第1話 温室の終わりと、幻獣の背中
光あふれる王宮の庭園。
色とりどりの薔薇が咲き誇る東屋には、いつも穏やかで温かい時間が流れていた。
「アニエス。この指輪はね、王族の証というだけではないの。この国に生きるすべての民を愛する心の象徴なのよ」
お母様が優しく微笑みながら、私の小さな右手の薬指に、あたたかい光を放つ指輪を通してくれる。お父様も、私の頭を大きな手で撫でて目を細めた。
「お前は本当に優しい子だ。その優しさがあれば、この指輪がお前を護ってくれるだろう」
傍らで見守っていたお兄様も、「おめでとう、アニエス」といつものように優しく微笑んでくれた。
両親の愛情を一身に受け、私は毎日を笑って過ごしていた。午後になれば、優秀で誰よりも優しいお兄様が、つきっきりで王宮の歴史や魔法の勉強を教えてくれる。
「アニエスは本当に勉強熱心だな。でも、たまには息抜きも必要だよ」
「姫様、あまり根を詰めすぎないように。お茶をお持ちしましたよ」
お兄様がクスクスと笑い、その後ろで若き近衛騎士のカイルが、呆れたように、けれどとても温かい目で見守ってくれている。誰もが私を愛し、私もみんなが大好きだった。争いも、飢えも、悲しみも知らない。ここは完璧な、私の温室だった。
けれど、そんな温室育ちの私には、家族にも内緒にしている秘密の友達がいた。
夜更け。私は厨房からこっそりと大きな骨付き肉を盗み出すと、冷たい石造りの階段を一番下まで降り、誰も近づかない王宮の最下層にある地下牢へと向かった。
グルルルルッ……!
「しーっ……静かにね」
松明の明かりすら届かない最奥の牢獄。そこに足を踏み入れた途端、空気が凍りつくような恐ろしい殺気と、獣の低い唸り声が響いた。何重もの太い鎖に繋がれ、暗闇の中で爛々と輝く黄金の瞳。近衛兵でさえ恐怖で近づけない、王宮の地下に封印された巨大な魔獣——神狼フェンリルだ。
「ほら、今日もお肉持ってきたよ。……誰も来ないから、退屈だったんでしょ?」
私が牢の鉄格子の前にしゃがみ込み、隙間からお肉を差し出すと、フェンリルは威嚇するように牙を剥く。普通の人間なら腰を抜かして逃げ出すだろう。でも、私は逃げなかった。
「強がらなくていいの。あなたは怖いバケモノなんかじゃない。寂しがり屋の大きなワンちゃんだもの」
私は鉄格子越しにそっと手を伸ばし、彼の巨大な銀色の鼻先を撫でた。ビクッ、と身を震わせたフェンリルは、やがて威嚇するのをやめ、私の手から直接、骨付き肉をはむりと咥えた。
人間の言葉は通じない。けれど、心は確かに通じていた。私は毎日ここに通い、今日あった出来事を話し、彼が暴れて怪我をした傷口に薬を塗り、寒い地下牢で凍えないようにマントを着せて、そして名前を与えた。
「あなたの名前は『リル』よ。私の、一番の番犬ね」
私が無邪気に笑いかけると、リルは「……グルゥ」と喉を鳴らし、巨大な頭をすり寄せて甘えるようになっていた。鎖に繋がれた孤独な獣と、温室育ちの姫。 不格好だけれど、私たちは確かに、世界でただ一人の理解者だったのだ。
——そう……あんな、恐ろしい夜が来るまでは。
轟音と共に、私の「完璧な温室」は、唐突に終わりを告げた。
「アニエス! こっちだ、走れ!!」
火の海となった王宮の廊下。お兄様に腕を引かれ、私はパニックで涙を流しながら走っていた。いつもは穏やかなお兄様――フェリックス王太子が、今日は声を荒げて私を誘導する。窓の外では、王都の精鋭である近衛騎士たちが、お互いに剣を向けて殺し合っている。
「どうして……お父様たちは!? カイルたちはどうして味方同士で……!」
「宰相の罠だ! 父上と母上は奴の呪いを受け、臣下たちは家族を人質に取られて剣を捨てさせられた!」
「そんな……!」
お兄様は、王族だけが知る地下通路の隠し扉を蹴り開け、私を無理やりその暗闇の中へと押し込んだ。
「アニエス、お前だけでも逃げろ! いいか、絶対に振り返るな!!」
「いやっ! お兄様も一緒に——」
その時、廊下の奥から、宰相の放った黒装束の暗殺部隊が雪崩れ込んできた。
お兄様は私に向かって血だらけの顔で一度だけ微笑むと、隠し扉を外から固く閉ざし、たった一人で暗殺部隊の群れに向かって剣を構え、炎の中へと消えていった。
「お兄様ぁぁっ!!」
扉の向こうから聞こえる剣戟の音と、悲鳴。私は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、暗い地下階段を転がるようにして駆け下りた。
行き着いた先は、王宮の最下層。誰も近づかない、あの地下牢だった。
「リルッ!!」
私が鉄格子にしがみつくと、巨大な銀狼——リルは、血の匂いと異常事態を察知し、悲痛な唸り声を上げて鎖を引きちぎろうと暴れていた。
その時だ。
「……見つけたぞ、アニエス殿下」
背後の階段から、宰相直属の魔導士が現れた。その手には、お父様たちを撃ち抜いたのと同じ。――いや、それよりももっと大きくて禍々しい紫色の呪いの雷が収束している。
「姫を殺し、あのバケモノもろとも地下を崩落させろ!」
「いや……っ!!」
逃げ場はない。紫色の雷が、私を真っ二つに引き裂こうと放たれた、その瞬間。
——凄まじい轟音。
リルが自らの首と四肢を繋ぐ極太の鋼鉄の鎖を、力任せに引きちぎった。そして、私の前にその巨大な体を投げ出し、私を庇って呪いの雷を一身に浴びたのだ。
「リル!!」
紫色のスパークがリルの全身を駆け巡る。
しかし、神狼フェンリルは倒れなかった。血走った黄金の瞳で魔導士を睨みつけると、私の服の襟首を優しく咥え、自らのフサフサとした巨大な背中へと放り投げた。
「きゃあっ!?」
視界が反転し、必死に毛並みにしがみついた、その瞬間。
鼓膜を通さず、直接頭の芯を揺らすような、低くしゃがれた男の声が響いた。
『……行くぞ、アニエス。俺がお前を逃がしてやる!』
「えっ……だれ!? どこから……っ!?」
周囲には魔導士しかいないはずなのに。頭の中に直接響いた見知らぬ声に、私はパニックで目を白黒させた。
しかし、私の混乱などお構いなしに、リルは残った地下牢の壁を力任せに粉砕し、王都の地下水路を抜けて、外の世界へと飛び出した。
「追え! 逃がすな!!」
背後から無数の魔法や矢が飛んでくる。しかし、神話の魔獣である『神狼』のスピードは、人間のそれとは次元が違った。景色が線のように流れ、王都の城壁を軽々と飛び越える。
燃え落ちる王宮が、遠く、小さくなっていく。私はただリルの温かい毛並みにしがみつき、声を枯らして泣き続けた。やがて、極度の悲しみと疲労が私を深い闇へと引きずり込んでいく。
(すべてを失ってしまった。家も、家族も……)
――絶望の逃避行が、幕を開けた。




