「願いを一つ叶えよう」と言われて決められないまま神様と三年暮らしています
「王都一のパン屋に、私はなる!」
そう高らかに宣言した私――アリーナは、生まれ育った実家であるパン屋を勢いよく飛び出した。
「おう、応援するぞ行ってこい!」
「我々のパンの味を世界に広めるのよ!」
そう言って見送ってくれた両親。
彼らの貯金のほぼ全財産であったろうずしりと重い『準備金』を手渡され、私は王都の地を踏んだ。
で、結果としてどうなったか。
私の開いたパン屋は爆発的なブームを起こすでもなく、閑古鳥が鳴くでもない。
ごくごく普通の平凡なパン屋として存続していた。
常連もそこそこいる。味も悪くない(はずだ)。
けれど行列ができるわけでも貴族が通い詰めるわけでもない。
よく言えば地域密着型。悪く言えば地味なパン屋。それが我が城の現状である。
パン屋の朝は早い。ニワトリが鳴くよりも早く起きて粉にまみれ、夜は酵母の機嫌を取りながら眠りにつく。
優雅な王都ライフとは程遠い粉まみれの日々だが、これはこれで充実していると言えなくもない。
しかし、そんな平和なパン屋ライフを脅かす影が忍び寄っていた。
最近王都を騒がせている店舗荒らしの強盗団の噂だ。
「物騒だなぁ。か弱い乙女の一人暮らしなんて格好の的じゃない?」
私は捏ね上げた生地を叩きつけながら眉をひそめた。
私の店は一人所帯。セキュリティなんて鍵があるだけのザル警備。心配になるなと言う方が無理がある。
男手が欲しい。
すごく欲しい。
用心棒として、店の防犯として、屈強な男手が必要不可欠だ。
……と言うか、はっきり言おう。
――ぶっちゃけ素敵な旦那様が欲しい! 素敵な恋がしたい!
生活に余裕が出てくれば次に欲しくなるのは潤いと愛。
若き乙女としての本能が『パンばかり捏ねてないで愛を育め!』と叫んでいるのだ。
例えばふらりと入ってきたお客様が実はお忍びの王子様で「君のパンの虜になった。いや君自身の虜だ」とか。
あるいは店の前に行き倒れていた美男子にパンを与えたら実は隣国の皇帝で恩返しに求婚されるとか!
――完全に頭の中がお花畑……いや、小麦畑だという自覚はある。
最近読んだ恋愛小説の影響が如実に出ている。
でも仕方ないじゃないか!
年頃の乙女が夢を見て何が悪い!
パンの発酵を見守る日々に少しばかりのときめきを求めたってバチは当たらないはずである。
枯れた職人になるには、私はまだ若すぎるのである。
そんな若さと欲望をエネルギーに変え、私は今日もカゴを片手に市場へ買い出しに行くのであった。
◇
「ほらよアリーナちゃん! 今日は特別サービスだ!」
いつもの八百屋で野菜を吟味していると、気風の良い店主のおっちゃんが何かを私の買い物かごに放り込んできた。
「裏の倉庫を掃除してたら出てきたんだ。ずっとあったやつだけど良かったら持っていってくれ」
おっちゃんはニカっと笑ったが、その笑顔の裏に「ゴミ処理」という思惑が透けて見えるのは気のせいだろうか。
しかし、おまけと言われると断れないのが庶民の悲しい性である。
手渡されたのは古びた金属製の器だった。
注ぎ口がついていて蓋が開閉するようになっている。
形状から察すると水差しだろうか? それとも高級なソース入れ?
用途は不明だがタダである。
その一点において私が断る理由はない。
「ありがとう!」
私は満面の笑みで答え、その水差しもどきを大事に持ち帰った。
店に戻って改めて見てみると水差しにしては少々小ぶりだ。
けれど装飾は凝っているし、異国情緒あふれる雰囲気は悪くない。
カウンターの端に置けば『なんちゃってアンティーク』として店の箔付けになるかもしれない。
……と思ったのだが。
ただ飾っておくだけというのはもったいない。
道具は使ってナンボ。空っぽのまま置いておくなんて許せない!
このサイズ感にぴったりの使い道はないものか。
「よし、君の新しい就職先は『油差し』に決定だ」
パンの艶出しや型に塗るための植物油を入れるのに、このサイズはジャストフィットだ。
卓上に置いても邪魔にならない。注ぎ口の細さも油を垂らすのに丁度いい。
アンティーク改め、今日から君は我が店の頼れる裏方スタッフである。
綺麗に洗って水気を切り、オリーブオイルをなみなみと注ぐ。
うん、使い勝手も良さそうだ。
……と、満足したその時だった。
ガタガタガタッ!
水差しが意思を持ったかのように激しく震え出したかと思うと、注ぎ口から凄まじい勢いで煙が噴き出した!
「ひえぇぇっ! 爆発したぁぁ!」
急いで逃げようとしたが煙の中から現れたのは紅蓮の炎ではなかった。
煙がうねって凝縮し、やがて人の形を成していく。
現れたのはまばゆいばかりの輝きを放つ絶世の美男子だった。
……は?
「ふはははは! 二千年ぶりの現世である!」
男は両手を広げて天井を仰いで叫んだ。声がでかい。
「変質者!?」
いや待て。これが噂の強盗団か!?
最近の強盗は煙になって不法侵入する魔法まで使うというのか。
逃げるが勝ち!
私は回れ右をして出口へ駆け出そうとした。
「……っ、あれ!?」
足が動かない。まるで床に縫い付けられたように一歩も動けないのだ! 何これ金縛り!?
逃げられないなら戦うしかない。
私は反射的にカウンターへ手を伸ばし、今朝焼いたばかりの黒パンを鷲掴みにした。
「近寄らないで! このパンの硬度を舐めるんじゃないわよ!」
私は震える声で威嚇する。
「こいつは今朝焼いたばかりの特級品よ! 歯が折れるほど硬いんだから!」
「……落ち着け、娘よ。我は怪しい者ではない」
いやどう見ても怪しいが……。
男は呆れたように私と黒パンを見やり、優雅に片手を上げた。
「我は百の神が一柱。お前の願いを一つだけ叶えるためにこの世に顕現したのだ」
神? こいつが?
私は黒パンを構えたまま、目の前の不審者――自称・神を胡乱な目で見つめた。
「……私の願い?」
「いかにも。このランプに油を注いで我を目覚めさせた者は一つだけ願いを叶える権利を有する」
彼はそこで一度言葉を切り、もったいぶるように言った。
「このランプに油を入れた者は二千年以来お前が初めてだ」
不審者はどこか遠い目をしていた。
「これランプって言うんですか? 変な形の水差しじゃなくて?」
「水差しではない! お前まさかランプを知らんのか?」
「見たことないですね。どう使うんです、それ」
「中に油を入れて口から紐を垂らし、そこに火を灯して明かりを取るのだ」
「……なんでそんな面倒なことを?」
私は心底不思議に思って首を傾げた。
「明かりなんて生活魔法の『ライト』を使えば一発じゃないですか。油も紐もいりませんよ?」
「魔法などは一部の魔法使いしか扱えぬはず!」
「今時、一般常識ですよ」
「バカな! 二千年で人類はそこまで進化したというのか!」
なるほど。二千年前は生活魔法が普及していなかったのか。
油を燃やして明かりにするなんてとんでもない贅沢品だ。貴族の嗜好品か何かだったに違いない。
「まあ言ってみれば時代遅れの遺物ってことですね」
「そうか。だから二千年も油を入れられず放置されていたのか……」
事実を突きつけると神様は目に見えてしょぼくれた。
その背中には哀愁が漂っている。
まあ文明の進化はどうでもいい。重要なのはそこじゃない。
「で、私の願いを一つ叶えてくれるんですよね?」
「……うむ。そうだ。お前の望みを言うがいい」
神様は気を取り直して言い直した。
「えっ、じゃあ! 白馬に乗った素敵な王子様が店に来て、私に一目惚れして求婚してくれるとか!?」
ある!
これはあるぞ!
流行りの歌劇のようなシンデレラストーリーが!
「却下だ。人の心を操ることは神の理に反する」
「なんだよ、役立たず!」
私のときめきを返せ。返品だ返品!
「役立たずとは心外な! いいか、死者の蘇生、他者の殺害、そして恋愛成就。この三つ以外であれば富でも名声でも何でも叶えてやる!」
――なんだ意外と制約が多いな。
しかし、ふむ。それ以外なら何でも、か。
急に「何でも」と言われると逆に何をお願いすればいいのか分からなくなるのが人情というものだ。
世界一のパン職人になる能力?
……いや、それは違う。
技術は自分の手で掴み取ってこそ意味がある。神頼みで得た腕で焼くパンなんて私は認めない。
では屈強な用心棒を召喚してもらう?
……なんかもったいない気がする。
せっかくの『神の願い』を防犯に使うのはどうなんだ。
うむむむむ、悩ましい!
「ちょっと慎重に考えさせて!!」
――と私が叫んだのが。
今からおよそ三年前のことである。
◇
「ねえ聞いてよー。今日のお客さんなんだけどさ」
私は口を尖らせて愚痴をこぼす。
「トングをカチカチ鳴らしながら『クロワッサンか、デニッシュか』で十五分も悩んだのよ? 結局何も買わずに『また来ます』ですって! 営業妨害だわ!」
私は小麦粉の大袋を軽々と運ぶ神様――ジンの首に背後からガシッと抱きついた。
「アリーナ。運搬の邪魔だ」
「聞いてくれるまで離れませんー」
ジンは私を引きずりながら歩みを止めない。さすが神様。足腰が強い。
「そんなことより願い事は決まったのか?」
「うーん、まだ!」
「では優柔不断な客が迷わずパンを買うようにしてやろうか?」
「却下! 貴重な『神の奇跡』をそんなことに使えないよ!」
あの日、「慎重に考えさせて!」と私が叫んでから早三年。
ジンは「分かった。決まるまで待とう」とあっさり頷き、そのままなし崩し的に我が家に住み着いたのである。
神様との同棲生活はこうして始まった。
それから一週間は毎日毎朝「願いは?」「まだ?」と聞かれ続けた。そしてある日の早朝、ついに私の堪忍袋の緒が切れた。
「うるさい! 今はパンの時間なの! 邪魔するなら追い出すわよ!」
神に向かって「追い出す」とは、我ながら願いを叶えてほしいんだか欲しくないんだか分からない発言である。
怒られるとは思っていなかったのか、ジンはきょとんとした。
「なんだそんなに忙しいのか? どれ貸してみろ」
そう言って彼がおもむろに小麦袋を担いだのが全ての始まりだった。
「どけアリーナ。これから洗濯物を干さねばならん。天気が良いからな」
今ではすっかり立場が逆転した。甲斐甲斐しく働く彼に、私がぶら下がって愚痴るのが日常になってしまった。
「さすがジン様! 家事の神様としても崇められそう!」
「ふふん。当然である! 我に不可能はない!」
ちょっとおだてればこの通り。全能の神は意外と扱いやすい。
肝心のパン屋の方はといえば相変わらずだ。
爆発的ブームもなければ倒産の危機もない。王都の中堅パン屋として地味にしぶとく存続している。
変化といえば一つだけ。
この間、ついに例の強盗団がお出ましになったのだ。
「動くな! ありったけの金を出せ!」
覆面の男たちが包丁を片手に乗り込んできたのだが――。
ドサッ。
次の瞬間、白目を剥いて床に転がっていた。
「……ふん。騒々しい」
ジンが指先を一つ動かしただけでこの有様である。
「願いが決まる前にアリーナが死んでは我が面目に関わるからな」
ジンは静かになった店内で鼻を鳴らす。
「おお、さすが! 用心棒としても超優秀ね!」
「なんだ用心棒が欲しかったのか? ならば今ので願いを……」
「今のは願いじゃないからね!?」
危ない危ない。油断も隙もない。
ジンはあからさまに舌打ちをした後、気絶した男たちを見下ろした。
「ところでアリーナよ。かような暴漢への処罰は、私の記憶にある人間の法では『去勢』だったはずだが合っているか?」
言うが早いか、ジンが懐から物騒なナイフを取り出した。
「ちょっ、待って待って!!」
私は慌てて彼に飛びついた。
「それいつの時代の法!? 普通に憲兵に突き出すだけでいいの!」
多少倫理観に問題はあるものの。
護衛兼、家事手伝い兼、パン屋のスタッフとして。
彼は今日も無駄に精力的に働いてくれている。
「あとはまあ……私の焼いたパンを美味しいって食べてくれたら言うことないんだけどね」
私は広い背中に顔を埋め、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「神に食事も睡眠も不要だからな」
ジンは振り返りもせず淡々と答える。
最強の男手ではあるけれど、パン屋のパートナーとしては味気ない。
私の奇妙な同棲生活は快適だが、塩を入れ忘れた生地のように少しだけ物足りないのだった。
そんな奇妙ながらも平和な我々の日常に、突如として転機が訪れた。
◇
きっかけは、店に一人の変な男が出入りするようになったことである。
「パン屋か……」
店に入ってきたその男を見て、私は首を傾げた。
着ている服はボロボロの布切れ同然。けれどその中身は無駄に輝かしいほどの長身美形。
肌も髪もつやつやで明らかに栄養状態が良い。
違和感の塊だ。
男は真剣な顔でパンを選び、レジへとやってきた。
「ええっと、これで足りるかな?」
そう言っておずおずと差し出されたのはまごうことなき金貨だった。
……この店ごと買うつもりか?
「高いわ! 高すぎます!」
私は思わず叫んだ。
「パン一個に金貨を出す人がどこにいますか! うちでは釣り銭も用意できませんよ!」
「そうなのか!?」
これ以上話しても埒が明かない。
「……はぁ。もういいです、ツケにしておきますから。今度細かいお金を持ってきてください」
「本当か! ありがとう、慈悲深い店主殿!」
男は背景に花が咲きそうな笑顔を振りまいて、嬉しそうに帰っていった。
「変なお客さん……」
「む、またあの強盗団か? 懲りない奴らだな」
ジンがほうき片手にのっそりと現れる。
「いや強盗というか、浮世離れした不思議な人が来てね……」
それからというもの。
まるで餌付けされた野良犬のように、その男は数日に一度の頻度で店に現れるようになった。
ニコニコとパンを買っていく。
まあ悪い気はしない。
無駄に整った顔で美味しそうに食べてくれるし、何より定期的に金を落としてくれる貴重な太客だ。
変人だろうが何だろうが売上に貢献してくれるなら、それはもう神様である。
だが、その日は突然やってきた。
カランコロンとドアが開く。
そこに立っていたのは目が潰れるほど仕立ての良い服を身にまとった彼と、胃の痛そうな顔をした護衛騎士たちだった。
「なっ常連さん、その格好……まさか王子様!?」
「驚かせてすまない。変装して下町の空気を肌で感じていたんだよ」
彼は悪びれもせず爽やかに笑った。
背後の護衛騎士が「殿下、勘弁してください……」と魂の抜けた顔で嘆いている。
金貨を平気で出す金銭感覚、世間知らずな言動。全ての点と点が線で繋がった。
なるほど浮世離れしているわけだ。住む世界が違ったのだから!
「城の料理は洗練されているが冷たい。だが君のパンは違う。とても温かい味がするんだ」
王子はほんのりと頬を染め、熱っぽい瞳で私を見つめた。
……ん? なんだこの甘い空気は。
「単刀直入に言おう。王城に来てくれ」
「え?」
「専属パン職人として私の傍で一生パンを焼いてほしいんだ!」
な、な、な……!
なんという好条件のヘッドハンティング!
おとぎ話か! これは流行りの恋愛小説の導入か!
私の人生にまさかのシンデレラストーリーが爆誕したぁぁぁ!!
「無理強いはしない。明日、改めて返事を聞きに来るよ」
王子は爽やかに去っていった。
残された私は彼が置いていった甘い言葉と現実的なメリットの間でふわふわと漂っていた。
王城の専属。
それはつまり最高級の小麦粉が使い放題。バターも砂糖も惜しみなく使える。
窯だってきっと最新鋭の巨大な石窯に違いない。
――すごい。パン職人として、これ以上の環境があるだろうか。
「王都一のパン屋になる」という夢が向こうから飛び込んできたようなものだ!
「どうしたアリーナ。顔が緩んでいるぞ。また面白い客でも来たのか?」
店の裏から粉まみれのエプロン姿でジンが出てきた。
その姿を見た瞬間、私の熱に浮かされた頭が冷水を浴びせられたようにスッと冷えた。
城に行けば、全てが変わる。
ジンはついてくるだろうが、それは今の「日常」とは違う。
このボロい店で、この狭い厨房で迎える朝は、もう二度と戻ってこないのだ。
常連のおばちゃんたちの井戸端会議。八百屋のおっちゃんの強引なオマケ。
そして何より狭い厨房ですれ違うたびにジンと肩や肘がぶつかる、この距離感。
――王城の広いキッチンでは、きっと肘なんてぶつからない。
「……王子様がね、迎えに来てくれたの。専属になってくれって」
「ほう、そういえばそんな妄想を語っていたな。まさか神の力も借りずに自力で叶えるとは、大した奴だ!」
ジンは感心したように笑った。
「うん……」
私は曖昧に頷いた。
本来なら諸手を挙げて喜ぶべき場面だ。
けれど私の心は叫んでいる。
――私はやっぱりジンとこの狭い店で、肩をぶつけ合いながらパンを焼きたいのだと。
まさか神様との腐れ縁がこれほどまでに私の中で大きな比重を占めていたなんて。
なんてことだ。
いつの間にか私はとんでもなく贅沢な「願い」を抱いてしまっていたらしい。
◇
「本当に断って良かったのか?」
ジンが静かに尋ねてくる。その声には私の本心を測るような響きがあった。
結論から言えば、私は王子の誘いを蹴った。
「そっか。君はこの店が、ここでの生活が大事なんだね」
王子は嫌な顔一つせず「また客として来るよ」と爽やかに笑って去っていった。
最後までキラキラしい王子様だった。
「条件は最高だったけど、なんかこう……心が踊らなかったの」
理屈じゃない。私はジンに、精一杯の笑顔を向けた。
その夜。
私はいつものようにキッチンに立っていつものように夕食を作った。
テーブルに並ぶのは一人分の食器だけだ。
目の前にはジンが座っている。
だが彼は食事をしない。ただ売上帳簿と睨めっこして今日の収支を計算している。
自分で焼いた最高のパン。
ちぎって口に放り込む。いつもの味だ。美味しいはずなのになんだか今日は砂を噛んでいるみたいに味がしない。
私はふと顔を上げた。
そこには真剣な横顔で数字を追うジンがいる。
三年間ずっとこうだった。これが私たちの「普通」だった。
私は食べる。ジンは食べない。
同じテーブルを囲んでいるのに共有しているものが何もない。
その事実が急に喉につっかえた気がした。
「……ねえ、ジン」
「なんだ、計算がズレる」
「今日のパン、過去最高傑作だと思うんだけど」
「そうか。それは重畳」
暖簾に腕押しとはこのことだ。
「うん。……でもさ、美味しいねって誰かと共有したい時もあるじゃない?」
「常連客が毎日言っているだろう。耳が遠くなったか?」
「っ、そうじゃなくて!」
客じゃない。私はジンに言ってほしいのに。
私はパンをちぎって口に押し込んだ。
彼は帳簿に戻り、私は食事に戻る。
平和な夜だ。
――でも胸の奥に冷たい風が吹いているような、そんな寂しさが拭えない。
翌朝。
私は夜明けと共にパンを焼く。ジンは店を開ける。
昨日と変わらない平和な朝が始まった。
けれど私の心だけは昨日とは違っていた。
私は焼きたてのパンを棚に並べながら意を決して切り出した。
「ジン、願い事が決まったわ」
「おお! ついに決まったか!」
ジンがパァッと顔を輝かせた。
「三年越しの願いとは、さぞかし壮大なものなのだろうな!」
「ジンがお腹空くようにして」
「…………は?」
全能の神の顔が間の抜けた疑問符で埋め尽くされた。
「なんだその妙ちきりんな願いは」
だって……。
私は棚のパンを指先でつつきながら、もごもごと言った。
「王子様のプロポーズより億万長者になるより、私はジンに『美味い』って言わせたいの!」
単純明快。それが私の出した答えだ。
「正気か? 一生に一度の奇跡だぞ?」
ジンは信じられないという顔で私を見た。
「パン屋の成功は自力で掴み取れる」
でも、と私は続ける。
「不老不死の神様を空腹にするなんて、奇跡以外の何物でもないでしょ? だから、これが正しい使い道なの」
ジンが呆れたように笑った。
「……ふっ、欲のない奴め」
その瞬間だった。
カッ!!
店の中が直視できないほどの光に包まれた!
光が収まると、ジンがガクリと膝をついた。
「ぐっ、ううっ……!」
「ジン!? 大丈夫!?」
私は慌てて彼に駆け寄った。
「腹の部分が何かに蝕まれている……!」
彼は悲痛な叫びを上げた。
「満たされない! 強烈な虚無感だ……。なんだこの恐ろしい感覚は! 我は消滅するのか!?」
ぶっ。
あまりの必死さに、私は堪えきれず吹き出した。
ああ、よかった。死ぬ病気じゃなくて。
私の願い事は神様相手にもちゃんと作用したようだ。
「ジン、落ち着いて聞いて。それは病気じゃないの」
私は涙目で訴える彼をなだめるように言った。
「それが『お腹が空いた』っていう感覚だよ」
「……なんだと? これが、空腹……?」
呆然とする彼に、私はとびきりの笑顔で手を差し伸べた。
「ほら、立って」
焼きたてのパンの香りが店を満たしている。
「一緒に朝ごはん、食べよ?」
◇ ジン視点 ◇
我はもう、だめかもしれない。
我はランプに住む神――ジンである。
偉大なる存在であるはずの我がなぜこんなことになっているのか。
事態は深刻だ。どれくらい深刻かというと、消滅の危機を感じるレベルである。
そもそも、なぜ我はランプになど住んでいたのか。
さあ? 数千年前の記憶など思い出せない。
使い方も忘れ去られたランプの中で二千年。
悠久の時を生きる我々神族といえどさすがに飽きた。
退屈すぎて危うく思考するのをやめるところだった。
眠ることもなくただ無為に過ごす日々。
そんな灰色の世界に、唐突に油を注ぎ込んだ命知らず。
それがアリーナという名の小娘だった。
久々の現世は驚くほど鮮やかだった。
色が溢れて騒がしく、そして何より活気に満ちていた。
その生活が思いのほか快適で。
気付けば三年もの間、我はパン屋の店員として粉にまみれていたわけだが。
しかし、平穏はあの一言で崩壊した。
「ジンがお腹空くようにして」
……正気か?
神に対して生理現象を植え付けるなどという冒涜的な願い。
それからだ。我が身体がおかしくなり始めたのは。
どうやら、不老不死の肉体に「空腹」という不純物を混ぜた代償は大きかったらしい。
我の体には様々な(そして迷惑な)副作用が発生していた。
まず夜だ。
日が落ちると共に『眠気』という名の抗い難い魔力が襲ってくる。
まぶたが鉛のように重くなり、意識が強制的に刈り取られる恐怖。まるで死の淵に立たされるような感覚だ。
そして朝。
目覚めと共にやってくるのは腹部に感じる強烈な虚無感。
『空腹』。
内側から何かが削り取られるような感覚。これが毎朝襲ってくるのだからたまらない。
「ごはんできたよー!」
その声と共に差し出される焼きたてのパンと温かいスープ。
それを口にした瞬間、脳髄を揺さぶるような多幸感が炸裂する。
抗えない。口角が勝手に吊り上がる。
――なんてことだ、神たる我がこんなもので手玉に取られようとは!
至福の顔でパンを頬張る我をアリーナはニヤニヤと眺めてくる。
まるで珍しい動物を見る目だ。
屈辱的だがパンが美味いので反論できない。これが我々の新しい日常となってしまった。
だが、そんなことは些細な問題だ。
食事も睡眠も慣れてしまえばどうということはない。
真に我を脅かしているのは別の「異常」である。
「ねえ聞いてよジン。今日は常連のおじいさんが大量買いしてくれたの! 嬉しいねぇ~!」
上機嫌なアリーナはいつものように我が背中に飛びついてくる。
「離れろ、歩きにくい!」
文句を言いつつ、結局そのまま運んでやるのが恒例行事だ。
そう、これだ。
以前なら「うっとうしい」で済んだはずの行為が、今は致命的な「異常」を引き起こす。
あの呪いのような願い事以降、彼女に抱きつかれたり腕を組まれたりするたびに、胸に強烈な「異常」が起こる。
痛いわけではない。だが胸がざわつき、息が苦しくなる。
これは「空腹」とも「眠気」とも違う、未知の苦痛(?)だ。
しかも、だ。
事態は悪化の一途を辿っている。
最近は触れられていなくても、彼女の笑顔を見るだけで発作が起きるようになった。
胸が苦しくなり、直視できなくなる。
この発作は日に日に強くなっている。
この感覚の正体はいったい何だというのだ!
病か! 呪いか!
考えられる原因は一つ。
あの『空腹』の願いだ。
神の体に無理やり人間的な機能を詰め込んだせいで、肉体の拒絶反応が起こっているのだ。
この強烈な感覚に押し潰され、我は消滅する運命にあるのか。
……ああ、我はもう、だめかもしれない。
――我が神生、ここに尽きたり。
【埃を被った古文書のさらに端っこに書かれたどうでもいい一節】
かつて風の神――ジンという好奇心の強い神がいた。
彼は雲の上から人間界を覗き見し、強烈な憧れを抱いたのである。
食べ物を頬張る感触。泥のように眠る快感。
そして誰かの体温を感じながら迎える朝。
それは霞を食って生きる神には手に入らない、極上の贅沢に見えたのだ。
――どうすれば人間の感覚を得られるのか?
考えあぐねた彼の脳裏に電流が走った。
そうだ! 上司(絶対神)に嫌がらせをしまくれば下界に堕とされるんじゃね!?
逆転の発想である。堕天こそが人間への最短ルートだと彼は確信したのだ。
思い立ったが吉日。
彼はその日から神界の鼻つまみ者として清々しいほどの迷惑行為を連発したのである。
果たして努力(?)は実を結ぶ。
彼の目論見通り、絶対神の堪忍袋の緒は見事な音を立ててぶち切れた。
やった、これで堕天だ! 人間ライフだ!
そう期待に胸を膨らませたジンだったが現実は甘くなかった。
「罰として貴様をこのランプに封印する。人の願いを一つ叶えるまでそこから出ることはまかりならん!」
……はい?
え、そういう方向性の罰?
肉体を持って追放じゃないの?
ジンの完璧な計算は、ここで大きく狂うこととなった。
しかも、悪いことは重なるものだ。
彼が落とされた頃、人間界では画期的な『生活魔法』が普及し始めていた。
つまりランプなどという前時代的な照明器具を使う人間は、絶滅危惧種になっていたのである。
それから二千年。
あまりの暇さにジンは自分が何者だったのかすら忘れてしまった。
残ったのは『願いを叶えねば出られない』という強迫観念だけ。彼はただの「ランプの機能」として深い眠りについた。
そして二千年後。
運命の出会いが彼を叩き起こすことになる。
呼び出したパン屋の娘のとんでもない気まぐれによって。
ジンはお腹を空かせ、パンを貪り、眠気に襲われ、そして――。
彼が二千年前に夢見た「人間らしい生活」は全力で彼に襲いかかることになったわけだが……。
それが幸福だったのか、新たな受難の始まりだったのか。
それはまた、別のお話。




