討伐
よろしくお願いします
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「ニコリナ!」
背後から声がしてハッと我に帰る。
一瞬気が遠のいていた気がする。
いけない。
振り向くと、ルカが画材を持って地下から駆け上がってくるところだった。
「ルカ、なんか、鬼螻蛄が、、きてて」
やばい、声が震える。
「下がってな。」
「でも、」
「いいから!ネロ、ニコリナと一緒にいて。」
黒猫の体を抱きしめて、テーブルの横に蹲った。
鬼螻蛄が、まるでそこに結界があるのを知っているかのようにものすごい速度で突進してくる。
いくら好戦的とはいえ、人間の棲家に突進してくるなんて異常だ。
ルカは、と見るとすごい勢いで白紙のキャンバスにペンを走らせ始めている。
「ちょ、こんな時に正気?!」
「うるさい、黙って」
「んなっ」
「大丈夫だから」
「…!!」
ぐわんっと空気が揺れる感覚がくる。
私たちが口論をしている間に、鬼螻蛄はがっぷりと結界に齧り付いた。
分厚くしていたおかげですぐに破壊されることはないが、その外殻がじわりじわりと溶かすように結界を侵蝕してしてきている。
私もまた、ルカの背中に隠されながら結界にさらに力を注いだ。
情けないことに手が震えている。
このまま結界の奥に辿り着かないまま力尽きてくれたらいいのに。
じわりと脂汗がこめかみに滲んでくる。
ジャッジャッと鬼気迫る勢いで描き上げているものをチラリと覗き見ると、それはやはり目の前の鬼螻蛄だった。
こんなときにデッサンとか狂気の沙汰としか思えない。
生気のない白目を剥いていた平面の紙の中の鬼螻蛄は写実的で現実そのもののようで、けれど現実とは違って六本の足すべてを何かに縛られている。
素早く描き終えたルカが、最後に鬼螻蛄の眼を描き入れた。
その瞬間。
ギイイイイイイイイ!!!!!!
気味の悪い金切り声をあげて、鬼螻蛄が静止した。
いや。
よく見ると、全ての足を何かに引っ張られているようにビンと足を開いている。
踠いているが、前にも後にも進めないようだ。
その様子を確かめたルカは、ふうーーっと大きく息をついて前髪をかき上げた。
「悪いな」
そう呟いてから、ビッと一本、力強い線をキャンバスに引いた。
同時に、バツンと何かが弾ける音がして、次の瞬間には鬼螻蛄の頭が地面に落ちていた。
暫し巨体を一度戦慄かせて足で空を掻いて、苦しげに踠く。ずずーんと軽い地響きを鳴らして巨大な昆虫の体が横たわった。
私はよく分からない「へあ」とか「ひえ」とか変な声をあげて見ていることしかできなかった。
腰が抜けていた。
ペンと置いて、ぱっぱっと手を払ったルカが、振り返って私を見る。
深く、優しい目だ。
「大丈夫?」
テーブルの横にへたり込んだままの私に、ルカが手を伸ばす。
彼もまた、しっとりと汗をかいていた。
「…鬼、螻蛄…ほんとに…?今の、ルカが?」
「うん。…まあ。」
「…すごい、じゃない。なに今の」
「発動までに時間がかかってしまうのが難点だけど」
そして、俺には、描き上げるまで逃げ続けるスキルはない。と冗談めかして笑う。
「は、はは…」
眼前の出来事からうけた衝撃と、混乱と、安堵とそのほか諸々の感情が入り乱れていて、言葉にならない。
体に力が入らない。
ふにゃふにゃとした変な愛想笑いだけが漏れた。
そんな私をぐいと引っ張り上げてルカが立たせてくれた。
目の前に立つ顔色の悪い、猫背の男が、これまで私の知っていた彼とはまるで違う男に見えて、なんだか怖いような、不安なような、心臓を掴まれたようなおかしな心地がして、背中がざわざわとした。
立ち竦む私の頭をぽんぽんと軽く叩くと、ルカは「疲れた、少し休む」とだけ言い残して寝床へ休みにいった。
虚弱なのは変わりないようだと、私は心配すべきところを何故かホッとしてしまった。
私の方もいまだ魔法のコントロールは効き辛く、体調が思わしくなかった。夜もテーブルに乗っている果物を適当に摘んでそのままソファで休んだ。
ルカは食べなくて大丈夫だろうか、と少し気になったけれど、なんだかハンモックのある奥の部屋に行くのが躊躇われて、結局声をかけなかった。
鬼螻蛄の使える素材を切り出して、ギルドに報告する手筈を整えるなどやるべきことは色々あったが、頭も働かなかったし、体もだるかったので諦めた。
ただ、さっき目撃したばかりのルカの戦い方を脳内で何度もなんども反芻していた。
そうしていつのまにか浅い眠りに就いていた。
頬に、柔らかな感触。
それから、ふわりと、肩が暖かくなったのを感じてぽつりと瞼を持ち上げた。
薄暗いはずの室内はいつもより物の影が濃い。
もう夜半過ぎだろうか。
まもなく満ちる月の光が斜はすに差し込んでいる。
灯りのない室内でも、目の前に誰がいるのか、今日はよく分かった。
肩を揺らして半身を起こすと、すぐ近くにいた影は動揺したように少しだけのけ反った。
「ごめん。起こした」
「ううん。こっちこそ…、ごめ、うたた寝しちゃった、また…」
どうやら寝転んでそのまま眠ってしまっていた私を見つけてリネンを掛けてくれたみたいだ。
片手で押され、促されるままにぽふんと再びクッションに頭を下ろす。
そのままおでこを撫でられた。
なんだか子ども扱いされているみたい。
でも今は何故か嫌な気持ちにはならなかった。
ルカの手はいつもひんやりと冷たかった気がするけど、今日はぽかぽかと暖かい。
そのまま目を細めて、掌の感触を愉しんだ。
「…ルカは?」
とろんとした目のままで、尋ねる。
「ん?」
「…寝てなくて、へいき?」
私の問いかけを聞き漏らすまいとするように、ルカが少し身を屈めて、私に顔を近付ける。
「うん。たしかめたくて…」
「なにを?」
ルカの声が掠れて甘く聴こえる。
額に乗せられていた手が、するりと頬に移動した。
さっきも、もしかしからこうやって頬に触れていたのだろうか。
知らず、私は彼の手の上に自らのものを重ね合わせていた。
「…ニコリナが、……いることを。」
そういうと、ふっと小さく息をついた。
頬に触れる指が熱くて、震えている。
少し細めたルカの目が、潤んでいるように見える。
暗がりでも僅かに光を湛えたそれに見入っていると、少しずつ、瞳が大きくなる。
「え、る、るかっ?わ、ちょっ、待っっ…!」
ぼうっとしている間にルカの顔がどんどん近付いて来ていたことに遅れて気がついて、あわあわと押し返そうとする。
けれど、細身の体は思ったよりも幅が広くて、重たい。
持ち上げることを諦めて、覆い被さってくるルカの背中をバシバシと叩いた。
脳みそがぐるぐるする。
「ちょ、ちょっとルカ、そういうことは駄目よ?!わたっ、わたしはあくまで健全な共同生活をだねっ…、て、う、わひゃっ?!」
ジタジタと今度は足もばたつかせたら、なんとルカがずるずると落ちそうになる。
慌てて両腕を掴んで、床にずり落ちるのを引き留めた。
もしやと思いルカの額に手を置き返してやると、随分と熱かった。呼吸も荒い。
「…って、熱あるんだが?!」
紛らわしいことを!と羞恥心から怒りが沸いたがどうやら病人らしいので罵詈雑言はそっと胸にしまった。
ありがとうございます




