第3話 泥だらけの姫君と、番犬の戦い方
夜明けの森は冷え切っていた。
私は破れたドレスの裾を、歩きやすいように足首に巻き付けていた。王宮での優雅な暮らしは遠い昔のようだ。
「……おいアニエス、なんで二本足ってのは、こうもバランスが悪ぃんだ。四つん這いの方が絶対早ぇだろ」
すぐ後ろで、リルが苛立たしげに文句を言っている。彼は朝から何度も、人間の足でもつれて転びそうになっていた。元が幻獣の狼なのだから仕方ない。
「我慢しなさい、リル。人間は四つん這いで歩かないの。……あそこに街道が見えるわ。あそこまで行けば、王都へ続く道に出られるはず」
私は真っ黒になった指輪を見ながら、自分に言い聞かせるように歩を進めた。森の出口。街道が見えた瞬間、私は息を呑んで立ち止まった。
街道を塞ぐように、十数人の男たちがたむろしていた。 王宮の兵士ではない。毛皮を纏い、錆びた斧や剣を持った、野蛮な目つきの男たち——野盗だ。
「おい、あの女の顔……今朝方、早馬で関所に貼り出された手配書の女じゃねぇか?」
「マジか! 宰相様直々の命令だ、『国王夫妻を呪った反逆者の姫』! 生け捕りにすれば一生遊んで暮らせる賞金がかかってるぜ!」
男たちの目が、欲望にギラギラと輝く。 私はその言葉に、背筋が凍るような悪寒を覚えた。
(昨夜逃げ出したばかりなのに、もうこんな辺境にまで手配書が回っているの……!? いくらなんでも手回しが早すぎるわ)
考えられる理由は一つしかない。宰相は、クーデターを起こす前からこの手配書を刷り、全国にばら撒く準備を完全に終えていたのだ。お父様たちに呪いをかけ、私にその罪をなすりつけるという、完璧なシナリオを。
(お兄様は、こんな恐ろしい相手と今も一人で戦っているの……っ!)
ギリッ、と奥歯を噛み締める。恐怖で足がすくみそうになったその時、リルが私の前にスッと立ちはだかった。
「……おいテメェら。俺の主に、汚ぇツラ近づけてんじゃねぇ」
リルの黄金の瞳が、獣の鋭さを帯びて細められる。人間の姿になっても、彼から放たれる圧倒的な殺気は隠しようがなかった。野盗たちが一瞬、その威圧感に気圧されて後ずさりする。
「な、なんだこのデカい男は……。構うな、やるぞ!」
野盗の頭目が叫び、数人が一斉にリルへと襲いかかった。
「リル!」
叫ぶ私をよそに、リルは地を這うような咆哮を上げ、そのまま四つん這いになって男たちの群れへと突っ込んでいった。
「えっ、ちょっとリル!?」
「ハハッ! なんだこいつ、本当に獣みたいに——ぶっ!?」
野盗の一人が笑おうとした瞬間、リルの強烈な頭突きがその腹部にめり込んだ。
男は木の葉のように吹き飛び、壁に激突して動かなくなる。リルは人間の体の使い方が分からないまま、本能で戦っていた。迫りくる剣を野性の勘でかわし、人間の手になってしまった元・前足で男の腕を掴むと、そのまま軽く放り投げる。
「ぐわあっ!」
「ひ、ひるむな! 相手は素手だ、囲んで殺せ!」
しかし、いくらリルが強くても、人間の姿では死角が多い。背後から、一人の野盗が私を狙って回り込んできた。
「まずは姫様から——あぎゃあっ!?」
野盗が私の腕を掴もうとした瞬間、リルが信じられないスピードで割り込み、男の腕をガブリと噛み砕いた。夜盗が痛みで悲痛な声を上げている。
リルは口元の血を乱暴に拭うと、不満げに呟いた。
「人間の顎って弱ぇなあ。簡単に嚙みちぎれると思ったのに」
呪いで弱体化しているとはいえ、元はフェンリル。人間の男など相手にならない。けれど、武器の使い方も、人間の体での防御も知らない彼は、無防備に敵の攻撃を受けている。その背中には、いくつかの剣のかすり傷がついていた。
(ダメ……このままじゃ、リルが傷つくだけだわ。私が、何か指示を出さなきゃ……!)
私は必死に頭を回転させた。リルは強い。でも、人間の戦い方は知らない。 ……だったら。
「リル! あの男たちの『匂い』を嗅いで! 右側の男、すごく汚い匂いがするわ!」
「あ? ……本当だ、ドブネズミみたいな匂いが——」
リルが鼻をクンクンとさせた瞬間、右側の男が動揺して剣を鈍らせた。そこをリルは見逃さず、男の首根っこを掴んで地面に叩きつけた。
「よし! 次は、リル! 『お座り』!」
「はぁ!? 俺は犬じゃねぇって——っ!?」
リルの文句は、頭上を通過した矢の音にかき消された。もし座っていなければ、彼の頭に矢が刺さっていただろう。
「……え?」
「リル、そのまま『伏せ』!」
「っ、この野郎……ッ!」
リルは毒づきながらも、私の指示に従って地面に這いつくばった。その上を、横薙ぎに斧が通過する。リルは伏せたまま、斧を持った男の足を払い、その隙に立ち上がって男の顔面に強烈な拳を叩き込んだ。
「……たく、お前な。俺を犬扱いすんのも大概にしろよ」
最後の野盗を倒し、リルはゼェゼェと息を切らしながら私を振り返った。その顔は土で汚れ、肩からは血が流れている。けれど、その黄金の瞳は、私を守り抜いた満足感に満ちあふれていた。
「リル! 大丈夫!? すごい血が……!」
野盗が起き上がらないのを目で確認し、私が駆け寄ると、リルは「あ? こんなもん、舐めりゃ治る」と、ボロボロのマントをはだけて傷口を見せてきた。そして、そのまま至近距離にまで鼻先を近づけてクンクンと私の匂いを嗅ぐと、安心したように笑った。
「……おい、お前こそ怪我はねぇか? 怖かっただろ」
彼の熱い体温と、血の匂い。そして、人間の姿になっても変わらない、彼からの真っ直ぐで嘘のない忠誠心。ドキドキと、心臓がうるさいほど脈打っているのは、戦闘の興奮のせいだけではないことに、私は気づかないフリをした。




