表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

第1話『記入欄は空白のまま』

本作は、

「問題が起きなかった記録」を描く物語です。


大きな事件は起きません。

誰かが裁かれることも、救われることもありません。


学校という制度の中で、

正しく判断され、

正しく処理され、

結果として 特に何も起きなかった。


それだけの話です。


けれど、

何も起きなかったという事実の内側には、

使われなかった反応が、確かに残っています。


これは、その残留についての記録です。



放課後の校舎は、完全には静まりきっていなかった。

運動部の掛け声が、窓を閉め切った廊下の奥まで微かに届いている。

音楽室の方角からは、同じ旋律が何度も繰り返されていた。

誰かが途中で止め、また最初から弾き直しているらしい。


彼は、その音の流れから外れるように歩いていた。

部活棟とは反対側の廊下。

人通りは少ないが、無人ではない。

すれ違う教師もいれば、用事を思い出したように戻ってくる生徒もいる。


ただ、その時間帯に、その廊下を使う生徒は決まっていた。


委員会室の前で立ち止まる。

扉は開いている。

閉められているところを、彼はほとんど見たことがない。


防犯上の理由ではない。

風通しの問題でもない。

「閉める必要がない」という判断が、以前から共有されているだけだ。


中に入ると、すでに何人かが席についていた。

全員が同じ制服を着ているが、座り方や姿勢は微妙に違う。

誰かは深く腰掛け、誰かは机に近づきすぎている。


挨拶はない。

不要とされているわけではないが、

わざわざ発生させる理由もない。


机の中央には、トレーが置かれている。

その中に、すでに何枚もの用紙が重なっていた。

紙の色、サイズ、罫線は同じ。

だが、文字の量が揃っていない。


ある紙は、隙間なく埋まっている。

ある紙は、必要最低限の記載だけで終わっている。

どちらも間違いではない。


彼は自分の席に座り、鞄からペンを取り出した。

インクの残量を確かめる必要はなかった。

このペンは、前にも使っている。


最後に残った一枚を、そっと引き寄せる。

紙が机の表面を滑る音が、小さく鳴った。


項目は多くない。

日時。

場所。

対象。

経過。


それぞれの欄は、あらかじめ決められた大きさで区切られている。

書く量が多ければ足りなくなるし、少なければ余る。

どちらの場合も、後から問題にされることはない。


日時を書く。

数字を並べるだけの作業だ。

場所も同様だった。


対象の欄で、ペン先が一瞬止まる。

誰の名前を書くかは決まっている。

迷う必要はない。


経過。

ここが一番長くなることが多い。

だが今日は、そうでもなかった。


彼は起きたことを順番に思い出す。

時系列に沿って、必要な部分だけを抜き出す。

省略しても問題にならない部分は、最初から含めない。


文章は整っている。

誤解の余地も少ない。


書き終えたところで、視線が自然と下に移る。


特記事項。


最後の欄。

線で区切られているが、他より少し余白が広い。


彼はそこを、一度だけ見る。

文字を書き込むためではない。

確認するためだ。


今日の出来事には、特記事項がない。

少なくとも、記載する必要があるようなものはない。


誰かが困ったわけでもない。

大きな声が出たわけでもない。

時間割が乱れたわけでもない。


注意喚起で済む話だった。

それも、既に済んでいる。


だから、特記事項はない。


彼はペンを置いた。

ペン先が紙から離れる瞬間、

空白が、ほんの少しだけ長く感じられた。


ただ、それだけだった。


気にするほどではない。

空白は空白として存在する。

埋める必要がなければ、残される。


委員会の顧問は、その日も来なかった。

来ない日の方が多い。

それは、問題が起きていない証拠とされている。


誰もそれを疑わない。

疑う理由がない。


彼は用紙をトレーに入れた。

重なった紙の上に、自分の紙が加わる。

順番は気にしない。

後でまとめて処理される。


作業は、それで終わりだった。


帰り支度をして、委員会室を出る。

扉は閉めない。

閉める理由がない。


廊下に出ると、少しだけ空気が変わった。

外の音が、さっきより近く感じられる。


校門へ向かう途中、スマートフォンを取り出す。

画面には、通知がいくつか表示されていた。

クラスのグループ。

別の委員会連絡。

どうでもいいスタンプ。


その中に、少しだけ引っかかる文面があった。

特別な言葉ではない。

誰かを名指ししているわけでもない。


ただ、読む順番が変わると、意味が揺れる文だった。


彼は既読を付けなかった。

返信もしない。


代わりに、メモアプリを開く。

白い画面が表示される。

何を書こうとしていたのか、最初から決めていたわけではない。


数行、文字を打つ。

消して、また打つ。

文章になりそうで、ならない。


途中で手を止める。

保存はしなかった。


理由を考える必要はない。

保存しない、という判断もまた、判断の一つだ。


家に着く頃には、

何を書こうとしていたのか、

はっきりと思い出せなくなっていた。


玄関で靴を脱ぎ、部屋に入る。

鞄を机の横に置く。

制服を脱ぎ、椅子に掛ける。


明日も委員会はある。

同じ時間。

同じ席。

同じ用紙。


問題が起きなければ、それでいい。


彼はそう判断して、

その日のことを終わらせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ