犬鳴峠
第一章 犬鳴山
福岡県、その北部に位置する犬鳴山。標高は決して高くはない。しかし、その山容は周囲の風景とは一線を画し、どこか異質な雰囲気を漂わせる。鬱蒼と茂る木々、静寂に包まれた山道、そして時折聞こえる風の音だけが、そこにある静けさを際立たせる。
地元民は犬鳴山のことを「いぬなきとおげ」ではなく「いんなきとおげ」と呼ぶ。
犬鳴山は古来より、人々の畏敬の念を集めてきた場所である。それは、山中に点在する古刹や、山腹に刻まれた無数の石仏が物語る。しかし、犬鳴山にはもう一つ、人々の記憶に深く刻み込まれた物語がある。それは、数々の悲しい出来事が起きたという側面である。
その昔、この山には多くの村落が点在していたという。人々は山に寄り添い、自然と共存しながら、静かで穏やかな日々を送っていた。しかし、時代は移り変わり、村々は次第に衰退していった。そして、ある日、村人たちは恐ろしい出来事に遭遇する。それは、疫病の流行である。
疫病は瞬く間に村中に広がり、多くの命を奪っていった。村人たちは恐怖と絶望に打ちひしがれ、神仏に祈りを捧げ、病魔退散を願った。しかし、疫病は収まる気配を見せず、村は死と悲しみに満ち溢れた。
やがて、村人たちは疫病から逃れるため、山奥へと逃げ込んだ。しかし、そこは人里離れた荒涼とした場所で、食料も水も乏しかった。飢えと疲れ、そして絶望にさいなまれた村人たちは、次々と命を落としていった。
そして、村人たちは最後の力を振り絞り、犬鳴山へとたどり着いた。しかし、そこにはすでに疫病で亡くなった村人たちの亡霊が待ち受けていた。村人たちは亡霊に襲われ、次々と命を落としていった。
こうして、犬鳴山は多くの村人たちの悲しみが凝縮された場所となり、現在もなお、その悲しみは山中に漂っていると言われている。
犬鳴山には、今もなお多くの心霊現象が報告されている。夜になると山道から悲鳴が聞こえたり、人影がうっすらと見えたりするのだという。また、山中に車を走らせると突然車が動かなくなるという現象も報告されている。
犬鳴山は、人々の記憶に深く刻み込まれた悲しい歴史を持つ場所である。その歴史は、現在もなお、山中に漂う静寂の中に、そして人々の心に深く刻み込まれている。
第二章 犬鳴峠
福岡市街地の喧騒を背に、車は山道をぐんぐん登っていく。窓の外には次第に緑色が濃くなっていく木々。街の灯りは遠くになり、代わりに夜空に煌煌と輝く星々が現れる。
目指すは、犬鳴村。福岡市街地から車で約一時間、犬鳴峠を越えればたどり着く。静かで少し寂しい村だ。しかし、その静けさの裏には人々の記憶に深く刻まれた凄惨な事件の影が潜んでいる。
犬鳴峠は、かつては山賊が跋扈し、旅人を襲う危険な場所だったという。険しい山道は、夜になると深い闇に包まれ、人々の恐怖心を煽る。峠の頂上付近には、今もなおその事件を彷彿とさせるひっそりと佇む廃屋がある。
事件はある冬の夜に起きた。峠道を越えるため夜道を走っていた自動車が、突然路肩の雪に滑り込み、深い谷底へと転落した。車には若い男女二人が乗っていた。男は会社勤めのサラリーマン。女は彼の恋人だった。
事故は一瞬にして起きた。車は谷底へと落下し、激しく転がり木々に激突した。激しい衝撃で車は粉々に砕け散った。
翌朝、車の残骸が発見された。しかし、二人の姿はどこにもなかった。警察は捜索活動を行ったが、二人の遺体は発見できなかった。
それからというもの、犬鳴峠では奇妙な噂が囁かれるようになった。夜になると峠道から悲鳴が聞こえるというのだ。また、峠道を通る車のライトが突然消えてしまうという現象も報告された。
人々は二人の亡霊が峠道に現れ、事故を起こした場所をさまよっているのではないかと噂し始めた。そして、犬鳴峠は、"呪われた峠"として人々の恐怖の対象となっていった。
事件から長い年月が経ち、峠道は整備され、かつての危険な道は影を潜めた。しかし、犬鳴峠にまつわる噂は、今もなお人々の間で語り継がれている。そして、その噂は事件の悲惨さを、そして二人の無念さを語り継いでいる。
第三章 黒岩と松田
昭和六十年。警察署には定年前の刑事と新米刑事、二人の姿があった。
「おい、松田君。犬鳴峠の事件、知ってるか?」
警部補の黒岩鉄男は古びた革張りの椅子に深く腰掛け、煙草の煙を吐きながら新米刑事の松田勇太に問いかけた。松田は黒岩の言葉に顔をしかめた。
「え、あの車の転落事故のことですか?あれは、もう何年も前の話ですよね?」
松田は少し眉間に皺を寄せて黒岩に聞き返した。
「そうだな。もう二十年以上前の話だ。当時、俺は現場に駆けつけたんだ。あの事件は忘れられない」
黒岩は遠い目をして当時のことを語り始めた。
「あの日は雪が降っててな。峠道は凍り付いてて、かなり滑りやすかったんだ。車はガードレールに激突して、谷底に転落した。運転手と助手席の女は跡形もなく」
「え、遺体は?」
「見つからなかったんだ。捜索は数週間続いたが、結局遺体は発見できなかった。あの事件は、未解決のまま、みんな忘れ去られていったんだ」
「でも、なんで?」
「なんでって、理由は簡単だ。犬鳴峠は昔から事故や事件が多い場所として知られてるんだ。地元の人たちは、あの峠を「呪われた場所」って呼んでるんだ。だから、みんなあの事件を忘れようとして真相を闇に葬ろうとしたんだろう」
「でも、黒岩さん、なんで今更その事件を?」
「松田君、俺はあの事件が単なる事故じゃないと思ってるんだ。何か隠された真実があるはずだ。だから、もう一度あの事件を調べ直したいんだ」
「黒岩さん?」
「松田君、一緒にあの事件の真相を暴こう。あの峠に眠る真実を俺たちの手で明らかにするんだ」
黒岩は力強い眼差しで松田を見つめた。松田は黒岩の熱意に心を揺さぶられた。
「分かりました!黒岩さんと一緒に事件の真相を暴きます」
松田は黒岩に力強く宣言した。
「よし!じゃあ、まずは当時の資料を集めよう。それから関係者に話を聞いてみよう。きっと何か手がかりが見つかるはずだ」
黒岩は再び力強い眼差しで松田を見つめた。二人の刑事の犬鳴峠の真実を求める旅が始まった。
第四章 聞き込み調査
「全く、資料には何も載ってないのか」
松田勇太は机に置かれた資料の山を呆然と見つめていた。黒岩鉄男はそんな松田に言葉をかけた。
「松田君。まだ諦めるな。きっと何か手がかりが見つかるはずだ」
「そうですね。でも、もう二十年以上前の話ですし、当時の関係者も多くは亡くなってるでしょうし」
松田はため息をついた。犬鳴峠の転落事故の資料を調べ始めてもう一週間が経つ。しかし、一向に手掛かりは掴めない。当時の警察の記録は事故としか書かれていない。関係者の証言も、ほとんどが「よく覚えていない」という曖昧なもので役に立たなかった。
「黒岩さん、どうしますか?次は犬鳴村に行って、村人に話を聞いてみるのはどうでしょうか?」
「そうだな。村人に話を聞くしかないな。村にはあの事件の真相を知っている人がいるかもしれない」
黒岩は決意を固め、松田と共に犬鳴村へ向かった。犬鳴村は静かで、少し寂しい村だった。古い家並みが続き人影もまばらだ。
黒岩と松田は村の中を歩き回り、村人に声を掛けた。しかし、誰も事故について話そうとしなかった。
「あの事故のことは、もう忘れたいんだ」
「あの峠は、呪われているんだ」
村人たちは口々にそう言い、目をそらした。
「一体、何がそんなに恐ろしいんだ?」
松田は村人の反応に疑問を感じた。
「松田君、犬鳴峠は、昔から事故や事件が多い場所として知られてるんだ。村人たちは、あの峠を恐れているんだ」
黒岩は松田に説明した。
「でも、なんで?」
「理由はわからない。でも、村人たちはあの峠を恐れている。そして、あの事故のことは決して語りたくないんだ」
黒岩と松田は、村の中を歩き続け、諦めずに村人に話を聞いて回った。すると、一人の老婆が二人に近づいてきた。
「あんたたち、何しに来たんかね?」
老婆は鋭い目で二人を見つめた。
「あの、犬鳴峠の事故について、何かご存知ですか?」
黒岩は老婆に尋ねた。
老婆はため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「犬鳴峠の祟りじゃよ」
老婆はそう言うと、あとは何も言わずに村の中へと消えていった。
黒岩と松田は、老婆の言葉に言葉を失った。
「祟り?」
松田は老婆の言葉の意味がよくわからなかった。
「松田君、世の中には科学では説明できないことがたくさんあるんだ。犬鳴峠の祟りも、その一つかもしれない」
「黒岩さん、一体どうすれば?」
松田は黒岩の言葉に不安を感じた。
「松田君、大丈夫だ。俺たちは諦めない。あの峠の真実を必ず明らかにしてやる」
黒岩は松田の肩に手を置き力強く言った。
黒岩と松田は、犬鳴峠の真実を求めて再び歩き出した。
第五章 調査中止命令
「黒岩さん、電話です」
松田勇太は、黒岩鉄男の机に向かってそう告げた。黒岩は資料に目を落としながら、ため息をついた。
「なんだね、松田君?」
「えっと、署長からです」
松田は受話器を黒岩に手渡した。黒岩は受話器を受け取った。
「はい、黒岩です」
「黒岩君か。署長だ」
電話口から、署長の威圧的な声が聞こえた。
「はい、署長。何かご用件でしょうか?」
「犬鳴峠の事件の調査は中止しろ」
署長の言葉に、黒岩は一瞬言葉を失った。
「え、署長?なぜですか?まだ真相は明らかになっていません」
黒岩は署長の言葉に反論した。
「理由は聞かなくていい。とにかく中止しろ」
署長は冷たく言い放ち、電話を切った。
「署長の命令ですから、調査は中止するしかないんじゃないでしょうか?」
署長と黒岩の会話を横で聞いていた松田は肩を落とした。
黒岩は言葉に詰まった。
「黒岩さん」
松田は黒岩に言葉をかける。
「黒岩さん、あの老婆の言葉、「犬鳴峠の祟り」、もしかしたらこの電話も祟りかもしれませんね」
松田はそう言うと、黒岩の顔を見つめた。
「松田君、俺たちはあの峠の真実を絶対に暴く。たとえそれが祟りであろうともな」
黒岩は力強い眼差しで松田を見つめた。
松田は黒岩の言葉に安堵した。
「黒岩さん、」
松田は、黒岩の言葉に心を強くした。
黒岩と松田は、再び犬鳴峠の真実を求めて歩き出した。
「黒岩さん、あの電話、本当に祟りだったのでしょうか?」
松田は黒岩に尋ねた。
「わからない。でも、あの電話は俺たちに何かを警告しているような気がするんだ」
黒岩はそう言うと、再び遠い目をして犬鳴峠を見つめた。
第六章 真相
「黒岩さん、署長が、亡くなったそうです」
松田勇太は震える声で黒岩鉄男に告げた。黒岩は松田の言葉に一瞬言葉を失った。
「え、署長が?」
「はい、自殺だそうです。遺書が残っていたそうです」
松田は言葉を詰まらせながらそう言った。黒岩は松田の言葉に何かを感じた。
「遺書?」
「はい、遺書には犬鳴峠の事件の真相が書かれていたそうです」
松田はそう言うと、黒岩に署長の遺書のコピーを見せた。黒岩は遺書に書かれた内容に目を疑った。
「まさか、まさかこんなことが」
黒岩は言葉を失い、遺書を何度も読み返した。遺書には犬鳴村の恐ろしい真実が書かれていた。
***
犬鳴村では、古くから百年に一度、若い男女を生贄に捧げないと村に災いが齎されるという言い伝えがあった。そして、丁度その頃に署長の祖父が犬鳴村の村長をしていたのだ。 署長の祖父は、当時、その犬鳴峠の事故を聞きつけ、村人に二人の遺体を引き揚げるように依頼した。そして村長は二人の遺体を生贄として犬鳴峠に埋めたのだ。
しかし、そのことを知った当時の警察署長をしていた署長の父は、その死体遺棄事件を隠蔽した。そしてその子である現在の署長も、その隠蔽を継続していたのだ。
「まさか、署長の父親もこの事件に関わっていたとは」
黒岩は言葉を失い、遺書を見つめた。
「黒岩さん、どうしますか?」
松田は、黒岩の言葉に不安を感じた。
「松田君、俺たちはこの真実を、世間に公表する。そしてあの峠に眠る二人の無念を晴らすんだ」
黒岩は力強い眼差しで松田を見つめた。
「でも、黒岩さん、村人たちはあの峠を恐れています。もしかしたら、この真実を公表することで、村に災いが、」
「松田君、俺たちはもう何も恐れることはない。俺たちは真実を追求する。それが俺たちの使命だ」
黒岩は、そう言うと再び遺書を見つめた。
「黒岩さん」
松田は黒岩の言葉に心を強くした。
黒岩と松田は、犬鳴峠の真実を世間に公表することを決意した。そして二人は再び犬鳴峠へと向かった。
「黒岩さん、署長はなぜ自殺を選んだのでしょうか?」
松田はその道すがら黒岩に尋ねた。
「わからない。でも、彼はきっとこの真実を公表されることで村に災いが訪れることを恐れていたんだろう。しかし、もうその重圧、自責の念に堪えられなかった」
黒岩はそう言うと、再び遠い目をして犬鳴峠を見つめた。
「これが犬鳴峠の祟りという奴なのだろう」
黒岩はぽつりと呟いた。
黒岩と松田は、二人の無念を晴らすために歩み続けた。
そして数日後、二人を含む捜索隊は犬鳴峠に眠る二人の遺体を発見した。署長の遺書には遺体が埋められた場所も記載されていたのだ。
「黒岩さん、これがあの二人の遺体ですね」
松田は、遺体を前にそう呟いた。
「ああ、これがあの二人の遺体だ。二十年以上、この峠に眠っていたんだ」
捜索隊は二人の遺体を丁重に土中から掘り出した。
そして、黒岩と松田は犬鳴峠の真実を世間に公表した。
犬鳴村の生贄の儀式は世間に知れ渡り、村人たちはその儀式を中止することを決めた。
そして、犬鳴峠は再び静寂を取り戻した。
しかし、黒岩と松田は、あの峠に眠っていた二人の無念を決して忘れることはなかった。
田舎に帰省する際は必ず通る峠です。