第2話 片道切符の逃避行と、二本足の番犬
——チュン、チュン。
小鳥のさえずりと、木漏れ日の眩しさで、私はゆっくりと目を覚ました。
「……んっ……」
慣れたフカフカのベッドじゃない。背中にはゴツゴツとした木の根の感触。私はハッと身を起こした。王宮が燃えて、お兄様が犠牲になって、私はリルに乗って逃げて……。
「リル!? リル、どこ!?」
慌てて周囲を見回す。ここは王都から遥か遠く離れた、見知らぬ森の奥深くだった。しかし、私を運んでくれたはずの巨大な銀狼の姿はどこにもない。
ふと自分の指先に視線が落ちる。
「嘘……」
息が止まった。
私の右手の薬指にはめられた、王位継承者の証である王家の指輪。どんな時でも温かい黄金の光を放っていたはずのその指輪が、まるでただの焦げた石ころのように、真っ黒に変色して沈黙していたのだ。
光がない。誰もいない。国も、家族も、力も、すべて奪われてしまった。私は冷たい土の上にへたり込み、ボロボロになったドレスの裾を握りしめた。
どうすれば良いのだろう。いつも助けてくれた優しいお兄様は、戦火に飛び込んで行ってしまった。私のせいで……父は、母は? 昨夜の光景が瞼の裏にこびりつき、その先の、さらに酷い想像が頭から離れない。
涙が溢れて、止まらない。
「——あ? なんだ姫、起きたのか。怪我はねぇか?」
すぐ背後から、ひどく野太く、ドスの効いた男の声が降ってきた。
ビクリと肩を揺らし、弾かれたように振り返る。そこには、見知らぬ大男がしゃがみ込んでいた。
身長は優に百九十センチを超えているだろう。野生の獣のように引き締まった筋肉質な体。なぜか、王宮でリルに着せていた特注の犬用防寒マントによく似た、ボロボロの黒い布を辛うじて身にまとっている。そしてその太い首には、リルのものと同じ、黒い革のチョーカーと引きちぎられた鎖がぶらさがっていた。
「えっ……? だ、誰……!?」
男は私の怯えなど全く気にする様子もなく、距離感ゼロで顔を近づけてきた。 そして、クンッ、クンッと私の首筋の匂いを嗅ぐと、安心したように息を吐き——そのままペロッと、大きな舌で私の頬を舐めようとしたのだ。
「ちょっと! な、なにをするの!」
私は咄嗟に男の顔を両手で力いっぱい押し返した。
「いってぇ!?」
男は鼻面を押さえ、「何すんだよ!」と文句を言いながら、不満げに黄金の瞳を細める。その瞳の色。銀色の髪。首元の鎖。そして、怒られた時の「耳がペタンと垂れ下がるような」不満げな表情。
「……え? 嘘、まさか……リル、なの……?」
「あ? 俺以外に誰がいるってんだよ」
呆れたように男——リルが鼻を鳴らす。私は信じられない思いで、まじまじと彼の姿を見つめた。神を喰らう災厄の狼が、ボロマント一枚の荒くれ男になっている。
「でも、どうして……あ、昨夜の宰相たちの得体の知れない魔法……!」
「あぁ、たぶんそれだ。あの時アイツの呪いを浴びたせいで、こんな無様な《《人間》》の姿になっちまったんだと思う。バランスが悪くてイライラするが……」
リルはギリッと奥歯を噛み締め、悔しそうに顔を歪めた。
「ごめん、なさい……。私のせいで、リルまでこんな姿に……っ」
私がボロボロと涙をこぼすと、リルはバツが悪そうに目を伏せた。
「泣くな。俺はお前が助かったならそれでいいんだ。それに、ここまで来れば、人間たちの足じゃ追ってこられないだろう。しばらく身を隠しておいたほうがいい」
リルは、危ないから隠れていようと言う。当たり前だ。だが、私は乱暴に涙をぬぐった。
「リル」
「ん?」
「私……王宮に戻る」
リルの目が少し見開かれ、そして真剣な顔をして、当然の忠告をする。
「お前……死にかけたんだぞ」
「みんなを助けたい……。家に帰りたい。リルのことも、元の姿に戻してあげたい。何の力もないけど、私、何もできないけど。この国の王女だから」
私の声は情けないほど震えていたけれど、リルからは決して目を逸らさなかった。
「みんな、ねえ……」
リルは顔を曇らせ俯き、呟く。巨大なため息をつくと、ガシガシと乱暴に銀色の髪を掻きむしった。そして、『待て』を命じられた大型犬のように、観念した。
「あーもう……っ、分かったよ。俺が王都へ連れて帰ってやる」
「リル……っ」
「だが、大きな問題がある。ここはもう、王都から遠く離れた西の果てだ。俺の本来の足なら、一晩で駆け抜けられた距離だが……今のこの軟弱で不便な二本足じゃ、お前を担いで、同じ速さで王都へ戻ることはできねぇ。遠くに来すぎちまったな」
行きは幻獣の背に乗って、たった一晩。けれど、帰りは追手から隠れながら、果てしない距離を歩いて戻らなければならないのだ。そのことをこの幻獣は、申し訳なく思っているようだった。お金も持ってきていない。味方もいない。身を守る術もない。
「……ううん」
私は首を横に振り、そして、木々の隙間から見える、遥か遠くの東の空——もう煙すら見えないほど遠くなってしまった王都の方角を、真っ直ぐに見つめ返した。
「リルが私のために、ここまで全力で走ってくれたから……私たち、逃げ切れたのよ」
「アニエス……」
「リルの幻獣の足がなかったら、王宮の包囲網なんて絶対に突破できなかった。ここまで遠くに来てしまったけれど、それは悪いことだけじゃないわ。追手だって、私たちがこんな辺境まで逃げたなんて思わないはずだもの」
私は両手で自分の頬をパンッ! と叩き、気合を入れるように立ち上がった。
「歩きましょう、リル。遠くても、険しくても、絶対に王都へ帰るの。……みんなを助けるために!」
朝の光の中。 振り返って力強く微笑んだ私を見て、リルは一瞬驚いたように目を丸くし——やがて、諦めたようにフッと笑った。
「……チッ。本当に、俺の主は図太くて、最高だぜ」
不格好な人間の手で、私の頭をポンポンと撫でるリル。その手は、地下牢で私を待っていた彼の鼻先と同じくらい、とても温かかった。
こうして、温室を追われた没落姫と、最強の力を失った番犬の、果てしなく遠い王都奪還への長旅が幕を開けたのだった。




