていた心を溶かすには、十分すぎるほど温かかった。
泥と血の匂いを洗い流し、洗濯済みの服に袖を通す。
村のおばさんが「私が若いころに着てた服で良ければ」と手渡してくれた、動きやすい綿のブラウスと、丈夫な革のブーツだ。
(……リルも、外の井戸でちゃんと洗えているかしら。犬の癖で水浴びの後にブルブル震えてなきゃいいけど)
髪を拭きながら居間に戻ると、囲炉裏の火のそばで、リルがものすごい勢いで木の実と野菜のスープを平らげていた。
「おい姫、これ肉が入ってねぇけど、なんだか妙に美味ぇぞ!」
「もう、はしたないわよ。……いただきます」
私も木のスプーンで、熱いスープを一口飲んだ。野菜の甘みが、じんわりと胃の腑に染み渡る。
「……美味しい」
たったそれだけの言葉なのに、また少し視界が滲んだ。お婆さんが、シワだらけの温かい手で、私の両手をそっと包み込んでくれた。
「お嬢ちゃんたちの親御さんも、さぞ心配しているだろうね。……本当に、ありがとう。あんたたちのおかげで、村は助かったよ」
その、心の底からの「ありがとう」という言葉を聞いた瞬間だった。
チカッ……。
「え……?」
私の右手の薬指。完全に力を失い、ただの黒い石ころになっていたはずの王家の指輪の奥底に、微かな、本当に微かな黄金の光が灯った——気がした。冷え切っていた胸の奥に、ぽっと小さな灯りがともったような、そんな感覚があった。
(指輪が、光った……?)
私は目を丸くした。けれど、もう一度よく見ると、指輪はただの黒い石のままだ。
(見間違い……かな。お湯の煙のせいで、目がチカチカしただけかも……)
指輪の力なんて、もうどうでもいい。 失ったものは大きすぎる。けれど、お兄様が命懸けで逃がしてくれたこの命を、村の人たちが心配してくれたこの命を、森の中で終わらせるわけにはいかない。
私はもらった服の裾をギュッと握りしめ、改めて王宮の方角を見つめた。
(みんな、どうしてるだろう……お父様、お母様、お兄様、カイル……みんな……幽閉されてしまったんだろうか……それとも)
最悪の想像が、頭をかすめ、強引に首を横に振る。
(……私、絶対に王宮に辿り着いてみせる)




